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07月16日
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陳喜久さんの「喜びの久しく続く」人生

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すべての事を自分中心に考えず
陳喜久さんは心を広く持ち
人生を喜んで生きる
最初によく計画を立てていても
必ずしも順調にゆくとは限らない
人に対し愛と尊重の気持ちがある限り
何事もすべて円満にゆくことを悟った

年は七十に近いが、陳喜久さんは現役のころと変わらぬ効率で仕事をこなす。リタイアした後で慈済委員になった。昼間はケア家庭の訪問をしたり、亡くなられた人のためにお経を唱える。台南支部の相談ボランティアもしている。地域で血圧測量、生活保護世帯を訪問したりしている。

「法師さまは、やると決心してできないことはないと教えられています」と語る陳喜久さんは、自分にできないことは仲間を集めて一緒にする。

父親も夫も子供も家の男は皆亡くなってしまったが、陳喜久さんの二人の娘は結婚後、母親と母方の祖母を引き取り、一緒に住んでいる。結婚した娘達と四世代一緒に暮らす大家庭は大変珍しいものである。リタイアした後、喜久さんは孫娘の通学の世話をしたり、八十八歳の老いた母の世話をしたりするほかは、ボランティアの時間にあてている。

年は取っているが色白で上品な物腰の母は、娘の喜久さんがボランティアをすることをとても支持している。もし喜久さんが遅く帰ってくると、彼女は自分で食事の支度をして食事をすまし、決して娘と孫たちに迷惑をかけない。たまに喜久さんは、母を連れて訪問ケアに出かける。

一昨年、喜久さんは母親の記憶力が衰えてきていることに気がついた。時には現実と幻想の区別がつかなくなったりして、ひどい情緒不安に陥ることがある。彼女はできるだけ多くの時間を割いて母に付き添う決心をした。しかし、慈済の仕事に対する情熱は衰えず、彼女はいつも母を自分のそばから離さずボランティアの仕事に励んだ。

髪の毛も真白になった喜久さんは、ずば抜けた精神力と優れた知恵を以って頑張っている。その彼女自身もかつて人生で大きな困難に陥ったことのあることを、自ら話さなければ誰も知る人はなかった。


お嬢さま育ちが強い女になる

父母ともに高等教育を受けた上流家庭で、喜久さんは一人娘として育った。嫁に行くまでは家事をしたこともない幸せなお嬢さまだった。

夫は会社の同僚だった。二人が付き合っていた時、同僚が彼女に注意したことがあった。あの人は無責任で、賭博が好きな人間だから注意しなさいと。しかし喜久さんは彼の芸術的才能に魅了され、自分が彼を変えることができると思っていた。

二十三歳で結婚するとまもなく夫は本性を現した。賭博して負けても、「金はうちの女房にもらってくれ」と平気な顔で言う。夫婦はこのことで争いが絶えないようになった。同じアパートの上と下の階には同僚が住んでおり、喜久さんは人に笑われたくないといつも我慢していた。

結婚生活もあまりうまくいかず、彼女は全身全霊で仕事に打ち込んでいた。会社はコンピューター化の作業をすすめていくことを計画し、上司は彼女にコンピューターの勉強をするよう勧めた。毎日朝早くから夜遅くまで、時には夜中の十二時まで会社に残って帳面の整理をした。

仕事と子供の世話の両方をするのは大変なことなので、喜久さんは子供を実家の父母に頼んで面倒を見てもらった。夫といえば早々に仕事を辞め、妻が一生世話してくれると考えていた。姑は喜久さんが仕事に夢中で、家庭や夫を顧みないと大いに不満だった。

三十年前に父が亡くなったので、母親を高雄から台南に呼び寄せ同居を始めた。そして夫に母の経営していた店をやってもらうことにした。

「私は何でも計画するのは得意なんですけれどね、なかなか思う通りにはいかないものですよ」と喜久さんは言う。もともと母親の商売はうまく行っていたのに、夫が引き継いだ後は賭博をしたりダンスホールに通ったりと真面目にやらないので、客足も遠のき、商売も振るわなくなった。

