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12月08日
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電車と車椅子――愛の約束

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改札口を通って、線路を渡って
プラットフォームを上り下りし
電車に乗せたり電車から降ろしたり……
週二回、台湾中西部の彰化駅で
車椅子を押す
慈済ボランティアの姿が見られる
電車で通学する
身体障害者の子どもたちを
送り迎えしているのだ
雨の日も風の日も、七年間休むことなく
時間を気にしながら安全に注意して
慎重に車椅子を押す
子どもたちを無事に学校や家に
送り届けるのが彼らの任務だ



金曜日の午後二時、黄惟聰さんは外出用の服に着替えて待った。嘉義から電車に乗り、彰化まで行って、学校に寄宿している子どもを迎えに行くのである。息子の洪嵐義君は高校生であるが、普通の人にとって何のことはない一時間半の道程も、重い脳性麻痺を患っている彼にとっては難しい。

嵐義君が通う国立和美実験学校は彰化県にある。幼稚園から高校までの身体障害者を受け入れている特殊教育校である。生徒は全国から集まっており、北は基隆から南は屏東、そして、東部の花蓮や離島の金門からも来ている。通学にかかる時間を考慮した場合、月曜日から木曜日まで寄宿させ、週末に家に帰す方法が最も適している。

だが、彰化駅の三つのプラットフォームにはエレベーターはなく、階段しかないため、車椅子で線路を渡らなければならない。体が不自由な生徒たちにとっては危険極まりないことである。以前、通学する生徒の安全を守る役は教師や駅員、駅のボランティアなどであった。

南行きと北行きのプラットフォームは別で、電車の到着時間と生徒が乗る電車に注意しながら、プラットフォームを渡り、線路を越え、身障者用座席がある車両が止まる位置で電車が来るのを待つ。そして、車椅子を固定する特殊補助器具の準備をして車椅子ごと車両の中へ移す。

このような煩雑な手順をラッシュアワーの時に行うのである。駅員は人手が足りず、いつも生徒たちが無事に電車に乗れるだろうかと気が気ではない。

「七年前まで、私たちは生徒たちが通学する金曜日と日曜日が訪れるのをいつも心配しながら待っていました」と、彰化駅の李慶金駅長は遠くを見るように思い出していた。「慈済ボランティアが手伝いに来てくれてからは、毎週その日が来ても、前の晩に安心して眠れるようになりました」



金曜日の午後四時、和美実験学校の下校時間の前に、二十人近い彰化地区の慈済ボランティアが駅で隊列を成して待っていた。
スクールバスが着くと、ボランティアは二つのグループに分かれる。一つはバスの前方の扉の前で行動が不自由な子どもたちを降ろす。もう一つのグループはバスの後方にある昇降機で車椅子の生徒を降ろす手伝いをする。

もう長いことお世話をしてきているので、彼らは生徒たちの名前を覚えており、互いにお喋りする。学校の生活指導員である左彦林さんは、「この子たちは見知らぬ人に対しては人見知りしますが、七年間も奉仕してくれているボランティアは受け入れています」と言った。

愛で道を切り開けば
生徒も父兄も安心する

七年前、和美実験学校で教員をしていた慈済ボランティアの謝木秀さんは、慈済彰化支部に支援を求めた。そして、二00四年五月に子どもたちの送り迎えが始まった。二十人のボランティアが毎週、交代で奉仕している。彼らは「奉仕するならより良い奉仕をしよう」という目標を立てた。子どもたちの体を守るだけでなく、心のケアもするのだ。

「彼らは行動は不自由でも、自尊心が非常に強いのです」。ボランティアは数年前、学校へ行って授業の手伝いをしたことがあり、子どもたちのことをよく理解している。「絶対に必要としない限り、彼らは簡単に手伝いをさせてはくれません。ですから、私たちは必ず『手伝おうか?』とまず聞きます。『要らない』とその子が言えば手助けはせず、子どもが必要なときにいつでも呼べるように、後ろについていきます」とボランティアの鍾雪芳さんが説明してくれた。

