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04月19日
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ホーム ドキュメンタリー 台風八号・台湾大水害の後 大災害を経た後の福 緑の大地に還る新豊村

大災害を経た後の福 緑の大地に還る新豊村

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【台風八号による台湾大水害・屏東県高樹郷】

屏東県高樹郷の新豊村に住む人々は農業を営んでいる。濁口渓と荖濃渓二つの河川が合流する地域にあり、灌漑用水に事欠かない。政府認定保護区内にある泉から涌き出た澄みきった水と肥沃な土地で、多種多様で質のよい野菜や果物を育んできた。二年前、新豊村は他の村に先駆けてレジャー農業に転換した。

「レジャー農業と従来の農業の最も違う点は、汚染されていない野菜や果物を観光客が自分の手で畑からもぎとる喜びがあることです」。沈栄福さんは村の中で真っ先にレジャー農業に転換した農家である。一年の歳月をかけて金銭と心血を注ぎやっと成功したが、「全てが無と化しました」と語る。

沈さんは日ごろ地元の観光ガイドも務めている。地域一帯の地勢に詳しい沈さんにとって、高樹郷の中で一番の高地にある新豊村が浸水するとはどう考えても納得がいかなかった。毎年台風がやって来て「あなたの村は洪水に遭いましたか」と聞かれる度に、新豊村の人たちは「そんなことありえないよ。私たちの村が洪水に遭ったら、屏東一帯は水没してしまうさ」と答えたものでした。「しかしもうこんなこと言えませんね」と日やけした顔の沈さんは、大自然に対する畏敬の気持ちを込めて言う。

昨年八月、南部一帯を襲い甚大な被害をもたらした台風八号は、新豊村の三分の一を水に浸からせた。六百世帯の住宅が浸水被害を受け、約三十万坪の土地が洪水で流された。荖濃渓が堤防を突き破り、家々をのみこんだのだった。

荖濃渓の辿ってきた歴史を、沈さんがため息をつきながら話してくれた。この川はかつて清朝の時代は東南方向に流れていた。その後、川の流れが強引に西南向きに変えられた後、人々がもとの水路で田畑を耕し、そこに住みつくようになった。台風八号が襲ってきたとき、荖濃渓はいっぱいにみなぎって、東南方向に溢れていったから、大惨事になってしまった。沈さんもこの度の災害で被災した。復旧工事が進む荖濃渓の静かな流れを見ながら、「川はもとの流れに戻っただけなのだ」と一言の怨みも言わなかった。

【土地と哀楽をともにする農民】

風災から一カ月、沈栄福さんは避難所を出て住居と田畑の再建準備にとりかかった。田畑は泥に埋もれ、つる柵もみな倒れてしまった。「大金を投じてレジャー農業に転換したけれど、振り出しに戻ってしまいました。自営業の私ら農民は誰から給料をもらえるわけでもなく、自分でやるしかないのです」。

沈さんは賃金をもらえる仕事があれば手当たり次第に働いた。地域の緑化や催しの手伝いといった仕事のほか、葬儀社の手伝いまで何でもした。夜は早めに帰宅して休み、夜中の一、二時頃に起きて農地へ出かける。土の中から鉄の骨組を掘り起したり、破れた網を繕ったりして夜明けまで働き、一休みした後、またアルバイトに出かける。

田畑の仕事は大変疲れるが、丹精込めて育てた作物がたわわに実るのを見ると嬉しさで疲れを忘れる。災害は大きな傷跡をもたらすが、やる気さえあればまたチャンスはある。洪水は泥を堆積したが、その泥はミネラルを多く含んでいる。もともとの土壌は長期に亙る耕作によって養分がほとんど失われてしまっていたので、両者を混合した新しい土は以前より質がよい。「天は幸いに泥だけ授けてくれました。異物が少なかったので、耕作のさまたげにならないですみました。本当に神さまありがとう」。

黄善福さんも災害後に恵みを受けた人の一人だ。彼は昨年十月に里芋を植えた。今では枝葉が繁茂し、人の高さほどのびている。「この芋はホクホクして弾力があるので絶対に美味しいよ」。

黄さんは妻の凃玉英さんと共に自分の田畑を整理するほか、人の田畑の仕事も手伝って副収入を得ている。台風は田畑を流したが、幸いにまだ三千坪ほどの土地が残っている。二人は早朝に畑に出て、夕暮れ時まで働く。

「裏手の土地は流され、前の方の土地にも流されてきた木が三メートルほどの高さに積みあがっていた。一体どこから手をつければいいのか、鍬を手に思わず途方に暮れました」。このような困難な状況の中、多くの農民が挫折して立ち上がることができなかった。しかし黄さんは数日後、気を取り直して鍬をもって田圃に向った。

「こんな年になって再起する能力があるだろうかと私たちも考えました。しかし、強く生きなければならない。決してここで倒れてはならない。自分の田圃に雑草が生えるのを黙って見ていることはできないと思いました」。軍の兵隊や親戚、友人たちに助けてもらって、七十代の老夫婦はついに成しとげた。田畑は緑を取り戻し、夫婦も顔を紅色に輝かせ生き生きとして、若返ったように見えた。

【危険な場所から善の地へ】

黄善福さんと凃玉英さんは朗らかで楽観的で純朴な老夫婦である。二人の微笑みには、田畑を復旧できた喜びが溢れている。しかし今住んでいる家屋は危険である。先祖代々受け継がれてきた古い家は洪水の来襲を受けてあちこち破損している。家の中の壁や柱にはいくつもの穴があき、無情な暴風雨の威力を物語っている。

豚を飼っていた小屋を居間にし、水に浸かった家具をやむなく使っている。夫婦はそれでも、「神さまは私たちの命を救ってくれました。元気な体さえあればまだまだ働けます。これだけで私たちは満足です。足るを知ることが大切です」と神に感謝する。

