慈済日本のサイト

05月26日
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なせば幸福はここに

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【證厳法師のお諭し】
幸福とはなしてこそできるもの
足るを知り
豊かな生活に感謝して
己を祝福し 
福を植えることを心得よう
福のある人が奉仕する僅かな愛で
苦難の衆生は安らかな人生に向う
心にある幸福感を高めよう
 

時はまたたく間に過ぎ去り、まもなく新しい年が巡ってまいります。

二〇一一年十一月中旬から、私は台湾全島へ歳末祝福祈祷会の行脚を始めました。慈済道場は和気藹々とし、お年寄りや若者、幼い子供までが喜びに満ち溢れていました。

慈済人は地域の人たちに法を伝え、至る所が道場になっています。それは大小さまざまの慈悲の法船が錨(いかり)を上げ、法の海原の中で人々を法水で潤し、智慧を授けているかのようです。この世の菩薩たちのいる浄土はなんとも清らかで美しいものです。



台湾だけでなく世界に慈済人のいる所、凍りつく北半球、あるいは酷熱の南半球で、ボランティアたちは各地で配付活動を行い、歳末祝福祈祷会を初めています。民族、宗教の違いに拘わらず愛と労りで奉仕をしています。

二〇一一年十二月中旬、慈済の配付団員は再び北朝鮮へ出発しました。年越しに間に合うよう現地の貧しい民衆に食糧を配付するためです。

北朝鮮は世界でも少数の社会主義国です。政治は閉ざされ、国民は保守的で慈済人が援助に入るのは容易ではなく、幾多の試練を乗り超えなくてはなりませんでした。しかし、摂氏零度以下の寒冷で暮らす老弱男女が食糧を受け取る時の笑顔を見ると、たとえその道がどんなに険しくとも、着実に奉仕をしています。

慈済人は慈悲心を以って、人々をお助けするために慈悲の法船を動かしています。この人たちは「菩薩が人間界を廻っておられる」ように救済に専念し、心は安らかで何のわだかまりも煩悩もありません。菩薩道を歩む上では、時と因縁を把握し、力の限り真実の奉仕を尽くさなければなりません。

深く人中に入って苦を体得すると、身分にとらわれず愛の奉仕ができ、心は思いのままで環境に影響されません。これが『無量義経』が説く「出入水火身自由(水や火の中に出入りしても体は自由である)」の真の境地です。


布施には平等の観念が必要
大慈で道を敷き 
大悲で橋を造る
愛は口で唱えるのではなく 
行動で示すもの


『金剛経』に「若以色見我、以音声求我、是人行邪道、不能見如来」とあります。一心に求めようとすると、容易に迷って善悪の見分けがつかなくなり、道からだんだん遠ざかって、清浄平等の仏の心に応じられない、ということです。

仏典の中にこんなお話があります。

普段から三宝を敬っている居士がおり、いつも寺院へ文殊菩薩を拝んでいました。全身に瓔珞(ようらく)の飾り、手に煩悩を絶ち切る刀を持っておられるお姿を拝む度に、心から喜びが湧き上がってくるのです。それで、文殊菩薩に向かって、「どうかおでましになって私に智慧をお与え下さい」とお願いしました。
毎日お願いしても叶わないので、今度は真心を尽くして宴席を設け僧侶衆をお供えしたら、文殊菩薩もその席においで下さるだろうと考えました。万端の準備を整えた宴席は盛大で厳か、立派な椅子を置いて文殊菩薩のおでましを待っていました。

期待に胸を弾ませている中、僧侶衆が続々と入ってきました。その中にボロをまとった年寄りのお坊さんが、杖をついて足をひきずりながら入ってきて、上席を見るとその方へ歩いていきました。

それを見ると居士はあわてて、年寄りのお坊さんに下りるようにさえぎろうとしましたが、お坊さんは上席に上がってしまいました。それが七回繰り返され、居士はうんざりして、「私は今日最も敬虔な心で貴い方をお招きしているのに、貴方はなぜ再三にわたってこの上座に上がってくるのですか」と言いました。それを聞くとお坊さんはそこから下りて、隅の方で黙々とご馳走にあずかっていました。

法会が終わり、大勢の出家僧においでいただいたけれど、肝心の願いが叶わずに落胆しました。その夜の夢に、全身に瓔珞の飾りをまとった荘厳な仏様が現れ、「お前は私に会いたかったのではないか? それなのにどうして七回も私を上席から追い出したのだ」と言われました。

