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12月08日
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ブヌン族のママ 丘昭蓉医師の僻地での二十年

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南部横貫道路に沿って、車は山の中をうねりながら上って行く。着いた所は海抜八百メートルに近い台東県海端郷の霧鹿村である。看護師の王美花はブヌン族の言葉と北京語で交互に、「慈済関山病院の巡廻医療車です。診察を受ける人は保健所まで来て下さい……」とマイクで呼びかけている。

「あれ。丘先生は今日はどうして来ていないの?」。村に着き、看護スタッフがお年寄りたちの血圧を量り、診察のため薬を準備していると、村人たちが口々に尋ねる。彼らが気にかけているのは、毎週二回山にやって来る「丘ママ」のことである。

五十二歳の丘昭蓉医師は、人生の半分以上の歳月を台湾の花蓮、台東地方で過ごした。二十年来の医者人生で、彼女が世話をした人は数え切れない。丘医師は、患者や医療チームの人達に「丘ママ」と呼ばれ慕われてきた。海端郷に住む台湾先住民、ブヌン族の人々にとって彼らが最も尊敬する「Gina(ブヌン語で母親の意味)」である。彼女は大地の母の如く光り輝き、人々に温かさを与えている。

丘医師が病気ということを知って村の人達は心配でたまらず、日曜日の礼拝の時には皆で彼女のために祈った。自分達の家族のように思っている「Gina」が一日も早く健康を取り戻せますように、そしてまた山に来て皆の健康をまもってくれますようにと。

様々な苦労を経験し
医師を志す

目鼻立ちのはっきりした丘昭蓉医師は、ミャンマー生まれである。だが彼女は、台湾の花蓮、台東地方を自分の故郷と思っている。あちこちを走り回り、もっと多くの人達にこの土地に関心を持ってもらえるよう努力してきた。

「丘先生と一緒に海端郷に往診に行くときには、倹約して旅館には泊まらず、夜は保健所のベッドか診察台で眠り、翌朝早く起きて病人を診るのでした」と、かつて何度も丘昭蓉医師と一緒に山村で巡廻医療活動をしたことのある米国慈済人医会の林元清医師は話す。

ある時の往診で、一人住まいのお婆さんの家が汚なく散らかっているのを見た丘医師は、すぐに袖をまくり上げて看護師と一緒にお婆さんの体を洗ってあげ、服を洗い薬を塗りかえてあげた。「山の人達の名前を丘医師はみんな知っていますよ。どんな薬を飲んでいるか、家族にはどんな人がいるかなどもすべて覚えています」。

先住民の村人を自分の身内の者のように思っている。丘昭蓉医師が熱心に花蓮、台東地区の人のために尽くすのは、彼女の幼少時代の経験が深く影響している。

第二次世界大戦の時、父母は中国大陸の広東から逃げ出し、四番目の兄と彼女はミャンマーで生まれた。ミャンマーと雲南の境で育ち、小さい時からタイ族やチンプオ族などの少数民族と親しくしていた。そして彼女は彼らマイノリティに同情し理解を持っていた。

弱い者に同情を寄せ、助けるということは、彼女にとって使命である。台湾に来て華僑大学の予備クラスに入った時、シュバイツァーがアフリカへ渡り黒人に医療を行ったことに感動し、医学を学び僻地での医療に尽くそうと志した。

一九九〇年に台湾大学医学院を卒業後、花蓮に行った。初めは小児科を担当し、後には産婦人科の病院勤務医になった。三年後に慈済花蓮病院の産婦人科チームに参加した。

患者の下へ飛んで行く
丘昭蓉医師は患者に深く信頼され、いつも忙しい。

「彼女の仕事に対する態度は大変立派なものです。病人に対しては優しいし、仕事をする時はとても勇気があります」。現在、慈済台北病院の産婦人科医を務める曾倫娜医師は言う。以前彼女は丘昭蓉医師について学び、病人を救うためには危険も顧みない丘昭蓉医師の姿を目にしたことがある。