彼女は夫の作った債務を整理したが、それは底なしの沼のようなもので負債は増えるばかり、収入は追いつかない。仕方なく彼女は同僚や親戚に借金したが、どうしてもやりくりができなくなって来た。相手もそれに気づいて段々貸してくれなくなった。

「これには私も自尊心をひどく傷つけられました」。喜久さんは体面を守るため夫の債務を我が身に引き受けたが、それはもう自分の力の及ぶ所ではなかった。

厳し過ぎる愛は害になる

夫は家庭の責任など全然取ろうとしないし、三人の子供の教育の責任は全部喜久さんの肩にかかっていた。

「男の子は強くならなければ駄目よ。一家の大黒柱になるんですからね」と、無責任な夫への不満から、一人息子に期待のすべてをかけていた。息子は小さい時から母の圧力を受けていつも逃げ出したい気持ちで一杯だった。

中学三年の時、息子は友達と深夜まで遊び回るようになった。彼女はますます厳しくし、息子は段々反抗心が強くなっていった。高校に入ると息子の行いはエスカレートしていった。タバコを吸い、何度も家出をした。学校から連絡がひっきりなしに入り、仕方なくよその学校に転校させた。結局二度も転校し、五年かかってやっと卒業した。

息子が兵役を終えると、彼女は旅行会社への就職を世話してやったが、息子は客の接待を口実に酒におぼれるようになった。彼女が叱れば叱るほど、息子は沈黙し、最後には家を出て行った。

またも家族の者が思うようにいかぬようになり、彼女は自分の無力を感じ、一人苦しむのだった。だが決して誰にも心のうちを話さなかった。

そしてある時、息子から病院に入院したとの知らせがあった。自分が酒を飲まなければならないような仕事を探してやったために、息子は体をこわしてしまったと思った。息子が亡くなった時、二十九歳に過ぎなかった。息子を手助けしたのではなく、自分のせいでこんなことになってしまった、みんな自分の間違いだったと、喜久さんは自分を責め、苦しみのどん底に落ちたのだった。

結婚生活はうまくいかず、負債に追われ、息子も早くに死んでしまった。会社では管理職に昇任したけれど、喜久さんは少しも嬉しくなかった。

彼女は自分のすることにはとても自信を持っていたので、部下にも厳しく要求していた。同僚達は彼女を恐れ、心から親しくする者はいなかった。皆、彼女のことを敬遠していた。

婚姻に赤信号が点り始めた時にも、友達も少ない喜久さんは、自分が長い間間違った状態の生活を続けていること、ずっと不安定な情緒を持ち続けていることを感じていたが、誰にも相談できずにいた。


体の病も心の病も同じこと

二〇〇一年、喜久さんは脳腫瘍に罹って入院した。その時、へルパーさんは彼女と夫の仲がうまくいっていないのに気がついた。そして大愛テレビ(慈済のテレビ局)の番組を見るようにと勧めた。

退院してから会社から三カ月の休みをとった。家で大愛テレビを毎日見て、證厳法師のお話をいろいろ聞いて、證厳法師の言われることは昔からの言い伝えと同じことだと思った。儒教で言う「克己復礼」の考えと同じである。我を曲げられない彼女は、「私は何も間違ったことはしていないのに、どうして人に謝らなければいけないのか? そんなことはとても無理なことで、無理なことをしてもかえって心の中が落ち着かないのでは?」と心の中は疑念でいっぱいだった。

しかし続けてお話を聞いているうちに、彼女はいろいろと考え、それも悪くないことだと思うようになった。もし人によくしてもらいたければ、先に自分から人によくすべきだと思うようになった。