居士は驚いて目を覚まし、「私に差別の心があったため、こんな善知識を誤ってしまった」と大変後悔しました。

仏陀は「慈悲等観」とおっしゃいました。慈とは抜苦(ばっく)、悲は予楽(よらく)です。布施は平等であるべきで、外観にとらわれ差別心があってはなりません。これは慈済人が常に口にする「奉仕は見返りを求めず、その上奉仕をさせてくれたことに感謝する」ことです。

四十五年来、慈済人は法を守って、何の怨み心も悔いもなく苦難の地へ参って、奉仕に尽力してきました。

当初は、救済する人手が乏しかったため、援助範囲に限りがあったことが最大の困難でした。しかし菩薩の隊伍が大きくなるに従いケアの範囲は広くなり、援助面に対しても入念に計画し実行することを考慮するようになりました。慈済の志業(しぎょう)は絶えず発展し、慈善から医療に、医療から教育に、さらに教育から人文にと広く行きわたっています。

慈済人が大慈心で以って道を敷く時、その愛の道を広く敷こうとすると、阻まれた時は大悲心を発揮し堅忍耐用の心を以って橋を造り、苦難の衆生が安楽の彼岸へ渡れるよう願っています。

道や橋だけでなく、その上衆生に安住の家を建て、衣類で心身を温め慰めています。

人生は苦というものの、愛があれば光があり、温かいものです。慈済人の愛は口先だけで言うのでなく、身を以って実行してきました。「一つの手が動けば、千の手が動き、一つの目が動いた時、千の目が動いて見る」というように、一人が苦難の衆生を見たら、みんなに呼びかけ、道がどんなに遠かろうと駆けつけ、万難を排して千の手を差し伸べます。

世界は一つの家族のように、お互いに愛し助け合わねばなりません。これが人類の美しさです。


幸福は
心の豊さから得られる
災いは限りない欲念から
造り出される
福を知り
福を植え
幸福が成就する

二〇〇六年、英国のレスター大学が発表した「幸福度ランキング」で、台湾は百七十八カ国の中で六十三番目でした。台湾の経済は発達し、生活水準は高いのになぜ一般の人の幸福感は高くないのでしょうか。

真の幸福は心の豊かさにあります。世の中に目を向けると、混沌とした環境の中で日々の生活に追われている人もいれば、生活が豊かでも止まるところのない欲望と見栄を持っているがため、福があっても福ということを知らない人もいます。

仏陀がご在世の頃、僧団の中に一人の修行者がいました。仏陀の従弟で王族の一人です。

この修行者は毎日空に向かって、「私は幸福だ、私は楽しいよ」と叫んでいました。僧団の一人が、彼は出家しても心はまだ王宮の華やかな生活に留まっているのだろうと思って、仏陀に報告しました。

仏陀は彼を呼んでお聞きになりました。

「出家後も、以前の華やかな生活が思い出されたのですか」と。

修行者は「私の心には貪念なく、何の妨げになるものもありません。王宮の暮らしはこの静かで清らかで、広々とした心を得た今とは比べ物になりません」と答えました。

念は無形ですが、やはり形のある天地に影響します。欲念を抑えれば福が植えられ、災難は遠のきます。

幸福はなしてこそ造り出されるものです。心の幸福感を高めるには、感謝し、足るを知り、自分を祝福し、さらに福を植えなければなりません。

福のある人は腹八分を心がけ、残りの二分を困っている人に分けてあげれば、無数の家庭が温かい食事を得ることができます。心ある人の僅かな愛に、苦難の衆生は幸福な人生へ向かって行くことができます。


法を聴き、法を知り、法を行う
心の垢を清め、悪習を改め
戒律を守り、善事をなす

歳末祝福祈祷会の時に、多くの人が悔い改めた過去を語ってくれました。

台湾雲林県の慈済ボランティア張淑幼さんは夫と食堂を経営していました。お客に満足してもらうため新鮮な魚、海老、貝類等の命を絶っていました。その後夫が病気で亡くなり、縁があって慈済に入りました。今年歯が痛み上の歯を九本も抜いた時、抜く前の恐怖、抜いている時の心臓を突き刺すような痛みに、突然自分が以前に、生きながらさばいていた魚たちは、こんなにおそろしく痛かったのではないかと思ったと言いました。

