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04月19日
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ホーム ドキュメンタリー 台風八号・台湾大水害の後 家に帰ろう――新しい家は民族共栄の村

家に帰ろう――新しい家は民族共栄の村

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新しい家の玄関の戸を開けてみると、
入居祝いの家具類や家電製品その他
いろいろの生活用品が、
目映いばかりに揃えられてありました。
八八水害(二〇〇九年八月八日台湾南部を
襲った台風八号による水害)から六カ月後、
家や田畑を失い、心を傷つけられた人々に、
とうとう安住の家に住める日が訪れました……

六十ヘクタールの土地に建つ杉林大愛団地は、旧暦正月の前に第一期の竣工を迎えました。台風八号で被災した那瑪夏郷、桃源郷、甲仙郷、六亀郷の住民は家財道具をつめた大小のカバンをさげて、待ちに待っていた新しい家に移り住みました。

二〇〇九年八月八日の台風水害から百日目の十一月十五日、大愛団地が起工し、八十八日間の夜を日につぐ突貫工事に延べ二万人の村人と慈済ボランティアが参加して、この一面の黄土が新しい団地に生れ変りました。

八八という数字はかつて被災者にとって呪わしいものでしたが、これからは輝かしい未来に向けて再生することを象徴する数字となりました。

新居に移り住む前、被災者の陳則東も団地の再建工事に参加しました。多くの建設作業員と慈済ボランティアと共に、休みなしの突貫作業に取り組み、奇蹟的な速さで団地の建設を完成させました。

入居の前日、ボランティアたちが新しい家で雑巾がけをしているのを見て感動し、「私がやりましょう」と涙を流しながら雑巾を受取りました。全世界の慈済人が真心を込めて献じたお金だから、こんな立派な家が建てられたと、陳則東は感謝でいっぱいです。

「この家はたくさんの方が真心込めて建ててくださったものです。こんな家に住ませてもらう私たちは、この家を大事にしなければいけません」とかたく誓いました。

兵営地区の避難生活は
愛の記憶として大切に
杉林大愛団地第一期工事は七百四十八戸を建設する予定です。旧暦正月前に県庁が五百十戸の入居を許可し、三百戸あまりが引越しを終えました。第二期工事は現在施工中で、全て完成の暁には一千四百五十戸の家庭が入居できます。

工事がまだ継続中なので、ボランティアがせっかく家を清掃しても、すぐにほこりにまみれてしまいます。新しい家に荷物を運んできたあとにまずしなければならないことは、雑巾がけです。

水害の緊急状況下、山地の村に住む二万四千人あまりの人々が村から撤退し、八月末には高雄地区の数千人の被災者が臨時避難所から兵営に移り、暫時住み込むことになりました。五カ月間兵営で避難生活を送った林春菊は、大愛団地に引越す前、複雑な気持ちで荷物を片付けていました。とうとう待ち望んでいた新居に住める嬉しさの反面、この兵営の大家庭を離れるのが寂しかったのです。

荷物を兵営の門まで運び、兵隊さんが手伝ってトラックに積み込んでくれました。林春菊は各部屋をきれいに掃除した後、五カ月の間胸につけていた兵営居住証と鍵を返納して正式にこの仮住まいとしてきた兵舎を離れました。

「五カ月の間、兵営に暮らす私たちに寄せられた多くの方々の愛のおかげで、私たちは何の心配もなく新居が出来上がるのを待つことができました。このことはこの度の災難で得た、生涯忘れられない大事な思い出です」と、林春菊は感謝し、そして今度は自分たちが、困っている人々に愛を送ろうと誓いました。

新居に移って安堵した一方
断ち切れない故郷への思い

山で育った林春菊にとって、平地に建てられた新しい家に移り住むのは、まるで新たな別世界に跳び込んだようなもので、これから適応していかなければならない問題がたくさんあります。

「山では各家が離れていましたけど、ここはみな一カ所に集まっています」。客間に坐った林春菊は前後左右を見て笑い出し、「夫婦げんかしたらみんな筒抜けね」と言いました。それから林春菊は窓の外を見やって、「以前、周りは皆山でした。ここではそれが見えなくなりました……」とぽつり言いました。

中年以上の村人はかつて住み慣れてきた山への郷愁が強いですが、若い世代はこの新しい環境への適応が早いようです。林春菊の娘の鄧詩芸は入居申請をしに来たときに周囲の環境をつぶさに観察しました。「私は一目見た時、団地から川まで相当な距離があるのでまず安心しました」と当時の印象を語ります。

山に住んでいた時は土砂崩れが起きて、道が通行止めになってしまうことがよくありました。夜になっても父や母が帰ってこないと、鄧詩芸は気が気でなくいても立ってもいられませんでした。「今は父や母がどんなに遅くなってから帰ろうと心配しません」。