「嬉しい時や嫌な時、人を叩く方法で気持ちを表現する子がいます。私たちはそれも理解するよう努力しています」とボランティアである劉国良さんが付け加えた。

ある三兄弟は皆、車椅子が必要な障害児で、母親のパートの収入と政府の手当てで生活している。「兄弟の一人が家庭状況を話してくれた時、涙がこぼれました」。それからは、ボランティアの張文成さんは付き添ってバスを待つ間、いつもその兄弟に話しかけ、冗談を言って笑わせます。「彼らの笑顔を見ると、私の心も安らぎます」

ボランティアたちは生徒を自分たちの子どものように思っており、左彦林さんは何度も涙を流したことがある。ある寒い冬の日、風がとくに強かった。「子どもたちは寒さで鼻水を流していました。ボランティアは躊躇することなく、自分たちのコートを脱いで、子どもたちに着せてあげたのです。彼らは凍えて身震いしていましたが、寒くなんかないと言い張っていました」
それを見て、学校の先生だけでなく、父兄たちも感動した。

黄惟聰さんの息子の嵐義君は出産の時、臍の緒が首に絡まり、脳が酸欠状態となったために重い脳性麻痺に陥ったのだ。手足が不自由なだけでなく、視力も全盲に近い。彼女は毎日、子どもに付き添って授業に出、片時も離れることなく世話をしていた。子どもが小学校を卒業した後、家庭の事情で学校には通わずホームスクールを行うことにした。

しかし、嵐義君の言語能力が大きく後退したため、二年間のホームスクールの後、黄さんは息子を彰化和美実験学校に入れることにした。「一年目、あの子が会話できることを誰も知りませんでした。二年目、先生が同級生と遊ぶよう励まして下さり、次第にコミュニケーションの能力を取り戻しました」黄さんは息子を人と接触させることには積極的だが、息子を世話する人となると慎重になってしまう。

ある時、彼女は息子を脳性麻痺の子どもを対象にしたキャンプに連れて行った。「たったの一週間だけでしたが、息子を見てびっくりしてしまいました。というのも、おむつが逆さまにつけられ、車椅子にもまともに坐れなくなっていたのです。医者に連れていったところ、寛骨がひどく脱臼していたのが分りました。抱き上げる角度と力の使い方が間違っていたことによって脱臼が起きたのです」
こういうことが一度ならず起こった。ある金曜日、家へ帰る時、教師とボランティアの数が足りず、一般の乗客に手伝ってもらったことがある。「乗客は皆、喜んで手伝ってくれました。車椅子を押すのは簡単なように見えますが、電車の中は狭く、向きを変える時に乗っている子どもに注意を払う必要があるのです。家へ帰ってから、サンダルを履いた息子のつま先にあざができていたのを発見しました」

こうした子どもは大方、意思表示するのが下手で、子どもの調子が悪いのに気づいた時は、往往にして見た目よりもひどい状況だということがある。「それ以来、電車に間に合いそうにもない時でも、慈済ボランティア以外には人に息子を任せられなくなりました」
かつて何度か急いでいたので、嵐義君に我慢してもらって電車から車椅子ごと段差を超えて降ろしたことがある。嵐義君がびっくりし、心地悪いのは当然だ。「しかし、慈済ボランティアはどんなに急いでいても、子どもが心地よいかどうか気を遣ってくれます」
車椅子を押す時、ボランティアは石を避けて通る。踏み切りを渡る時は、車輪が線路の隙間に挟まれないように車椅子を逆向きにして引っ張るのだ。また、子どもの足がしっかり車椅子の踏み台に載っているかどうか気を配る。押している間に怪我をさせてはならないからだ。

急いで電車に乗らなければならない時、ボランティアは素早く二人一組になって、車椅子を持ち上げて乗せる。百キロ近い電動車椅子の場合は、四人の男性ボランティアが協力して、傾かないように慎重に電車に乗せるのだ。

心温まる送り迎え
プラットフォームの守護者

週二日、駅での送迎は七年間続いている。悪天候の日でも、ボランティアが雨具を着て、生徒が濡れないよう傘を差しながらプラットフォームを行き来する姿が見える。

駅に入ってからプラットフォームまで、およそ三百メートルある。「一年間にボランティアが生徒のために歩く距離は、ざっと計算して台湾を一周していることになります」と彰化駅の駅長である李慶金さんが言った。

