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10月14日
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ホーム 美しき台湾 輝く黄金色の水梨・上

輝く黄金色の水梨・上

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果物天国の台湾にいらっしゃい!
亜熱帯の台湾で、しかも標高の高くない里山に、温帯果物の水梨ができるのをご存じですか? そのカギは、農民が数十年来ありったけの知恵をふりしぼって、研究開発を重ねに重ねてついに成功させた、花芽の高接ぎ技術にある。

台湾中部の台中県に東勢という町がある。この辺りで採れる水梨は評判が高い。それには無理からぬわけがある。東勢は勤勉な性質をもつ客家人の多く住む所。さらに台湾における梨の高接ぎ栽培の故郷である。

農業委員会の二〇〇八年の農業統計年報によると、台湾全国の梨の植付け面積は八千二百五十九ヘクタールで、その六十五%に当たる五千三百三十五ヘクタールが台中県内に植えられてあり、東勢鎮は約一千六百ヘクタールを占める。東勢農会(農協)の傍の青果市場は台湾で最も重要な梨の集散地である。

梨の採りいれ時期になると、市場は大勢の人とたくさんの車がひしめいて大変にぎやかになる。農会内に据え付けられている光センサーも忙しく稼動する。梨は漏れなく一つずつ糖度を計測してもらい、格付けしてから光センサー測定済みの証明を受けて出荷する。

近頃、表皮が褐色で、果肉のきめが粗く酸っぱい、俗に「粗梨仔(ツォラィアー)」と呼ばれている在来種の梨はまれにしか見られなくなった。一方、果肉のきめが細かく水分の多い、かつては輸入物しかなかった「幼梨仔」は、庶民には手が届かない高級なイメージがあったが、今は手ごろな値段で買える、ごく当たり前の果物になった。この変化の立役者は、高接ぎの技術を実行した台中東勢の梨農家である。 

「粗梨仔」の正式名称は「横山梨」といい、むかし中国広東省からの移民が持ってきて、新竹県の横山で植え始めたのでその名前がついた。その後、中部の東勢、新社、三湾、卓蘭など低海抜の里山に広がった。「幼梨仔(ユーラィアー)」は温帯梨の総称で、中国、日本、韓国の緯度の高い土地に産する。台湾には豊水梨、新興梨、幸水梨、新世紀梨、それに二十世紀梨などの品種がある。一九六〇年代に台湾中部の人跡未踏の高い山を切り開いた東西横貫公路が開通した時、政府は日本から温帯梨の苗を買い入れ、海抜一千五百メートル以上の梨山地区で試験的に植えさせた。高度で緯度を補う試みは大いに成功し、亜熱帯に属する台湾の高山地帯にも温帯梨が実ることが分かった。

温帯梨はある程度低い気温でないと花芽を育まないので、台湾の海抜の低い場所に植えても開花結実しない。七十年代初期、教員を定年退職した張榕生さんが十二名のメンバーと研究チームを組み、高地の花芽を孕んだ温帯梨の接ぎ穂を、横山梨の台木に高接ぎする試みを始めた。そして幾多の失敗と困難を克服して、研究と改良を重ねて成功に辿りついた。そのおかげで、在来のまずい「粗梨仔」の木から美味しい「幼梨仔」が実るようになったのである。

さらに、高接ぎ穂は自然に成長した枝より一カ月以上も早く開花結実するため、従来より早めに出荷できるので、市場で珍品としてもてはやされた。農業技術を駆使して気候条件の不具合を克服したこの奇跡的な成果はあっという間に知れ渡り、横山梨を植えている農家は次から次へとその技術を採用した。それで野や山にたくさん植えられた横山梨は伐採されて廃棄される運命を免れた。

東勢の人は横山梨を「代理出産の母」とか「乳母」などと呼んでいる。この冗談には、横山梨への感謝の気持ちが込められている。横山梨は高接ぎした温帯梨の枝を全力で育て、美味しい梨を実らせる。数多の梨農家の生産所得もそのおかげで増え、裕福になった。

東勢農会に勤める呉春発さんと農家の曾光明さんに案内されて、私は東勢の「梨文化館」を訪れた。管理人の葉泰竹さんは笑みを満面に浮かべて私たちを迎えた。台湾中部大地震(一九九九年九月二十一日に台湾中部を震源に発生したマグニチュード七・三の大地震)の後に落成したこの緑の建築の中に、梨の高接ぎの技術を研究開発した一部始終が詳細に展示紹介されている。壁には「高接ぎ梨の父」と尊敬されている張榕生さんの写真が掲げられている。体つきは痩せているが温厚な笑顔の表情は、彼がかつて心血を注いだ高接ぎ梨の技術が今は普及して、申し分のない成果を上げていることを満足して見守っているようである。