林春菊は平地の団地に引っ越すことを決意したものの、生まれ育った山への郷愁は抑えきれませんでした。「引っ越して最初の夜は寝つかれませんでした。亡き父母や兄、姉などを山におき捨ててきたようでとてもたまらなくなるのです」と林春菊は目を潤ませます。「気持ちが落ち着いたら、父、母たちを追慕するため山へ戻ろうと思います」。

同じ村から大愛団地に引っ越してきた林秋梅も、主人の遺骨を山に持ちかえって埋葬しました。林秋梅の主人はこの度の災害で土石流に命を奪われました。団地の建設期間中お手伝いに忙しく立ち回っていた林秋梅は、落ち着いて主人の後事の整理ができませんでした。新居に移った後も、被災者雇用計画に入り、大愛団地第二期工事を手伝っています。生活もようやく落ち着いてきたので、あらためて主人の魂を山に送り返しました。

「この新しい地に主人の霊を留めようとも思いましたが、主人はきっと元の山に帰りたいでしょう。山からここまでの道は歩きなれたものだから、主人もきっと迷うことなく私たちを訪ねてこられるでしょう」と言いました。

種族の別なく
睦まじく幸福な村を造る

同じ一つの大愛団地にはブヌン族、パイワン族、ルカイ族のほかに漢民族が一緒に住んでいます。移り住んだ最初の日、かつてブヌン芸術団副団長をつとめた邱師義は同族の人々と高らかに歌を唱いながら餅つきをしていました。六亀郷からきた高慶和は漢民族の村人と団子を作りました。村人はそれぞれのしきたりで入居祝いをしました。

邱師義は、「いちいち区別せずお互いに共同して幸せな団地を築きあげましょう」と感慨深く言いました。「餅はつけばつくほど粘りが出てかたまりやすくなります。私たちも皆、大愛団地に住む親戚同士です」。

今、皆の重要な目標は、将来性のある今後の計画を立てることです。村人が平地に移住した後、安全な地に居住できて安心は得られたけれども、それぞれの伝統文化を維持していけるかが新たな問題です。

邱師義は皆と相談してブヌン族の伝統文化を教える課程の実施を計画しました。ブヌン伝統の八部和音の合唱や踊りのグループを組織するつもりです。「私たちの伝統文化を伝えるとともに、ここを訪ねて来られる人々が多様な原住民の文化に触れられるようにしたいと思います」。

また、漢民族の高慶和にもいろいろなアイディアがありました。「この団地に住む漢民族住民には、陶藝師や書道家、中国古典音楽家などがいるので、その人たちにクラスを開いてもらってはと考えています」。高慶和は陶藝と農産品を合わせて、大愛団地のブランドを作り出そうと考えています。「小さな陶磁の甕をつくってそれに梅やスモモを漬けて売ってもよいでしょう」。
これらの計画はすでに実現に向けて進められています。「入居する一カ月前に私たちはナルワン合唱団を組織しました。合唱団では漢民族の住民の参加を歓迎しています。お互いに学び合いながら、共栄できることを願っています」。 

伝統文化の継承は重要ですが、皆心を一つにして協力してこそ燦爛たる文化に発展できるというのが、邱師義の考えです。皆が真心込めて建てた新しい郷土は、原住民と漢民族とが自分たちの力で相携えて造り出した模範村であります。

慈済は入居後の住民の生計と経済問題を考慮して、工事の開始と同時に職業訓練を展開しました。彫刻やトンボ玉の装飾品、織物などの技術訓練で、今後さらに進んで農業訓練も行われます。



台風で家や畑を失った被災者たちは、住みなれた故郷を立ちのかなければならなくなりました。寺廟、兵営と避難所を転々とし、半年を経てやっと定住の地が決まりました。新しい家に移り住んだ今は、新生活への適応やさまざまな挑戦に臨んでいます。

「私たちは何も恐れません。私たちには愛があります」と那瑪夏郷南沙魯村の長老、張義治は自信満々で語りました。この半年来、村人は最も貴い人情を体得しました。それは即ち愛です。張義治は、多くの不可能とされた任務が愛の力で成し遂げられた事実をこの目で見てきました。わずか三カ月で大愛団地が完成したこと。これが最も美しい証です。

村人たちは感謝の気持ちを込めて、「新しい故郷に移り住む」という歌をつくりました。今日から村人は手に手をつないで、共に美しい未来を唱い称えるのです。

慈済月刊五一九期より
文・凃心怡/訳・王得和/撮影・林炎煌
 

" 【生命を守ること、害すること】 飢える人に腹いっぱい食べさせ、凍える人を暖め、病人に診療を施し、身の周りの人道的な行為を見たり聞いたりしては互いに励まし合い啓発し合う、というのが「生命を守る」正しい方法である。盲目的に生き物を捕らえてから放ち逃す「放生」は本末転倒であり、かえって生命に害を加えることになる。 "
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