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12月12日
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山を出た被災者を思いやる

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【台風八号による被害・高雄県】

連日の豪雨で高雄県の数多くの山村がひどい災害に見舞われた。
土石流が村や家を押し流し、十日以上もヘリコプターによる救援活動が続いた。
橋が押し流され、道路が寸断し、一つひとつの集落が山間の孤島となった。
場所によっては以前のような美しさを取り戻すことはできないかもしれない。
家族を亡くした悲しみの上に、さらに現実の生活の重荷がのしかかってくる。
緊急援助の段階は過ぎ、復興への歩調を速めなければならない。
住居の提供、安定した生活、安らいだ心、学業の再開。
心温まる愛を以って、村人の悲しみに付き添うことである。

上空をヘリコプターが何度も往復する。毎回、ヘリコプターの音が近づいてくると、高雄県旗山中学校校舎の廊下はざわめき始める。人々は小林村、那瑪夏郷、宝来村……と書かれたプラカードを掲げる。ある人はヘリコプターに向かって手を振り、連絡の取れなくなった家族が運ばれてきたことを祈る。

ヘリコプターが着陸すると、負傷者は待機していた救急車で病院に運ばれ、元気な人は車で避難所に向かう。車の中からは窓のガラスを叩き、外にいる人は精一杯手を振る。何日も安否を気遣ってきた家族の無事な姿を見て、涙がどっと溢れた。今回も失望させられた人はじっと次のヘリコプターの着陸を待つしかない。



高雄県の那瑪夏郷や桃源郷、六亀郷、甲仙郷は先住民族が住む土地で、夏の間、多くの観光客に人気のあるところである。山間には桃やマンゴーの香りが漂い、その頃はサトイモの収穫期でもある。他のところに住んでいる村人は、夏休みに子供を里帰りさせて、お祖父さん、お祖母さんの下で自然に恵まれた生活を満喫させるのだ。

阿里山と台湾の最高峰・玉山の麓にある甲仙郷は、サトイモとタケノコの産地である。同県東北の県境に近い小林村は楠梓仙渓の東岸にある。山と川に囲まれ、騒がしい世間から遠く離れており、正に「桃源郷」の感がある。先住民族のヘイホ族、シラヤ族、タイボアン族が住んでおり、台湾でヘイホ族の文化が最も良好に保存されているところでもある。毎年、旧暦九月十五日には村をあげての「太祖夜祭」が行われ、先祖の霊を祭るために踊りが繰り広げられる。これはヘイホ族の一大行事である。

八月八日は台湾の「父の日」で、週末と重なっていた。多くの若い世代がその日を祝うために里帰りしていた。しかし、台風八号(モラコット台風)が大雨をもたらし、翌九日の朝六時、山の斜面が土石流となって、一瞬のうちに小林小学校や電話会社の通信基地などを押し流した。土石流で小林村の第九地区から第十八地区の合わせて百六十三戸を瞬時に埋没させたのである。

登録されている三百九十五戸、人口約千三百余人の小林村は二日間、外と連絡が取れなかった。雨が激しく降り続き、土石流が発生し堰止湖が決壊する事態に陥った。橋は流され、外から入ることもできず、中からも出ることができなかった。村は陸の孤島となり、難を免れた人は命からがら山から逃れた。

八月十日、被害状況が伝わり、ヘリコプターが出動した。四十数人の村人が見つかり、同県の内門郷にある順賢宮という廟に避難させた。

連絡が取れない家族が気にかかる
小林村では五百人近くと連絡が取れていない。順賢宮に着いた村民は難を逃れたからといって、喜んでいるわけにはいかない。その多くは精神的に落ち着かず、山にいる家族のことが気にかかり、避難所の雰囲気は悲しみに溢れていた。高雄の慈済人は避難所に駆けつけ、被災者を慰めた。

故郷から離れた土地に住んでいる家族はテレビニュースを見ると、避難所に駆けつけた。しかし、その多くは家族の生死が分からないままだった。林さんは慈済のボランティアに抱きついて泣いた。「七日の夜、孫と電話で話しました。水がどんどん家に向かって流れてきて、大人はみんな水を掃きだしていて、怖いと言っていました。その後は電話が通じなくなったのです……」。
大人と子供合わせて十二人の家族と連絡が取れなくなっていた。林さんは不安で涙が止まらなかった。

避難する時、村人は服が雨に濡れては乾き、乾いては濡れるということを繰り返していたため、多くの人の皮膚に湿疹が出た。ある母親は機転を利かせて赤ちゃんの粉ミルクを持って避難したが、雨水で粉ミルクを溶かして飲ませるしかなかった。また、ある人は濡れたために風邪を引いて熱を出した。

ボランティアの楊明薫はその状況を見て、慈済災害援助センターに緊急見舞金を出すよう連絡した。村人はそれで清潔な服を買って着替えることができ、子供を病院に送ることもできるのだ。

六千人がヘリコプターで脱出
甲仙郷以外に那瑪夏郷と六亀郷の山奥の集落でも大きな被害が出ていると伝えられた。捜索活動の範囲が広がり、救助用のヘリコプターは旗山中学校をベースに、孤立した住民を救い出すと共に補給物資を空輸した。