黄夫婦はいたって楽観的だが、離れて暮らす子供たちは老いた親が心配だ。父母に農業を引退して都会で一緒に暮らそうと勧めるが、老夫婦は故郷を離れる気にはなれない。「子供を育て家も買わねばならないのだから、これからもっとお金が必要になる。私ら年寄りが子供たちの負担になるようなことがあってはなりません。子供たちが孝行であり、嫁たちが関心をもってくれ、孫たちがお利口であればそれだけで十分嬉しい」。目を細めてそう語る姿に、年老いた親の、子に対する無私の愛を感じる。「その上あと数カ月したら、私たちは慈済が建ててくれた家に移り住むことができます」と、皺だらけの顔に満面の笑みを浮かべた。

正午近くなって、黄さんは妻をオートバイの後ろに乗せて新豊小学校の向かいにある建設現場へ行った。慈済が被災者のために鉄筋コンクリートの家を建てているのである。元々ここはある篤志家が寄贈した土地で、新豊小学校の宿舎が建てられていたが、この度、被災者の移転先として学校側がこの土地の提供を申し出たのだった。

【愛情いっぱいの手料理を】

建設現場に常駐する慈済ボランティアの楊秀莉は、災害発生直後の救済活動のことを思い出して語る。ボランティアが食糧や物資を車に積んで新豊村へ直行した時のことである。「村への道が通行止めになる直前、私たちは避難所に着きました。ある村人が『みんなここから逃げ出すのに、あなた方は洪水の危険を冒して入ってくるなんて……』と言いました」。

しかしボランティアたちにとって気がかりなことは、自分たちが戻れるか戻れないかではなく、被災者のことだった。恐怖のあまり血圧が高くなったお年よりたち、着の身着のまま逃げ出して赤ん坊に与えるミルクやオムツのない母親たち。そして、全員服がびしょぬれだったので、ボランティアは急いで衣類や必需品を買って新豊村に送り、温かい食事を提供して被災者の心を慰めた。

黄善福さんは洪水に畑や家が直撃されたと聞いて、風雨をものともせず避難所の外にとび出し、「お天道さま、待って下さい。最後に一目だけでも家を見せて下さい」と叫んだ。ボランティアは家へ向かって走っていこうとする黄さんを引き止めた。

村人たちは、あの時慈済ボランティアから助けてもらったことを覚えていて、復旧した畑からとれた野菜や果物でお返しをすることにした。「工事現場に慈済ボランティアのサービスセンターができてから、村人が毎日のように野菜や果物を持ってきてくれるのです。時には資源回収車に載せて持ち帰るほどあります」と楊秀莉は言う。

そこで、村人から贈られた野菜を使って精進料理を作り、建設作業員に食べてもらおうということになった。「私たちは村人たちに炊事のお手伝いをして下さいとお願いしました。工事に従事する作業員たちへの感謝の気持ちでご奉仕していただけないかと思ったのです」。

ボランティアの呼びかけに応えて、陳昭亭さんはほぼ毎日手伝いに来ている。野菜を選んだり、洗ったり飯を炊いたりした。「私はこう思います。もしおいしい料理をたくさん作ってあげたら、作業員の方たちも一所懸命よい建物を建ててくれるでしょう。そうしたら私たちも将来安心して住めます」。その率直な言葉を聞いてみんなは微笑んだ。



建設現場で昼食を終えた後、陳昭亭さんは家に帰った。この二階建ての広い家は、隣人が安く貸してくれたものだ。「私は電話の通知を待っています。今日私の古い家が撤去されるのです」と言った。

夫と共に長年節約して貯めた金で建てた家が道から四~五メートル先の川床に倒れた。夫の廖昌貴さんは名残り惜しそうに、「この家には三十数年の歴史があります。私たちは先に一階だけ建て十年後その上に二階を建て増ししました。二年前に三階も建て増しました。農家の人はこうして少しずつ金を貯めては建てていくのです。苦労してやっと出来上ったと思ったらお天道さまが取り払ってしまいました。その上、家の前に作った農地まで川に流されてしまいました」と言った。

危険な洪水の中、先祖の位牌とトラック一台だけを持ち出し、あとはあきらめた。「避難所生活の間は先祖の位牌をトラックの中に安置し、間借りしていた家では竹の籠の中に入れて物置き小屋に祀っていました」と廖夫婦は語る。

夫婦の話から、突然家を失い流浪する中、先祖の位牌を安置することさえもままならかった辛さが伝わってくる。しかし彼らは希望を捨てなかった。役所へ就職希望の登録をした。「少なくとも貸家といえどもこうして住む家がある。足るを知るべきです」と語る。

一生を農業に注いできた沈栄福さんは、彼の愛する大自然に全てを奪われた。黄善福さん夫婦は壊れかかった古い家に住み、田畑の耕作に心血を注いでいる。廖昌貴夫妻は、貸家に身を置き、慈済が建てている家ができるのを待っている。

台風八号は新豊の村人に大きな損害をもたらしたが、半年後の彼らは心新たに純朴で楽観的な農民気質で再起する日を待ち続けている。田畑の実りを待ち、新しい家を待ち、お天道さまから福を授かる日を待っているのだ。

文・凃心怡/訳・重安/撮影・顏霖沼
 

" 【生命を守ること、害すること】 飢える人に腹いっぱい食べさせ、凍える人を暖め、病人に診療を施し、身の周りの人道的な行為を見たり聞いたりしては互いに励まし合い啓発し合う、というのが「生命を守る」正しい方法である。盲目的に生き物を捕らえてから放ち逃す「放生」は本末転倒であり、かえって生命に害を加えることになる。 "
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