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04月18日
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朝顔のように優しい 日本支部のボランティア

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【慈済日本支部の「女性軍」たち】

二十数年間
この台湾から来た女性たちは
毎日、時間を見つけて
慈善奉仕活動に打ち込んできた
東日本大震災の被災状況は
これまでにないひどいものである
しかし、彼女たちは男性に負けず
次から次へと支援物資を運ぶ
女性の優しい心で
悲しみに暮れる被災者たちの心を
癒す手伝いをしている

一九九一年、慈済日本支部は慈済委員でリーダーであった謝富美たちによって創設され、今年、二十周年を迎えた。メンバーは相変わらず女性が多数を占め、男性は僅か十四人である。

今年三月十一日、マグニチュード九・〇の烈震が東日本に起き、大津波を引き起こすと共に、原子力発電所の損壊で放射能漏れの事故が起きた。この複合的な災害は世界的に見ても最大級である。震災から今日まで慈済ボランティアの支援は続いており、慈済の女性たちはその責任を担っている。

どんな荒仕事も彼女たちを打ち負かすことはできない。「例えば、活動会場で横断幕を屋根の辺りにかける時でも、みんなではしごを持ってきて、上ってかけます。また、十キロや二十キロの支援物資も手から手へリレー方式で運んでいます」と日本支部ボランティアのチーフである陳金発が言った。「女性の体力の限界を超える仕事もあって、ふつうなら男性がすることでも、彼女たちは勇敢に受けて立っています」

この女性たちは自分たちのことを「女性軍」と冗談混じりに呼んでいる。どんな仕事も辛いと思うこともなく、辛さの中に喜びを見出している。「困難の中から道を見つけ出すことは、私たちにとって問題ではありません。それは、多くの人が困難を乗り越えてきたからであり、困難に出会っても恐れることなく、立ち向かうことができるのです」と遠く台湾から日本に来て三十年になる劉桂英は胸を張って言った。

震災後の一週間
準備を整え出発を待つ

三月十一日午後二時四十六分の烈震は、車で八時間もかかる距離にある首都、東京でも停電を引き起こし、全ての鉄道が運行を停止した。人々は徒歩で帰宅し、深夜になっても家に着かない人もいた。

新宿にある慈済支部では当直のボランティアたちが建物の一階を開放し、道行く人たちに休息の場を与えた。人々は水分を補給してから引き続き、家路に急いだ。午前一時を回っても次から次へと人々が訪れた。

その晩、五百杯から六百杯ものお茶を提供すると同時に思いやりの言葉をかけた。支部にいなかったメンバーたちは翌朝、早くから鉄道の駅で運行の開始を待って、支部に駆けつけた。

「二時間待ってようやく始発電車が来ました。余震が絶えず起こり、何回も停電する中、電車は走ったり止まったりしました。三十分の距離を三時間かけてたどり着きました」。慈済ボランティアの張好は、数日間生活できる物資を詰め込んだ荷物を携えて来ていた。「これだけ大きな地震です。私は心の準備をしていました。災害支援はすぐに終わるわけではないと」

支部に来ることができなかったボランティアは自宅で情報収集に努め、随時、電話で報告していたが、携帯電話のバッテリーを使い果たすと、停電のために充電もできなかった。そういう状況下では何もできなかったが、せめて合掌して敬虔に被災者のために祈った。

日頃から日本全国では災害時の訓練が行われており、学校でも会社でも保温物資や食糧、飲料水などが常備されている。そして、震災発生後、各地で救済指揮センターを立ち上げ、待機している人的資源や物資を管理することになっている。

百人足らずの女性軍も被災地に赴いて手伝おうとしたが、今回も今までの災害と同じような状況に遭遇した。二〇〇四年の十月、新潟県中越地方でマグニチュード六・八の強震が起き、六十八人が犠牲になり、八万人余りが避難した。その時、慈済ボランティアは救済指揮センターに電話を入れ、支援を申し込んだが、相手は丁重に「必要ありません」という一言で電話を切ってしまった。