八月十七日、甲仙郷と六亀郷に通じる道が開通した。物資を運び込むことができ、食糧不足の問題が解決した。しかし、ヘリコプターは引き続き、行方不明者を捜索し住民を避難させるために、ひっきりなしに離着陸を繰り返していた。

慈済ボランティアは順賢宮と紫竹寺、永興教会などの避難所に拠点を置いて、避難民への世話や心のケア、物資の補給等を行った。慈済人医会(慈済の医療ボランティアチーム)も拠点を設けて、被災者の傷の手当てや皮膚科、胃腸科の医師が、災害時に顕著な症状の診察を開始した。この他、ヘリコプターが発着する旗山中学校にも慈済救済サービスセンターを設けて常駐し、家族の安否を気遣って、消息を待ち続ける人々に付き添った。

災害の後遺症――
夜と孤独が怖い

長期間、避難所に詰めていたボランティアの黄雪恵がこう語っている。「各方面から救援物資が送られ、水や食糧には事欠かなかったし、多くの病院から医療人員が応援に駆けつけてくれました。しかし、外傷の治療は簡単にできますが、心の傷や恐怖は直ぐには治すことができません」。

多くの被災者は救助されても恐怖の中で生活をしている。暗闇や孤独を怖がり、子供たちもよく夜中にうなされる。ボランティアに相談する人たちもおり、ボランティアが普段、世話を必要とする家庭の訪問をしてきた経験が役に立っていた。

那瑪夏郷と桃源郷、茂林郷は、それぞれ先住民の集落がある地域である。那瑪夏郷は甲仙郷の北に位置し、同じように楠梓仙渓沿いにある。人口は約三千五百人で、居住する主な民族はブヌン族である。今回の災害で最もひどかったのが南沙魯村で、二百戸余りが土石流に押し流され、四百人余りが避難所で生活をしている。

六亀郷の宝来村に住む八十六歳の孫鵬おじいさんは、この地に六十年間、暮らしてきた。「ちょうど夕食をとっていた時に水が上がってきました。『早く逃げろ!』という声が聞こえたので、スリッパを履いて外に出てみました。そうしたら、川の堤防が決壊していたのです。救急車も押し流されていました」。植えてあったマンゴーの木も全部流された、とおじいさんは言った。「村はすっかり変わり果てました。道が開通したら、土石を取り除かなければなりません」。

現地で世話をしている慈済ボランティアの中にも、家族が山に取り残された人がいる。ボランティアの郭明水の家は宝来村にある。台風の前日、彼女は山を降りたが、台風の影響で村への道が寸断され、夫と舅姑と夫の兄が足止めされたのだ。

郭明水は家族のことが気がかりだったが、ボランティアとしての役目を放棄せず、安否を気遣う人々を慰めた。八月十三日になって、やっと舅姑がヘリコプターで救助された。彼女は家族の顔を見たとたん、初めて声をあげて泣いた。

夫と夫の兄はまだ山に取り残されていたが、姑の話で無事であることが分かり安心した。姑は、村人はお互いに助け合っていること、雑貨店の主人が皆に水や食糧を提供してくれ、若い人たちが交替で皆の安全を護っているので、心配は要らないと言った。

姑は嫁が被災者の手伝いをしているのを見て、自分も皆を励ましたいと言った。翌日、旗山中学校に出向き、慈済ボランティアの山吹色のベストを着て、人々の手を取って励ました。「心配しないで。山にいる人は皆、無事ですよ。私の二人の息子もまだあそこにいます」。

どうしてヘリコプターは他の村人を先に救助するのだ、と文句を言う人がいると、「あちらの方が被害がひどいのです。必ずあなたたちの家族を連れてきますよ。安心して待ちましょう」と慰めた。彼女は言葉の最後に必ず、「皆が心を一つにして、勇敢に困難を乗り切りましょう」と付け加えた。



この半月、慈済は緊急見舞金を支給するほか、被災者の心のケアを続けている。後々ケアを続けていくために被災者一人ひとりのケースを記録している。「今、緊急を要しているのは、入学が決まっている子供たちが、家をなくしたために入学通知が届かないことです。そして、生活にも支障が出ており、学用品を揃えることもできません」。

ボランティアは援助の重要項目を詳細に書きとめた。就学、生活、居住、心のケアなどに関するニーズである。

高雄県の教育処は、被災した学校は予定通り八月三十一日に始業式を行い、他の学校で授業を行うことを発表した。花蓮の慈済本会は、経済的に問題のある被災家庭に対して、学費や雑費、制服代、寄宿費などを全額負担することを決めた。そして、就業や居住といった問題を含む被災者の今後の生活についても、援助も行うことになった。緊急援助が終われば、すぐさま再建を始めるのである。

これら先住民の地域には、慈済が長期に亘って世話をしてきた人々が少なくない。ボランティアは災害で連絡が取れなくなった人たちのことが心配で、下山した人のリストの中から彼らの名前を探した。毎月、定期的に訪問していたそれらの集落は、橋が流されたり道が寸断されており、地域によっては二度と以前のような美しい姿は戻らないであろう。家族を亡くした悲しみと現実の生活の重荷が徐々に被災者にのしかかってくる。

しかし、慈済ボランティアは心温まる愛を届け、被災後の悲しみを共に乗り越え、明るい未来に向かって彼らに付き添い歩んでいく。


慈済月刊五一三期より
文・邱如蓮/訳・済運/撮影・蕭耀華