高接ぎ梨の発展の経緯を調べた曾光明さんの話によると、張さんの率いる研究チームのメンバーは本職がさまざまで、専業農家の他に大工、農業資材店の営業マン、写真館の主人、貿易商などばらばらだった。彼らは頻繁に集まって知恵とお金を出し合い、何年も高接ぎを試したがなかなか成功しない。しかし彼らは、度重なる失敗にも懲りず、決してあきらめなかった。

「当時の台湾では温帯果物の栽培技術に関するデータが非常に少ない。張榕生さんは日本教育を受けたので、日本語ができる。たくさんの日本のデータを取り寄せて参考にした。だから高接ぎ梨の研究開発は学術的な根拠のあるもので、偶然に発明したのではない」と葉泰竹さんは強調した。

研究チームのメンバーは各々その特長を生かして研究に貢献した。農家は果樹園を実験に提供し、大工は高接ぎ穂を安全に切り取る刀をつくり、農業資材店は高接ぎ穂を台木に固定するプラスチックのテープの粘度と強度を調整し、写真館は果実にかぶせる袋の最適な透明度を模索した。

梨山の新世紀梨の接ぎ穂を使って高接ぎに成功した後、貿易会社を経営している葉泰竹さんのおじさんは、花材の名義で日本から豊水梨と幸水梨の接ぎ穂を輸入した。

当時まだ幼かった葉泰竹さんは、買いに来たお客に接ぎ穂を数えて渡す役目を務めた。葉さんは今でもその時の活気に満ちた様子を鮮明に覚えている。「当時、接ぎ穂は一本五元で今の値段よりずっと高い。それでも争って買いに来る人が絶えなかった」。

客家人は団結心に富み、助け合いの精神と冒険を恐れない性質をもつ。「客家人はよいものに執着し、さらによいものを求める。小さい欠点をも見逃さず、苦労を厭わない」と葉さんは言う。世界に誇るこの高接ぎ梨の技術は、彼らの不撓不屈の精神と最良の物を求める精神の下に生まれたのである。

小雨は梨農家の涙
水梨の接ぎ木は梨農家にとって、一番骨の折れる仕事である。熱帯果物マンゴーのような果樹の接ぎ木は一回で済むが、水梨は毎年繰り返し行わないと実は実らない。そのわけは、接ぎ穂になる枝の花芽は長時間の低温休眠を経てから開花するからだ。高海抜地帯で分化した花芽のある枝を、低海抜地帯の台木に接ぎ木すると、一年目は開花結実するが、二年目からは低温休眠できる気候条件がないので開花しない。それで農家は必ず毎年改めて梨山や日本から接ぎ穂を買って接ぎ木せざるを得ない。コストはかなり高い。

梨の接ぎ穂を買い入れたら、先に数十日冷蔵する。接ぎ木する前の日に冷蔵庫から取り出して、台木に挿し込む穂木の下方をくさび状に削ぐ。この作業は経験豊富なベテランでないと務まらない。切り口が平らかでないと台木と密着しないので、接ぎ木に失敗してしまうのだ。手際よく切るのが肝心である。

翌日、農民は一家総出で高接ぎに忙しく働く。一本一本の接ぎ穂の表皮のすぐ内側の形成層を台木の形成層と密着するように、プラスチックのテープを使ってぐるぐると固く縛りつける。接ぎ木の時間は人によりけりだが、おおよそ十二月の中旬に始まって翌年の一月末に終わる。

接ぎ木して二十五日から三十日経つと接ぎ穂は開花する。一面に白い花が咲く果樹園はとてもきれいだ。しかし、この時期は梨農家にとって気苦労が絶えない時でもある。

「寒波に伴なって雨が降るとの天気予報があれば、農家はいても立ってもいられないほど心配する。雨が降ると花の受粉が妨げられて着果率が極度に落ちる。予報が外れることを願うが、誰にも分からない。天に任せるほかない」と曾栄満さんは淡々と言うものの、辛酸をなめる苦労は梨農家にはつきものだ。

一、二月は寒波が冬の通り雨を頻繁にもたらす季節である。運悪く花が真っ盛りの時に雨に打たれて大半が大きなダメージを受けると、農家はもう一度接ぎ穂を買い求め、接ぎ木をやり直ししなければならない。

(つづく)

文・蔡佳珊/訳・金華/撮影・劉子正