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04月18日
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善意に解釈して 自在を得る

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【言葉の力】そのニ

「静思語」は私にとって知恵の宝庫のようです。とくに「福とは善を実践して喜びを得ることであり、智慧とは善意に解釈して自在を得ることである」という静思語を最も気に入っています。

当時、慈済に出会った因縁で、私は狭く平凡な人生から歩み出て、たくさんの人々と縁を結びました。内向的だった私の性格もだんだん明るくなりました。慈済は本当に優秀な人材が多い団体です。皆がそれぞれ堪能な分野で慈済の志業に力を尽くしています。そんなボランティアの一人ひとりが私にとって学ぶべきお手本で、彼らから多くの善の知識を得られたからこそ、志を固くして菩薩道を歩み続けることができたのです。

ブルーのシャツに白いズボンのユニフォームを着て慈済ボランティアの姿になる度に、自分が身体の芯から優しくなったなあと感じてすっかり嬉しくなりました。

かつて中国のある地方で純朴な住民に接したことがありました。彼らを援助しているうちに自分自身も救われたように感じました。そしてこのときの感動が、私に「これからはもっと慈しみの心を持って、人に感謝しよう」という決意をさせました。 
    
慈済が主催した活動で、ある高校生が「慈済ボランティアはいつも無私の心で奉仕しています。まるでこの世の人ではないのではと思ってしまうほどです」と、讃えてくれました。この言葉を聞いて私は気恥ずかしい、こそばゆい思いがしましたが、でもこの言葉を祝福と受けとめ、これからも慈済の列について積極的に行動しようと、自分を励ましました。

何年か前に、印順導師のご著書を読むようにと薦められましたが、当時の私はとても難しく感じ、なかなか読み進むことができませんでした。慈済のボランティアになって実際に奉仕するなか、衆生の生老病死を目の当たりにしました。人生の無常や苦、そして慈悲喜捨を身を以って体験したことが、仏法の真意を理解するのに役に立ったと思います。そして、自分は福を積んで智慧を増しただろうかとばかり気にしていました。

「慈済人は福を植えているけれども、完全な智慧を得ることはないでしょう」と誰かが言うのを聞いて、私ははっと気がつきました。海のように広くて深い智慧を持っていらっしゃる印順導師でさえご自分の修行について、『福が足りないので完全な智慧は得られない』と謙虚に述べておられたのに、凡人の私たちが福を植えることをせずに、どうやって完全な智慧を得られるのでしょうか。

その後、私は仏教学院に入りました。世間の目から見れば私は智慧を増やしたと思われるかもしれません。ところが、福を培うよりも消耗した方が多いようでした。また「貪、嗔、癡」という三毒の煩悩も常々起こりました。煩悩が生まれ無明に覆われる度に、私は慙愧の念に耐えがたく苦しみました。

時々慈済ボランティアになりたての懐かしい時期を思い出すと、思わず微笑が浮かんでくるのです。慈済ボランティアたちは今でも相変わらず黙々と苦難に苦しむ衆生のために力を尽くしていることを「慈済月刊」で知りました。このような人間菩薩こそが福も智慧も修得した真の「福慧双修」なのだとつくづく思います。

慈済に参加して「福とは善を実践して喜びを得ること」の道理を体得するのはさほど難しくなかったですが、「智慧とは善意に解釈して自在を得ること」を実現するのは並大抵のことではありません。なにしろ福と智慧とは背中合わせのようで、福を培うことで智慧が増してくるのです。善意に解釈する智慧を持つことなのです。

善を実践しながら常に自分は敬虔な心でいるかと顧み、善意に解釈する智慧が日ごとに増しているかどうかと心がけていれば、やがて善因が果報に転化し、喜んで末永く奉仕することができるでしょう。


慈済月刊五二四期より
文・心吾/訳・心嫈
 

" 人はとかく偏った一念のために、愛し合い助け合う人生を捨てて、奪い合い憎み合い傷つけ合う人生を貪る。その原因はと言えば、名利や快楽を貪り、己の清浄なる本性を覆いかぶせてしまったからに外ならない。 "
静思語