二千年前、仏陀の説法は、どの一句にも深い道理が含まれています。二千年後の現在、私たちは日々仏陀の智慧と光明で心の暗闇を照らし、心の垢に気づいたならば、一つ一つ清める必要があります。

『無量義経』に「遊戯澡浴法清池」という一句があります。その意味は法は水の如しということを指しています。人は心身を清浄に保つだけでなく、過去の迷いを取り除き、人生で戒律を守り、善事をするということです。

現在を把握して、心の垢を清め、悪習を取り去り、仏法の智慧を運用して自分を度し他人をも度す、これこそが智慧のある人生です。


心にかけ橋を築こう
言葉は静かに話し
意気盛んであってはならない

インドネシアにイスラム教を信仰するハンタヤとゴマリヤという夫婦がいます。二人とも聴覚障害者で夫は気性が激しく、いつも人が話しているのを見ただけで、自分の悪口を言っているのではないかと疑い、怒り出します。

ある日、妻のゴマリヤは何気なしにテレビをつけると、大愛テレビの番組「人間菩提」がやっていました。耳は聞こえないけれど、注意深く字幕を読んでいると心が落ち着くので、夫にも見るように勧めました。夫も道理を理解し二人ともおいおい悪い癖を改めていきました。

昨年(二〇一〇年)の暮、インドネシア・ジャワ島のムラピ山が噴火して多数の死傷者を出しました。二人は人生の無常を痛感し、慈済インドネシア支部へ行ってお金を寄付し、ボランティアに志願しました。

二〇一一年の初め、台湾の慈済人が催す経典劇の練習をテレビで見て、さらに私が「天地は急を告げている、大懺悔、大斎戒が必要」と呼びかけているのを知り、菜食を始めたばかりでなく、菜食専門のレストランを開いて人々に菜食を勧めるのだと発願しました。

人はみな愛の心を持っているのに、ただ悪癖による雑言で業を造ってしまいます。同じ一言でも優しく話せばよい話ですが、声を張り上げきつい口調であると悪い意味になります。

同じ一言で人の心が離れていくこともあれば、歩み寄ってくることもあります。話す時は優しく荒立てないように心がけましよう。
法もまた言葉によって伝えられます。

「口ではよいことを話し、身はよいことをし、心でよいことを思う」ことは、戒を守るだけでなく、自分の業を清め、また他人に善行を促すこともできます。
台中市大里の慈済ボランティア黄翠玉さんは、十三年も市場で菜食のそば屋を経営しています。お客を家族のように扱い、そばを食べている間に慈済の紹介をして、よいことをするよう勧めていました。そのうちにお客は会員になり、会員はまたボランティアとなって、その数は二十九人に増えました。

三年前、一人の障害者がそばを食べにきました。事故に遭ってこんな体になったため落ち込んでいるのを知って、環境保全活動に参加するよう勧めました。それからこの障害者は、車椅子に乗って宝くじ券を売った後は、リサイクルセンターへ回収物の仕分けに行っています。苦労はありますが人生の価値を見出し心は満ち足りています。翠玉さんは「露天社長」と呼ばれて皆から親しまれ、一杯のそばから法を伝え、食べた人は慧命を増しています。

人々の心にはもともと微妙な法が具わっており、善の念は平等です。人々が菩薩を志し、思いのままに至る所を道場として善をなし、誰とでも仲良くすることを期待しています。

よい言葉は人々の心のかけ橋となって、お互いの心を一つにさせてくれます。心が一つになれば意思はスムースに通じあって、さらによい人が増え、よいことを成し遂げることができます。



毎年の歳末、私の心に二つの感謝があります。過ぎた年が平穏無事であったこと、慈済の大家庭に新しいメンバーが誕生してくることです。それによって、さらにこの世の菩薩を召集して愛の種を世界に撒布することができます。

毎年の歳末、私は最も敬虔な心で祈ります。人々が心を清め家々が幸福であること、社会が平和で世の人が息災であり、天下の気候が順調で災難のないことです。これは毎年変わらない私の願いです。

皆さんが感謝の心で去る年を送り、敬虔な心で新年を迎え、世の中の平穏を祝福することを期待しています。新たな年に、家々が平穏に、日々が息災であることを祈り、福と智慧を身につけ、より一層菩薩道に精進してまいりましょう。


◎訳・慈願/絵・劉正発
(慈済月刊五四一期より)