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08月25日
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古里に新しい家が建った 中江県富興鎮光明村

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幾世代にも亘って、貧しく苦しい暮らしを光明村の村人たちは忍んできた。代々譲り受けてきた粘り強い精神であらゆる苦しみを堪えてきた。

二年前の大地震で家、田畑、すべてを失ったが、外からの援助を受けて、新たな時代を迎えた。

段々の丘に建てられた赤い瓦屋根、白い壁の静かな新しい住居。古里に新しい家が建ち、心も大いに安らいだ。

四川省徳陽市から中江県富興鎮光明村に入ります。この二百世帯あまりからなる村落は四川大地震で家屋の半数近くが倒壊しました。九十一戸の新築二階建ての家が、慈済の援助によって丘陵地帯の三つの区域に建てられました。こんもりと森が茂った山に囲まれた家々の前には、白楊樹が整然と植えられ、その枝々から紅色のつぼみがほころび始めました。

政府は光明村を貧困村十九村の一村として、震災後に復興計画を実施するテスト村に指定しました。国際支援による復興計画はこの辺鄙な小さな農村を現代化させることになりました。メタンガス設備、衛生汚水排棄管の継続施工、村周辺を巡る各種工事及び外部との連絡道路の修築などに亘る復興計画が進められました。村書記の陳加安によると、将来光明村から中江、徳陽に通ずる幅十二メートルの道路を開通させるとのことです。「道路が開通した暁には私たちの幸福が訪れます」と自信満々で語りました。

陳加安の従弟の陳加亮は、「昨年五月から八月の間、よく雨が降りました。仮設テントの住居は湿気がひどいので、早目に新しい家に移りました。新しい家は戸を閉めれば暖かく、快適に冬を越すことができました」と言いました。多くの村人は大愛村の建設工事に参加しました。現在八割の村人がすでに大愛村の住宅に移り住んでいます。新しい家が建ち、皆ほっと安堵しました。

おじいさんの宿願
楽しい余生をさらに長く……

昼下り、八十一歳の肖天建は客間のベッドに横たわって休んでいました。そこへ大愛テレビ局の記者、陸凱声がポスターを抱えて入ってきました。奥さんの王新英はポスターに引き伸ばされた古い写真を目にして大変驚き、言葉が出ません。赤ちゃんを抱いている王新英、短髪の少女は今教師をしている娘、凛々しい軍服姿の若者は娘婿、二人の息子の幼い頃の写真、そしてかわいい孫たち……。

肖家の土蔵造りの家はこの度の地震で倒壊し、古い写真は連日の雨に打たれてぼろぼろになってしまいました。村民の暮らしを取材に来た陸凱声がこれらの写真を撮影してくれ、さらにボランティアに頼んでポスターにしてもらい、徳陽市まで行ってラミネート加工してもらってきたのでした。ベッドに横たわっていた肖天建はこれを見て、目を輝かせました。

肖天建はまだ二十歳にもならない頃から軍隊に入り、朝鮮半島の戦役参加を経て、その後山東省青島に駐屯しました。その時十一歳年下の王新英と知り合い結婚、一九六〇年に妻と三人の子供を連れて故郷の光明村に戻りました。

故郷の兄弟が肖天建たちに部屋を一つ住居としてあてがいました。「一家五人が一つのベッドに寝起きするのです。まもなくベッドはつぶれてしまいました」と王新英がからからと笑いながら話しました。それで人を雇って山から木を切ってきて新しいベッドをこしらえてもらいました。「生活は本当に苦しいものでした。この度、自分の金を使わないで新しい家に住めるなど思ってもみませんでした」。

山手の傾斜地に立っていた土蔵造りの古い家は地震で倒壊しました。肖天建は竹切れを利用し、ビニールシートで倒れた家の傍に簡単な棚を造りました。色の褪せたビニールシートは所どころ破れていて、風や雨がそこから吹き込んできます。鳥小屋よりも狭苦しいその家の中に竹製のベッドをもう一つ入れて、年老いた二人は一年あまりそこに住んでいました。

その間、肖天建は心筋梗塞を患い大慌てで下山し、医者にかかりました。王新英は年とった連れ合いの健康を慮って、水道、電気施設がまだ整わないうちに慈済が援助建設した新しい家に移り住んで冬を過ごすことにしました。暖かいばかりでなく医者に行くのにも大変便利でした。

