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04月21日
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教育を興す希望のために タイ・チェンマイ慈済学校

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学校創立から五年、ファーン郡のチェンマイ慈済学校の小学校部はすでに三回の卒業生を送り出しました。

タイ語でファーンとは「根差す」という意味です。慈済学校は中国語とタイ語による二カ国語の授業方式を採用し、優美な人文の雰囲気の中で礼儀や道徳を教えています。

慈済学校の設立は、教育資源に乏しいタイ北部の山地に住む子供たちにとって大きな助けとなり、異郷にさすらう華人系子弟に先祖伝来の文化が根差す一助となっています。

タイ北部にあるタイ第二の都市チェンマイ。かつてタイ史上初めての独立国・ランナータイ王朝の首都として栄え、タイ北部の宗教、文化、貿易の中心でもありました。

一九四〇年代、中国で国民党と共産党の内戦が起こった際、雲南地方出身の兵を主力とした国民党軍が一族郎党を率いてミャンマーからタイ北部の山奥に逃げ込み、大小合わせて六十四カ所の難民村を建てて六万人もの難民を収容しました。

「黄果園村は当時、負傷兵とその家族を収容した村でした。国共内戦の頃、家に二人以上男がいれば、一人は必ず兵隊に行かなければなりません。私の兄も一人、徴兵されました」と慧萍さんは言います。戦況は惨烈を極め、残った家族は生きていくのに大変辛い思いをしました。

共産党軍が優勢となり、国民党軍が台湾に逃げましたが、彼らは故郷にも帰れず、台湾にも行くことができませんでした。進退極まり窮地に陥った人々は、タイ北部一帯にとどまり、粗末な家をつくって田畑を開墾しました。故郷の雲南でよく見かける柑橘類を植え、それに因んで黄果園村と命名しました。「もう自分たちはどこにも行けないとあきらめたけれど、唯一つ我々が承知できなかったのは、我々の民族のルーツを断ち切られることでした」それで村の皆が総出で空地を整理して、わらを拾い集めて教室を建て、子供たちは家から椅子を持ち寄りました。少しばかり知識のある元兵士が教師となって、中国語や算術を教えました。

しかし、異郷の異文化社会の中では、彼らはマイノリティーでした。

「タイの地を踏み、タイの空を戴き、お月さまもよその人のものでした」自分の名前さえはっきり覚えていない九十二歳の元兵士でも、当時のあの辛く悲しい思いを忘れることはできません。中国語学校はタイ政府によって閉鎖され、二世代目の華人子弟は皆タイ国籍に帰化させられました。

生徒は最寄りの学校に編入させられました。険しい山の中にある偏鄙な地まで来てくださる先生は多くはありません。ほとんどの学校は小学部のみ、それも四年生までです。一旦先生が辞職でもすれば、新しい先生がくるまで子供たちは何カ月も授業を受けることができません。

「最も悲しむべきことは、自分たちの民族としてのルーツを断たれるだけでなく、教育の希望までも立ち切られたことです」と慧萍さんは嘆息まじりに語ります。「山の中に閉じ込められ、自給自足の暮らしをやっと送っている状態です。そんな状況の中、どうして子供を下山させてよい学校に行かせることができましょうか」と言うのでした。

こんな時代に、文化伝承どころではありません。中国語の読み書きの能力もだんだんと失われていっています。慧萍さんの娘の韓雨珊は、私たちに黄果園村と家のことを話してくれました。雨珊ちゃんは独特のアクセントのある中国語で話します。語順が時々違っていたり、タイ語や故郷の雲南方言が混ざることもあります。

貧困家庭の切実な願い
一九九二年、タイ政府は中国語教育の開放政策を実施。中国語学校は再び開校できることになりましたが、村には中国語で授業を行える教師がいませんでした。黄果園村の中国語教師、龔斯文さんは「我々のような小卒程度の教師が中学校の課程を教えるとは」と言いました。
中国語学校の先生自身が完全でないため、教科書の語彙の註釈は人生経験のかき集めと字典に頼るのみでした。こんな有様でしたが、子供たちへの教育は貧困家庭が切実に願う希望の種でした。山から麓まで道路も通じ、水道も電気も山地の近くまでつながりました。しかし、住民に最も近く規模の整った学校までは、車で少くとも二〜三時間かかります。

