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08月25日
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ホーム ドキュメンタリー 台風八号・台湾大水害の後 兵舎での避難生活 新しい家への憧れ

兵舎での避難生活 新しい家への憧れ

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【台風八号が去って百日目】

季節は晩秋を迎え、秋風が酷熱の南台湾の気温をやわらげました。濃い緑をたたえた大木の日蔭に、台風八号被災者の仮設住宅が立つ兵舎区に、一台の車が静かにすべり込みました。年配の方々が屋外の所どころに椅子を持ち出して、空ろな表情で腰かけていました。

「おばあさん、ごきげんいかが?」と慈済ボランティアは笑顔で車椅子に乗ったブヌン族のおばあさんに中国語で話しかけました。おばあさんは中国語が分かりませんが、顔色が生き生きと輝いて笑みを返しました。そばで世話をする嫁が「ずっと皆さんのことを待っていましたよ」と言いました。

台風八号の重大被災地域――高雄県の桃源郷、那瑪夏郷、六亀郷、甲仙郷などの住民は、八月末に鳳山の陸軍士官学校、燕巣郷の鳳雄兵舎と大樹郷の仁美兵舎に移り住みました。これらの兵舎避難区を慈済ボランティアは毎日訪れ、避難生活をしている被災者に関心を寄せてきました。

山地に通じる道路が修復され開通した後、安全だと認定された村の住民達は陸続と兵舎から故郷に戻りました。今まで六百世帯、約二千名の住民が四カ所の兵舎で避難生活を送ってきました。

家を離れて百日、村人は不安と期待が入り混じった気持ちで、慈済ボランティアと喜怒哀楽を共にしてきました。

悲しみの淵から
奮い起つまで

涼しい秋の明け方、二十一歳になる戴世龍は鳳雄兵舎を出て、杉林郷の大愛村建設現場に向かいました。砂礫を満載した大型トラックが頻繁に出入りし、工事が正にピークを迎えようとしています。砂ぼこりがあたり一面に充満し、戴世龍はマスクをかけて出入口に立ち、出入りするトラックをチェックして出入場許可証明のサインをします。

日頃から親しくしている慈済ボランティアの温清雲を見かけた戴世龍はあわててマスクをはずし、「師姑(スーグー)!(年長の女性ボランティアの呼称)本当に私を訪ねてこられたね!」と声をかけました。温清雲が戴世龍の肩をたたくと、戴世龍は思わず笑顔をほころばせました。

災害が起こる前、戴世龍は桃源郷梅蘭村に住んでいました。温清雲とは避難先の鳳雄兵舎で知りあいました。初めて会った時のことを温清雲はまだ覚えています。「私たちが、兵舎で避難生活している方々の慰問を始めて四日目、戴世龍のガールフレンドの荘思君がボランティアに参加したいと言ってきました。よろこんで迎え入れると、翌日から来るというのです。ところが二日経っても二人の姿が見えません。おかしいと思って尋ねてみると、病気をして三十九度もの高熱を出していたのでした」。ボランティアたちは心配して近くの病院に連れていきました。それがきっかけでその後、親しくつきあうようになったのです。

慈済ボランティアが避難所の鳳雄兵舎で、編物や織物の講習を始めると、戴世龍と荘思君も参加しました。「二人とも手際よく、飾物をたくさん作りましたよ」。

山ではいつも農作業で忙しかったからか、今の兵舎での避難生活はひまでうっとうしい感じがします。その上これから生活がどうなるのかと前途茫々の気分が加わって、意気消沈していました。ボランティアは原住民族がもともと編物や織物が得意であることを思いついて、避難先の兵舎で編物織物講習を開き、手工芸品店を経営するボランティアに材料を提供してもらい、被災者が作った品物の販売に協力しました。