「新しい家に住みたいという願いが実現したので、もう少しだけ長く生きたい」と三月中旬、胸水で再度入院した肖天建は言いました。

王新英は喜んで懇ろに私たちを招き、家中を案内してくれました。客間の傍の二人の部屋には、子供たちがまだ使える家具を持ってきて、きれいさっぱりと並べました。右側は台所とトイレ、二階は居間と客間が一つずつ、それにトイレがあり、里帰りした娘夫婦の泊まる部屋もあります。

台所にはガスコンロ台をとりつけました。国連開発計画(UNDP)が援助建設するメタンガス施設が未完成なので、王新英はしばらく家の前に作ったかまどに薪をくべて炊事しています。
これまで王新英は副業に養鶏をし、月に百人民元ほど(一人民元は約十二円)の収入がありました。新しい家に移ってから夫の介護に忙しいのと、また鶏を飼う場所もなく、養鶏ができなくなりました。今は台所にめんどりを一羽だけ飼って、毎日一つ生れる卵を精がつくようにと夫に食べさせています。

末っ子の肖鈺も光明村に住んでいます。徳陽で仕事をしている長男夫婦も年末には光明村に戻って居住することになっています。晩年に至って安定した住処が得られ、その上子や孫に面倒を見てもらえる肖天建夫婦は幸せいっぱいです。

少女の夢
父と母と一緒に暮らしたい

光明村の村人たちは土地でとれる粘土をこねて煉瓦を作り、大きな石を基礎にして家を建ててきました。土蔵造りの家は冬は暖く夏は涼しいですが、強震には耐えられません。

お金のある町の人は、山地に別荘を建て、ごみごみとさわがしい都市部を離れて暮らしたいと願います。逆に、農村では少しお金があると、大通りのにぎやかな所に住みたがり、ますますの発展を求めるのです。光明村の大愛住宅は二〇〇八年十一月に起工、鉄筋コンクリートの二階建てで外観は平地の建物とほぼ同等の水準になり、さながら別荘のようです。

住民の多くは一階の客間を穀倉や居間とし、二階の客間は床にタイルを貼り、窓にカーテン、そして大きなソファーにテレビ、電話、ビデオデッキなどの電化製品を取揃えています。冷蔵庫もあります。台所や風呂、手洗いがまだできていないので、ある家では裏の方に竹や瓦を使って簡単な炊事場と鶏舎を造り、新旧設備が入りまじって生活をスタートさせました。

中学二年生の房敏は、両親が遠い福建省に出稼ぎに出ているため母方の祖父母と暮しています。山の麓にあった元の家は半倒壊しました。新しい家をその前に建て、倒れかけの家は家畜小屋や炊事場として使っています。手洗いは古い家のを使っています。

房敏は、地震後初めての冬は祖父母と半倒した家でしのいだと話しました。祖父がビニールシートと棒切れで崩れた壁と屋根を繕いました。外は雪がちらつき身にしみる寒さで本当に辛い冬だったと言います。

私たちを新居の二階に招いた時、房敏の表情は全く別人のように明るくなっていました。階段の上り口にはスリッパがおかれ、部屋の床はピカピカに磨かれ、窓には黄色のカーテン、大きなゆったりしたソファー。テレビもビデオデッキも揃えられてあり、時折学校の友達を家に招いて映画を観賞するそうです。

房敏の部屋には、父母がわざわざ大工を呼んでクローゼット、ダブルベッドと化粧台を作らせました。福建省の照明器具工場で働く母は、房敏のために天井から吊り下がるクリスマス用のランプを買って帰りました。房敏は毎日床につく前にそのランプを見上げ、空に閃く星と見なして、離れている両親のことを思うのでした。

房敏の部屋にも陸凱声から贈られたポスターが貼られてあります。それは出稼ぎの両親の影かたち、親子三人でとった写真と、ボランティアたちとの写真などです。このポスターを見ていると、寂しさがまぎれるのです。

故郷の再建に希望を見出したのか、房敏の両親は今年故郷に戻って近くの徳陽市で働くということです。

新しい家のベランダから、半倒壊の古い家が見えます。房敏は新しい家は「とてもすばらしい」と喜んでいますが、でも古い家の良さも忘れられません。「私の成長を見守って来てくれた家ですから」と言います。