丘昭蓉医師はいつも全力を尽くして母親達の診療にあたるので、患者は「丘ママ」と呼んでいる。しかし長年産婦人科医を務めてきた丘昭蓉医師にはいろいろと思うことがある。朝、分娩室で赤ちゃんを取りあげたばかりなのに、夜には病室で癌にかかった婦人を見送ることもある。喜びと悲しみの二つの感情が交じり、そのくり返しで彼女は命について深く考えるようになった。何年か経って彼女は家庭医学科に変ることに決め、ホスピス病棟で癌の末期患者の世話をすることになった。

「私は思うのです。最期を見送るのと、赤子を取りあげることの功徳は同じことです。それは喜びとは言えないけれど一種の慰めです。最期の時、病人は恐れあわててなすすべもなく、家族の悲痛も大変なものです。ホスピスケアは病人が安らかにその最期を迎える手助けをすることです」。丘昭蓉医師は自分がホスピスに尽す気持ちをこのように話す。

一人も見捨てはしない
一九九八年、丘昭蓉医師は花蓮県富里郷保健所に配属され、小さな村の医師となった。その後、台東県の慈済関山病院に転勤した。

今までにさまざまな科で積み上げてきた専門知識を駆使して、広い範囲で充分に力を発揮できた。外来診察に始まり、救急センターや地域健康検査、自宅治療をしている慢性病患者の介護、山地の巡廻医療、海端郷保健所の医療支援や自宅におけるホスピスケアなどを推し進め、好評を得ている。

花蓮県と台東県は台湾で結核病患者の一番多い県である。慈済関山病院では健康保険局の補助を受けて、海端郷の下馬、霧鹿、利稲の三つの先住民村落で往診を進めており、数年の間に結核患者のほとんどを根治した。丘昭蓉医師は母親のように姉のように親身になって診察を行ったので、村人たちの心を動かした。

「初めて山の村に行った時は、自分から先頭に立って病人を探しました。時には病人に頼み込んで診察に来てもらいました」と今は慈済関山病院の看護師長をしている古花妹は言いました。村人達は始め、慈済が村に仏教の布教に来たと誤解していた。それか、自分たちに菜食を勧めるつもりなのだろうと思い、不信感からなかなか病気を診てもらおうとしなかった。

後になり丘昭蓉医師は自分から出かけていくことを決心して、看護スタッフを連れて一軒ずつ病人を探して歩いた。まず一人暮らしのお年寄りから始めた。ただ病気の治療だけではなく、その暮らしぶりにも関心を払って世話をするので、次第に村人たちは医療スタッフの誠意を理解し、安心して治療を受けるようになった。

自らも海端郷ブヌン族の出身である古花妹は、先住民の人たちは外部から来た者への警戒心が強く、なかなか受け入れられないのだと話した。キリスト教を信仰しているので、とくに仏教の病院からの手助けはなおさらのこと受けつけない。しかし丘医師は辛抱強く彼らの疑いを晴らし、真心を込めて病人をいたわり抱きしめる。

丘昭蓉医師は病人を診るだけでなく村人の飲酒の問題を気遣っている。これはこの地方のいろいろな病気や不慮の事故の原因である。この悪い習慣は治さなければいけないということはよく分かっているが、なかなかむずかしい問題である。しかし丘医師は決してあきらめない。いつも口をすっぱくして人に言い聞かせている。

いつも往診について行くブヌン族の看護師の王美花は丘医師に尋ねたことがある。「あの人達はいくら言っても言うことを聞きません。自分から堕落して行くんです。どうしてあんな人達を助けるのですか?」と。

すると、丘昭蓉医師は、「もしイエス様がおられたら、きっと世の中の人すべてを愛されるでしょう。また罪のある人も愛されるはずですよ」と答えた。

丘昭蓉医師は宗教と医学の両方で説明する。アルコール中毒になってしまうのは、脳の構造と関係があるか、家庭、社会、経済などさまざまな圧力に負けてしまったからであると。「たとえ仏様でもキリスト様でもこんな人を救われる。私達はどうして見捨てることができますか?」