「日本の救済と物資配付系統は整っており、ボランティアが手伝いたいと思っても、行動に移す機会がないのです」と陳金発が言った。三月十一日の地震発生後、ボランティアは冷静に情報を集めると共に、「被災者は何を一番必要としているのか?」を考えた。

「物資が不足していなくても、おにぎりやパンなどの冷たい食事しかできない。温かい食事はお腹を満たすだけでなく、心を落ち着かせる効果もあるのだ」。ボランティアは茨城県大洗町と連絡が取れ、チャンスが訪れた。「ここは電気もガスもなく、道路も通じているかどうか分かりませんが、来ることができるのですか?」と相手が聞いた。困難な状況を聞いても、女性軍は引き下がらなかった。「大丈夫です。そちらさえよければ、行きます」

そして、三月十五日の下見に続いて、十六日の早朝、食材と飲料水、ガスボンベ、鍋、茶碗などを積み、制限されていたガソリンを何人かで買い求めて、必要分を確保し、一路避難所に向かった。二日間で千八百食の温かい食事を提供した。

初春の厳しい寒さの中
東北地方に向かう

震災発生から十一日目、新幹線がストップしたまま、東北への交通が断絶されていた時、契機が訪れた。一人の岩手県県議会議員が運行の再開された夜行バスに乗って、東京の慈済支部にやってきた。「私たちは支援を必要としています」

その頃、福島第一原子力発電所の事故が広がり、多くの国が専用機を派遣して自国民を避難させていた時である。東京から東北へ行くには誰もが恐れて逃げ出している福島県を通らなければならない。「私たちはそのことをあまり考えませんでした。被災地に支援に行けると聞くや否や、皆、すぐに準備を始めました。そして、十トンの支援物資を大型トラックに積み込んだのです」とボランティアの黄素梅が言った。被災地に向かった一行は、男性ボランティアは四人だけで、後はみな五十歳を過ぎた中年女性ばかりだった。

東北地方に着いてから、GPSが映し出す道路は全て崩れた建物に遮られ、避難所に通じるアスファルトの道も全てくねって変形していて、大型トラックは通ることができなかった。彼らは十トンの物資をリレー方式で一箱ずつ三台の小型トラックに積み替えた。「皆、自分の歳を考えず、若者のようにトラックに上ったり降りたりして積み替えました」と黄素梅は笑って言った。

三月下旬の夜はまだ零下になるが、彼らは建物本体がまだ丈夫である陸前高田市の松原苑老人ホームに泊まった。「お年寄りは皆、避難所に移っていたので、私たちは人工透析用のベッドに寝ました。そして、水道の蛇口から出る水は冷蔵庫で冷やした水よりも冷たいものでした」

翌日、最初に訪れたのは大船渡市の小学校に設置された避難所で、陳金発が中に入って交渉する間、女性軍は筋肉の疲れも忘れて気力を取り戻し、トラックの両側の止め金を外し、物資を下ろす準備をした。しかし、間もなく陳金発が戻ってくると、皆をがっかりさせた。「彼らは何も要らないと言っている」

一カ所目では断られたが、慈済の支援は続けなければならない。陳金発は国際災害支援の経験が豊富で、女性軍の力を信じて前に進むだけである。

物腰の柔らかさは女性軍というよりも、水のようにどのようにでも形をかえることができると言ったほうがよい。「この女性たちは本当に何でもこなせる、といつも言っています」と陳金発は彼女たちの能力に敬服した。「一方で、誰にも負けない元気さと気力でもって荒仕事をこなし、もう一方では、柔らかい物腰と誠実さで、被災者の閉じた心を開いてあげると共に、恐怖に打ちひしがれた心の声を聞き、涙を流す人を抱擁してあげています」

そして、二カ所目の避難所では入り口まで入ることができ、三カ所目ではボランティアがお年寄りの肩に毛布をかけることができた。

優しい言葉で傷ついた心を癒す
大船渡市赤崎漁村センターは慈済ボランティアが訪れた二カ所目の避難所であり、そこは震災後、漁師たちの避難所になっていた。ボランティアたちは玄関先で八人の被災者代表を見上げて、今度こそは物資を贈呈したいと期待した。