農業の現代化に乗り出す
春、光明村の農民はじゃがいもやとうもろこしを植えた畑の除草を始めます。山の斜面に植えられた油菜は、あと一月で収穫期を迎えます。農民は「穀雨」(一年間の二十四節気、太陽暦四月二十日頃)の後に田植えをします。

農民の年間収入は約千五百人民元で、その中から肥料、種、労力などのコストを差し引かなければなりません。子供を大学へ行かせるには一年に三~五万人民元かかり、父母にとって大変な経済的負担です。町や沿海地方に出稼ぎして働いて得る収入は月に約二~三千人民元です。

四十八歳の農民、胡家は、新しい家の土砂崩れ防止垣が完成すればまた新疆まで出稼ぎに行くと言います。毎年の四月から十月まで建設作業員として働きます。非常に苦しい仕事ですが月の収入は五、六千元と高額です。十月に入ると新疆は雪が降り仕事ができなくなり、光明村に帰って父母に付き添います。子供が二人、中江で中学に行っています。もう三年出稼ぎすれば故郷に戻ってくるつもりです。

「若い人はほとんどが出稼ぎしています。村で私のような人はあまりいせん」と五十歳近い肖鈺が言います。若い頃は中江県政府で公務員を務めていましたが、月の給料は四十元あまりしかなく、仕事をやめて故郷に帰って結婚しました。

夫婦で農業に従事する傍ら商売を始めました。農産品の売買で、その差額で利潤を得て数年前にザボンの樹を村にとり入れて、農民と共同で五千株植えつけました。「農民には組織がなく知識もないので、ただ目先の利益のみ追い、植付けて三~五年経っても収穫できなかったので、植えた果樹を全部掘り返してしまいました」。肖鈺と一部の農民は約百株のザボンを残して育てました。その後、ザボンが一粒三元で売れました。肖鈺は「当時農民が果樹を皆残していたならば、ザボンは光明村の主要作物として生産されていたかもしれません」と残念そうに話しました。

「昔ながらの農法はもう時代おくれです。規模を大きくして初めて農民の利益を確保でき、若者も農業にとどめ置くことができるのです」と話す肖鈺には理想と計画があります。肖鈺は、慈済は皆のため新しい家を建ててくれたと話します。光明村で将来ザボン、桃、葡萄、サクランボなどを栽培し、周辺の生態景観を加えて、五年、十年かけてリゾート観光果樹園を開発したいと考えています。「農民に月千~二千元の収入があれば、出稼ぎに出る人はいなくなるでしょう」と。

現在農村は肖鈺のような知識を持った農民を必要としています。書記の陳加安は稲作だけでなく、生姜の利潤がよいのを見抜き、新しい家の後に儲蔵室をこしらえて、生産量で価格をコントロールしようと、農民に生姜の生産に乗り出すことを呼びかけようと計画しています。



清明節の日、七十五歳の陳錫章は全家族を引き連れ、お供え物を携えて祖先の墓参りをしました。家族十数名が車で山一つ越え、さらにでこぼこ道を通ってやっと目的地に到着しました。
毎年この墓参りの道を通るたびに、当時祖先が困難を極めた道を歩んでこの地に移り住んだ苦労を思います。墓の周り一面に松と柏の常盤木が植えられてあり、涼しく静かな環境です。陳錫章は先に立って線香をつけて鄭重に祖先に向かって報告しました。「二〇〇八年五月十二日、大地震で私たちは大変な損害を受け、住む所さえ失いました。政府を通じて台湾慈済と連絡、その援助で九十一棟の新しい家を建てていただき、現在すでに皆新しい家に移り住み、それぞれ仕事を始めました」。

一族を引き連れて墓前で敬虔にお参りした後、陳錫章は満足した表情を浮かべました。先祖の庇護で代々光明村で無事に生きてこられたことを感謝しました。四川大地震で故郷のすべてがこわされましたが、今また新しく家が建てられ、祖先の霊を安心させることができました。

墓前に集った一族の者はほとんどが五十歳を超えており、子供の大多数は他所で勉強や仕事をしています。しかし陳加亮は毅然として、「光明村は我々が根を張って生きていく地です」と言いました。

慈済月刊五二二期より
文・葉文鴬/訳・王得和/撮影・蕭耀華