丘昭蓉医師は山地の医療にとても力を入れている。大人の世話をするだけでなく、夏休みを利用して慈済大学の学生達をさそって村を訪れ、キャンプをしたりしている。山の子供達に正しい衛生習慣を教えている。

いつも山の人たちのことを思っている
昨年四月、十五歳も年上で、小さい時から母のように世話をして育ててくれた丘医師の一番上の姉さんが交通事故で亡くなった。その頃から、彼女の体調も段々悪くなっていった。

始め彼女は、姉の死がつらく食欲がなくなったために体重が減っているのだと思っていた。六、七月頃になると腹部が痛み出し、少し食べただけでも吐き出してしまう。検査の結果、肝臓に腫瘤が発見され、胆嚢などにも転移していた。

「山の上へ巡廻医療に行った時は、夜遅くにやっと休むことができます。翌日はまた早く起きて診察しなければならず、丘医師は肝臓が悪いので身体の負担もきっと重かったことでしょう。いつも自分のポケットマネーでビタビン剤を買って村人たちに注射をしてあげていました。ホスピスの看護をするためには、いつ呼ばれてもすぐに飛んで行きました。そして病人が往生した後も続けて家族に関心を寄せる。その感情はとても深いものです」と丘昭蓉医師とは台湾大学医学院の同級であった、慈済関山病院の潘永謙院長は言う。「辺鄙な地域に来てくれる医師は少ないが、丘医師は自分のことなど考えず、長期間ここに留まった。医師として一番よいお手本です」。

八月に丘昭蓉医師はしばらく仕事を休み、慈済花蓮病院で治療を受けることになった。だが病床に横たわっていても丘医師は山の村の人達のことを気にし、慈済関山病院の患者のことを心にかけていた。それから多くの在宅ホスピスケアを受けている老人達のことも。

「山の人のために働いて八年、いつも山に行く時はまるで親戚を見に行くような気持ちになります。自分もすっかり村の人になったような感じです。本当にあの人たちがなつかしい」。丘昭蓉医師はまた山の村に行きたいと思っていたが、体は日ごとに悪くなっていき、永遠に叶わない夢となってしまった。

丘昭蓉医師が村の人達には決して病気のことを知らせないようにと口止めしていても、皆に知れてしまった。丘医師が北部の甥の家で養生していることを知って、村人達は今年の初め一台の遊覧バスを借りて北部へ行き、彼女の家に見舞いに行った。

今までずっと人の面倒を見て来た丘医師が、百六十九センチの体が病気にさいなまれて四十キロあまりにやせ衰えた様子を見て、皆は心配でならず、ブヌン族の八部和音を合唱して、心を込めて彼女のために祈った。丘昭蓉医師はブヌン族の優美な合唱の中に浸り、やせた頬に満足気な笑顔を見せた。

今年四月初め、丘昭蓉医師は慈済台北病院のホスピス病棟に入院した。花蓮と関山の慈済病院のスタッフが四月十三日の彼女の誕生日の前に台北に見舞いに来た。

「丘ママ」と呼ばれ愛されている丘医師は、相変らずほほえみを浮かべているが、弱った体をベッドに横たえ、話し声もかすれている。その様子を目の前に見て、皆はまぶたを赤くし、祝福の歌を唄い始めると誰も我慢できなくなった。

四月十七日、丘昭蓉医師は痛みをこらえてボランティア朝会に参加して、證厳上人様にお目にかかりたいと言った。病室に帰ると、静かに眠りに入った。そしてその夜、身寄りの者や友人、看護の人達に、自分の命はもう長くはないと言った。それから三日後の四月二十日の朝、彼女は安らかに両目を閉じた。

しかし皆は信じている。丘医師は花蓮、台東の人々と約束をしている。きっと村々の医療を推し進め、在宅ホスピスケアに力を入れる、そして地域健康講座を続けるというものだ。これらの願いはまだ果たされていない。丘医師は必ずこの願いを叶えるためやって来る。もう一度、慈悲深く力強い医者として現れると信じている。


慈済月刊五一〇期より
文・黄秀花/訳・張美芳
 

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