代表者はみな七十歳から八十歳代のお年寄りで、海に頼って生活をしてきた。しかし、一生かかって築いてきた家を海に呑みこまれてしまった。ボランティアの前にいた、心身ともに傷ついたお年寄りは、雪が降る三月の寒さに震えていた。

女性軍たちは見るに見かねて、無礼と分かってはいたが、物資の中からショールを取り出し、靴を脱いで玄関に入って、その温かいショールをお爺さんやお婆さんの肩にかけてあげた。

三カ所目は蛸ノ浦漁村厚生施設で、中に入ってもよいとの許可が出た。女性ボランティアたちはショールや毛布をたくさん取り出し、心身ともに傷つき疲れ果てた被災者に付き添い、優しく言葉をかけた。多くの人が彼女たちの肩にもたれて、震災後初めて涙を流した。

こらえていた涙
黄素梅は岩手県陸前高田市で配付活動をしていた時、ある男性に出会った。その人は千葉県で仕事をしていて、三月の休みに妻と一歳足らずの娘を伴って田舎の両親のところに帰郷していた。津波が襲った時、彼は用事のために外出していた。しかし、家に戻った時、妻も娘も両親も既に津波に流され、行方不明になっていた。

「その人が私に事情を話していた時は、まだ我慢していました」。五十歳を過ぎた黄素梅は彼の手を取り、「私の息子はもう三十過ぎです。私はあなたの母親のような歳です。もし、泣きたいと思ったら思い切り泣いてください」と言うと、その男性は堰を切ったように泣き出した。

ある女性が劉桂英の肩に顔を寄せて、「すみません。これ以上我慢できないのです」と言って長い間、涙を流しながら謝っていた。「我慢することはありません。思い切り泣いてください。そうすれば、生きていく元気が湧いてきます」と劉桂英が言った。

この台湾から来た女性たちは、細やかな気遣いと慈悲の心によって、被災して不安に駆られていた一人ひとりの心を解き放すと共に、慈母のように一針ずつ傷口を縫っていった。

ボランティアの陳雅琴は配付会場で一人のお婆さんに会った。お婆さんは涙を流しながら、財布から一枚の写真を取り出した。それはお婆さんが絵画コンクールで賞を取った時の写真で、東京美術館で展示されたこともある。「震災で全てのものをなくしました」。お婆さんの残念そうな口調にはその絵画以外のものも無くした悲しみが含まれていた。

陳雅琴はお婆さんの涙を拭ってあげ、「もう一度描いたら、きっともっといい絵になると思いますよ」と優しく言った。七十歳を過ぎても新たな人生を歩み始めることができる。会場に入ってきた時は涙を流していたお婆さんも、帰る時には腰を伸ばし、笑顔で出て行った。

人も自分も助ける女性軍
三月下旬、東京から東北地方に運んだ十トンの物資は、十三の避難所で被災者に配付された。そして、六月半ばからは数回にわたって住宅被害に対する見舞金を配付し、相変わらず柔和な態度で慈悲の心をかけ続けた。

日本支部にいる台湾女性ボランティアの家庭の事情は大雑把に三種類に分けることができる。日本人の夫を持ち経済的に問題のない女性や、医者など社会的地位の高い台湾人の夫を持つ人は少数派で、最も多いのは母子家庭の女性である。数年の結婚生活を経た後に離婚し、そのまま日本に住み着いている。そのように孤独で平凡な暮らしをする女性たちがここには集まっている。

三十年前、戦後の日本が復興する中で、台湾から仕事を求めて日本へやって来る人や国際結婚して定住する人が少なくなかった。しかし、肌の色や顔形が似通っていても、文化や価値観は大きく異なっていた。劉桂英は日本人の夫と離婚した後、幼い二人の子供を連れて生活しなければならなかったが、東京では頼る人もいなかった。

「支部ができた始めの頃、半数以上の人が母子家庭でした」と劉桂英が言った。「故郷を離れて日本に来た私たちは、異文化に溶け込んではいましたが、慈済という台湾人の団体に出会った時、とても嬉しかったのを覚えています。精神面で頼れたからです」