一九九四年、慈済のボランティアがタイ北部の山村を訪れ、華人難民の状況を調査しました。そして翌年、「貧困援助三年計画」が推進されることになりました。内容は四つの難民村の建設援助、二カ所の元兵士養老センターの費用負担、それに農業指導援助と貧困家庭の医療補助を行うというものでした。

慈済ボランティアの林美彣さんは当時を回顧して、「三年の援助計画は一時的なもので、私たちはさらに進んで状況の改善をしようと調査を行いました。困難を生み出す根本的な問題は何だろうかと考え、それは教育の欠乏であるという結論に達しました」と語りました。慈済ボランティアはさらに、奥深い山地の子供たちが教育を受けられるよう計画を進めました。林美彣さんは、教育を受ける機会がないために仕事の能力に欠け、生活を改善するのは非常に難しいと言います。

慈済の「当地で教育の機会をつくろう」という考えが徐々に具体化していきました。まず奨学金を設置してより多くの子供を学校に復帰させる一方で、学校建設の敷地を探し、一時的な困難解決から「百年の教育大計」に発展させることを誓いました。

タイ北部と首都バンコクの慈済ボランティアは「自力更生」と「現地資源の活用」の精神を堅持し、学校建設資金を集めるために東奔西走し、茶会や音楽会、宝石類、骨董品のバザーなどを行いました。

政府のサポートと住民からの土地提供を受け、二〇〇二年、チェンマイ県ファーン郡で慈済学校が起工しました。住民の多くが建設工事に協力しました。村の人々とタイ人の作業員は設計図を見て、「タイには台風もなければ地震もない。あんなに太い柱を立てるなんて金の無駄ではないか」と思いました。それからまもなく中国雲南地方に強烈な地震が発生し、タイ北部にまで影響をもたらしました。今では、慈済は先見の明があったと、語り草になっています。

山奥の学校、任重く道遠し
チェンマイ慈済学校は二〇〇五年に生徒募集を開始しました。中国語とタイ語によるバイリンガル教育を採用し、タイ国籍華人系の小中学生が学べるようにしました。

本年度の新学期が始まってまもなく、先生が生徒を引率して、車で二時間ほどのチェンライ県にある阿片博物館を参観しました。引率のピーチャ先生は「タイ北部では麻薬が蔓延しており、最近では学校にまで麻薬の魔の手が伸びてきました。それで私たちは生徒に麻薬がもたらす害を教えるため、この阿片博物館を参観する校外学習活動を企画したのです」チェンマイ慈済学校はただ教育を行うだけでなく、現地の地理環境や時代背景についても配慮しています。ファーン郡はタイ北部の辺鄙な地方で、ミャンマーとラオスに接しています。この一帯の山地は一九六〇年代、地理と気候の条件がケシの成長に適していたので、大量に栽培が行なわれ、阿片が製造されました。さらにヘロインも製造され、世に悪名高き四大麻薬産地の一つとなったのです。

一九八八年、タイはケシ栽培を一般農業に切り替え、国境住民の医療資源の不足と経済を改善するべく計画を実施しました。その結果、現在ではケシの作付面積はほとんどなくなりましたが、麻薬の入手と流通はいまだに容易であり、生徒が麻薬を服用したり販売に手を染めるなどのケースを耳にします。このこともタイ北部の学校が抱える深刻な問題です。

「子供は単純です。未来の発展のため、我々は知識を与えると共に、物事の是非判断を教えます」。林美彣さんは、「当時タイ北部で学校を建てると決定した時、證厳上人様は『学校はただ教育を施すだけでなく、人を救わなければなりません』とおっしゃいました」と語りました。

チェンマイ慈済学校の優れた教育環境を維持するため、タイの慈済ボランティアは毎年千二百万バーツ(約三千二百万円)の費用を負担しなければなりません。毎年この多額の費用は皆ボランティアの努力で募られてきました。責任重大でそれにかかる心理的圧力も重いですが、四方八方の志を同じくする人から、この学校のために支援が寄せられています。

開校から五年、十九クラス、生徒数五百五十名にまで発展しました。生徒の増加につれてタイの慈済ボランティアの負担も増します。しかしボランティアたちは百年、千年の後までも、この力量をずっと発揮していこうと誓いました。「私たちはたゆまず堅持して参ります。この学校がタイ北部山地の教育に深く影響し、大きな意味を持つものであることをよく了解しています」

(慈済月刊五三〇期より)
訳/王得和
撮影/林炎煌