さほど手ほどきを受けずに、世龍は凝った技巧の十字架のストラップを織り上げました。世龍は慈済の起こりを知ると、二百元(約六百円)を寄付して慈済会員となり、温清雲を感動させました。「両親を早くに亡くした世龍はかつては道を踏み迷ったこともありました。初めはクールな人だと思ったけれど、ほどなくして実はとても善良な人だと分かりました」と温清雲は語りました。
「世龍は杉林郷の大愛村建設現場で働くことがはっきり決まらないうちに、通勤に便利だからとバイクを買いました。いつから働けるかときかれる度に、返事に困ったものです。実は働く人には送迎の車を用意しているのに、世龍は早く仕事がしたくて待ち切れないのでした」

二カ月この方、村人たちは兵舎での避難生活にだんだんと慣れ、ふだんの日はほとんどの人が仕事や学校に行くので、昼間の兵舎内は静かになりました。温清雲は「することがなくて手持ちぶさただった人たちが仕事が見つかり、皆がふつうの暮らしに戻ったのを見て、私たちも大変喜んでいます」と笑いながら語るのでした。

仕事は手わけし
共同で家計を維持

午前十時頃、「秀安さんはいらっしゃいますか。私たちは慈済ボランティアです」と声をかけると、「どうぞ」と返事が返ってきた。ボランティアが部屋の中に入ると、杜江秀安さんがベッドから起き上がるところでした。食事係の秀安さんは夜明け前の三時には起きて兵舎に住む人々の朝食を準備するので、この時間はちょうど休んでいるのです。慈済人の来訪に秀安さんはにっこりと笑顔を見せました。

「兵舎の生活は大変けっこうです。子供の学費も何とか賄えます。慈済ボランティアが毎日見えて、私たちといろいろおしゃべりするので、おかげで気分が晴れ晴れして、何事も良い方へと考えるようになりました」

秀安さんは高雄県桃源郷勤和村の住民で、夫の杜其長さんと農業に従事していました。九月に夫と息子が先に村に戻って仕事を始めました。娘二人は大学在学中で兵舎の住居には秀安さんだけが住んでいます。慈済ボランティアの励ましと慰めを受けて、被災のショックから徐々に立ち直り、心配事もなくなったと言います。

この間、秀安さんは四回ほど村に戻って夫と息子を見に行きました。慈済ボランティアも勤和村の状態を視察するため、一緒に村へついていきました。

地震後に荖濃渓の河床に沿ってできた道を三時間ほど車に揺られて上がると、勤和村に到着します。五十四歳の其長さんと十六歳の息子、秋瑛さんは、村の近くの砂礫採取場で働いています。

其長さんは息子と二人、早々に避難所の兵舎を離れて山に戻り働いてきました。「私たちは一番最初に村に返った者です。はじめは道路の修復工事の仕事をし、その後、砂礫採取場で仕事をすることになりました」。

兵舎でも被災者向けに仕事を提供してもらえますが、村に戻って重労働の仕事をすることを選びました。働き慣れていること、また収入を増やそうとの経済的な考慮もあったことでしょう。「今までずっと山に住み、毎日休むことなく働いていました。この度災害に遭い平地に移ったものの、ひまがあり過ぎてかえって疲れます。やはりきつい仕事が私には向いています」と其長さん。

「家にはまだ二人の子供が学校に行っているので、お金が必要です。上の息子は私と一緒に働いていますが、これも一つの勉強。仕事は実力と経験がものを言います。今いろいろと学んでおけば将来心配しないでよいですから」

働き者の温かい家庭
山に働きに戻って二カ月近くになる其長さんは、山の状態が変わってしまったのをよく観察してきました。山での仕事は確かに自由気ままで、家もまだ良好な状況でしたが、其長さんは被災者のために建てられる永久住宅に移る同意書にサインしました。

「もし山に住み続ければ、豪雨の時にどこに避難すればよいのか……。私たちはすでに二度避難しました。土石流の押し寄せるごう音はまるで恐竜が来襲してきたようで、二時間かかってやっと高台によじ登りました。全くおそろしいことでした。子供のためにも、どんなに捨て難くても平地に移住しなくてはなりません」

其長さんはボランティアたちを自分の小型トラックに乗せて村周辺の状況を見て回りました。荖濃渓に沿って広がっていた緑の山々は大きく崩れおち、川は土石に埋もれてしまっていました。