当時、支部は二十坪大の小さなアパートにあった。三つの部屋は全て六畳間で、二つの机とコピー機などを置いたら、もういっぱいだった。しかし、女性たちは喜んでそこに集まった。「台湾語が聞けるし、台湾の食べ物もあり、お互いに慰め合うと同時に、そこは私たちにとって実家のようなところでした」

二十年前、彼女たちは傷ついた心のまま日本支部に行き、助けを求めた。そして、今は体が少しずつ衰え始めてはいるが、被災地を回って人々を慰めている。今も精神面や日常生活面でいろいろな問題がなくなったわけではないが、慈済はいつまでも彼女たちの心の確固たる避難所なのである。

「四十五年前、慈済功徳会は三十人の主婦がいなければ、設立されていなかったかもしれません」。劉桂英は日本支部の設立当初のメンバーを思い出していた。「二十年前、日本支部もこのお母さんたちがいなければ、成り立たなかったかもしれません」

絶対に引き下がらない
「日本にはいろいろな税金があって、税率も高いのです。税金の多くは社会福祉のために使われています」。現在、支部の責任者である張秀民は、失業者や単親、身障者などであれば、月々補助金をもらうことができると説明してくれた。しかし、「老人介護施設に行って、車椅子を押したり、食事を食べさせてあげるなど、お年寄りの介護をする仕事は、全て免許が必要なのです」

この健全な社会福祉制度の下では、熱血な女性軍にも出番はなく、海外から来た旅行者に対する緊急案件の手伝いをするしかなかった。「外国人が日本で慈善行為をするのは、石の中から出口を探すようなものだ、といつも言っています」

「日本のバブル経済が崩壊した後、失業者が増えても、政府はその世話をしていますが、ホームレスの数が余りにも多いため、世話をしきれていません。そういうところに私たちの出る幕があるのです。毎月、ホームレスに食事を提供しています」

それほど仕事は多くはないが、そのような女性たちだけでは手に余ることもあった。単親の母親は生活のために働かなければならず、仕事に出る時間が大部分を占めてしまうので、夜や休日の時間を使うしかない。また、家庭のある人はそれに縛られてしまう。「ボランティアの中には夫や子供が出かけた後に支部に来て、午後は五時頃に家族が帰る前に家に戻る人もいます」

この二十年間、日本支部はこのようにしてやってきた。人数が少なくても何でもしたい。そして、やることができると、皆が分担して少しずつ時間を作って任務をこなした。例えば毎月二回、ホームレスにおにぎりを提供する場合、その準備作業が大変であった。数十人のボランティアが各自、仕事を終えた後に集まる。千二百食分の米を研ぐだけでも夜中の十一時や十二時までかかり、明け方に仕事を終えることもあった。そして、翌朝早くから炊き上げて、おにぎりを作るのだった。

「慈済ではこういいます。女性は男性として扱い、男性はスーパーマンとして扱う、と」。陳金発が彼女たちを賞賛するのにはわけがあるのだ。「とくに今回の大震災の後、彼女たちの精神と能力が今まで以上に発揮されています」



六月から十月の下旬まで、慈済の災害援助団は七回にわたって東北の被害の大きかった地方で数万世帯に住宅被害見舞金を配付した。家族構成の人数によって三万円、五万円、七万円が支給された。物価の高い日本において、今回の見舞金は多いとは言えない。しかし、女性軍たちがもたらした愛は人々に感動を与えるかもしれない。

被災者たちは避難所から始まり、今は仮設住宅や借家に住んでいるが、復旧するまで辛抱強く待っている。臨時の住まいの小さな庭先に朝顔を植える人が多い。この花は朝日が昇ると咲くので、その美しい名がついている。震災後、人々はそれを植えて、朝日の光の中で新たな人生を見出そうとしている。

ある被災者は言った。「この女性ボランティアたちは、朝顔のように優しくて私たちに希望をもたらしてくれました」


文・凃心怡
訳・済運
(慈済月刊五三九期より)