「正直言ってこの七年間、私たちはいつもびくびくしていました」。鉄道局を定年退職した慈済ボランティアの劉国良さんは、この任務を引き受けた頃のことを控えめな態度で語った。「以前、私は安全管理の任務についていましたから、この任務がどれだけ危険かをよく知っていました」

彰化駅には三つのプラットフォームがあり、駅の北側にある線路は大きく曲がっていて、電車が来るのを見通すことができない。経験豊富な駅員でさえも、踏み切りを超えて荷物を運ぶ時に電車に荷物をぶつけられる事故に遭っている。ましてや、数十人の身体障害者の生徒の電車への乗り降りを手伝うのは、並大抵のことではない。

「私たちは怖いとは思っていません。それに子どもたちから感謝されるのを期待しているのでもありません。彼らの居心地が悪くはないかと気になるだけです」とボランティアの王志銘さんが笑って言った。子どもたちは皆、彼の子どもと同じくらいの年頃である。「人の身になって考えれば、もし、私があの子たちの親だったら、あの子たちが怪我したり嫌な思いをすることに耐えられないはずです」

ある時、ボランティアが子どもたちを電車に乗せたところ、ドアが閉まってしまった。そのまま、数人のボランティアは子どもたちに付き添って台中まで行き、また、切符を買って彰化へ戻ったことがある。

長年、子どもたちの世話をしていると、お互いの間に信頼関係ができあがる。父兄が急用で駅まで子どもを迎えに行けない時、学校から彰化の慈済を通じて、現地の慈済ボランティアを駅に迎えにやらせることがある。「その子どもは迎えに来たボランティアに一度も会ったことがなくても、紺のシャツに白いパンツを着ているのを見れば、安心して頼れるのです」とボランティアの鍾雪芳さんが言った。

「ボランティアが手伝いに来てくれるようになってから、私たちはすっかり頼っています」と黄惟聰さんが笑いながら言った。「彼らが少しでも遅れて来ると、先生も駅員の方も慌ててしまうのです」

「以前、心配で子どもに付き添って彰化まで行き、それから戻って来る親がたくさんいましたが、今はそういう父兄は少なくなっています」。これは数字にも表れている。左彦林さんの説明では、以前は三百二十人が寄宿生で、わずか二十数人が親の送り迎えで電車で通っていた。送り迎えができない家庭では、子どもを寄宿舎に預け、せいぜい年に四回くらいしか家に帰ってこれない。しかし、今では寄宿生は百八十人程度で、電車で通学する生徒が七十人余りに増えている。

「慈済ボランティアが手伝ってくれるので、父兄たちが安心し、良い噂として広まっています」。左彦林さんが笑いながら「それだから入学を希望する生徒が後を絶えないのですよ」と言った。

車椅子を押しながら心の扉を開く

和美実験学校の高等部に通う呉尹莙さんの家は新北市の板橋区にある。以前、母親は彼女が一人で電車で学校に通うのが心配だった。「しかし、私は電車に乗るのが好きで、今ではお母さんに面倒をかけずに自分で出かけることができるようになったのです」と彼女が言った。

車椅子生活の尹莙さんは会話能力が非常に高い。明るい笑顔でこう言った。「踏み切りを渡る時も怖くないわ。ボランティアのおばさんやおじさんを信頼しているから」

「その信頼はどこから来るの?」と聞くと、尹莙さんは頭をかしげ、恥ずかしそうに「よく分らないけど、みんなが私によくしてくれるからかも」と言った。

学校や父兄にとっては、子どもを電車で通学させるのは、自分で送り迎えするよりもよほど心配である。しかし、今、安全に子どもを一人で外に出すことができるようになってからは、双方とも心の中で誇らしく思っている。

そしてボランティアにとって、この子たちが周りの人の手助けによって自信を得、勇敢に社会の荒波に立ち向かっていくことが、これ以上ない見返りなのである。

慈済月刊五二七期より
文・凃心怡 訳・済運