災害に遭う前、其長さんは五十万元(約百五十万円)かけて家を建てました。民宿を経営するつもりだったのです。それが台風でシャッターも吹きこわされ、今は作業小屋として農具と肥料を置いています。

建物の造りは大変堅固で、手を加えればまだ使えます。けれども建物から少し離れた路面に亀裂ができており、それが家の後にある石垣まで伸びて、十五センチほどの高低差があります。其長さんはその裂け目を指して、「これは台風の後にできたもので、山が下に向って滑っているのです。斜面に建てられた建物は大変危険で、とても人は住めません」と言いました。

「私は孤児でしたので、生きていくために苦労しました。すべて自分に頼るしかありません。私と息子は兄弟のように感情が通い合っています。貧しくとも家庭は明るく幸せです」と言います。「温かい家庭に暮らし、何か技術を身につけておけば、何も心配することはありません。故郷は捨て難いですが、私たち夫婦が通って来たいばらだらけの道を子供には歩かせたくありません。私たちの努力が将来、子供の世代に実るのを願っています」。

一家に長い間関心を寄せていた慈済ボランティアの鄧鳳嬌が言います。「杜さん一家はとても仲がよく、働き者で敬服します。そして奥さんが私たちを信頼し、私たちの関心を喜んで素直に受けてくれたことに、とても感謝しています」。

その身になってそっと寄り添う
避難所には多くの慈善団体や医療組織などが駐在しており、慈済ボランティアはその各々の間を連係する役目を果してきました。例えば診療に行く被災者のお伴をしてあげたり、病院を訪ねて入院している負傷者を慰問したりなど。また、経済的事情のため学費が支払えない子がいれば、問題解決に力を貸したり、乳幼児の粉ミルクやおむつの提供などの世話をしました。

温清雲はボランティアの仕事を通じ、いろいろと住民の気持ちの変化を知ることができました。

「私たちに初めて会った時の被災者は、慈済とは何者だろう、仏教団体がなぜこんな所にくるのかと懐疑的でした。私たちは災害が発生してから今日まで、彼らの心にずっと関心を寄せてきました。彼らが悲しみを思い出して泣く時には、ただ無言のまま静かに心安まるまで付き添いました」

住民の生活が落ち着くにつれて、ボランティアたちの慰問は毎日から一日おきになりました。温清雲はこの間商売を休んで鳳雄兵舎に毎日のように出かけました。夫も彼女の行動をサポートしてきました。現在、温清雲はもとの仕事に戻りましたが、心は片時も住民たちから離れることはありません。あのおばあさんの具合はどうだろうか、誰かそばについているだろうかとか、あの体のよくない人を誰がお医者につれていくのだろうか、などなどいつも気にかけています。

再建計画を遂行するにあたり、政府や各村の間にはまだ多くの問題が山積みです。すでに永久住宅の再建を決定した慈済も、住民たちに説明する時にはさまざまな問題に遭遇するでしょう。時には誤解を招いたり、批判を受けたりすることもあります。

温清雲は言う。「私は住民の気持ちを理解できます。驚きが未だに収まらず、その上未来への不安などいろいろと苦悶があります。私は仲間のボランティアたちに、感謝しつつ愛の心で住民とお互いに手を取り合って歩んでゆきましょうと言いました」。

兵舎での被災者の世話は、困難と喜びの入り混じる体験でした。陸軍工兵学校の避難者を世話しているボランティア、林艶子の話によれば、ちょうど果物の収穫期で住民たちは里に返って収穫し、町に出して売ります。そしてその貴重な果物を慈済ボランティアにも分けてくれたのでした。

「住民が再び笑みを浮かべ本来の楽観的な天性を取り戻し、私たちとも冗談を交すようになりました。高らかに声を張りあげて歌うこともあり、私たちはやっと安堵しました」と林艶子は言います。「今後も皆さんをお助けしてゆくつもりです」。

慈済月刊五一六期より
文・凃心怡/訳・王得和/撮影・蕭耀華