彼女は慈済の会員になった。また、慈済委員に誘われて、一緒にボランティアとして奉仕するようになった。再び職場に戻った後、彼女はまず人に対してよくするように努めた。

前のようなしかめ面をしなくなり、同僚達も以前と違って気軽に話しかけてくるようになった。彼女は自分もよく作り笑顔をするようになったなあと思った。同僚達は冗談まじりに「あれ? 喜久さん、私は何だかあなたが帰ってきてから、どこか違うようになったと思うけどね?」と言った。

「きっと頭にメスを入れられたから違うようになったのよ」と冗談を言い返した喜久さんは、自分も「無理してもそうしてると本当にそうなった」と実感していた。今までの自分を考えると、自分でもおかしくなり、自分で自分をからかうのだった。

ある同僚が彼女が手助けしたことに感謝して、特別に朝食を準備して来てくれた。きれいに切られた果物を前にして、喜久さんは泣いてしまった。「どうして人は私にこんなによくしてくれるのに、以前私はあの人達にもっと優しくできなかったのだろう?」と心から恥ずかしく思い、過去の自分を反省した。「会計を学んだ私は、何事にも正確さを求め、物事の是非をはっきりさせるという考えに凝り固まっていました。知らぬ間に人の間違いも絶対に許せないという性質になってしまい、たくさんの悪縁を作ってしまいました」

喜久さんは慈済を知って本当によかったと思っている。そのおかげで子供達ともいろいろな話ができるようになった。息子はもう亡くなってしまったけれど、幸に同僚達と仲よくするのには間に合った。


訪問ケアの心得

二〇〇四年の末、喜久さんはリタイアして生活は奉仕第一となった。

慈済委員の訓練期間中、慈善奉仕のケースを記録することがうまくできるから、彼女は訪問ケアのボランティアを主な仕事とした。

もともとコンピューターに詳しい彼女は、ソーシャルワーカーからいろいろな資料を集めて整理した後、自分でケア計画を作成した。

喜久さんは、援助するためには充分心して行わなければいけない、それでないとせっかく築き上げた信頼関係も崩れ、相手を傷つけることになると考えている。「善を行い人に関心を持つということは、決して簡単にできることではなく、ちゃんと計画を立てても、相手の人との間にずれがある時は折を見て改めることが大切です」

彼女は援助する人達の性格や能力をよく調べ、決して急いで解決しようとしない。付き添っているうちに相手にやる気がないのを発見した時には、何とかよい方法がないか考える。

二〇〇八年末の頃、喜久さんは縁あって、自分の息子と同じ位の年齢の若者、倪国俊さんの世話をすることになった。彼はまるで鏡のようで、彼女に昔の自分を思い出させた。そして自分の昔の人生を反省し、彼のことをいたわるのだった。

国俊さんもまた彼女のことを母親のように慕ってくれたが、彼女は絶対昔息子に対したようなやり方で彼に接しなかった。彼のことを大切な人だと思い、尊重の態度で国俊さんの人生の低迷期を一緒に寄り添って歩き、温かい愛で包んだ。

助けを必要としている人に温かく寄り添い励まして、うまくやっていくには、しっかりと責任を取る真摯な態度が必要である。そして人生のさまざまな試練を経験し、その人の苦労をよく理解して、冷静な知恵で人を助けてあげたから、やり遂げることができたのである。

昔、同僚に「とてもよいお名前ですね」と言われたことがある。同僚達の心には、彼女は管理職として能力もあり、顔立ちも言葉遣いも、よい家庭の奥さんのようであり、名前通り「喜びの久しく続く」女性として映ったのである。しかし、人生の半分を面子を保つことばかりにこだわっていた喜久さんは、笑いながら自分に問いかける。「よい家庭の奥さんになったとしてそれがどうなるの」と。

それよりも仏教を学んだことで、自分の内面と向き合うようになり、まさに「喜びの久しく続く」人生を送っていると今感じている。


(慈済月刊五三二期より)

文・葉文鶯
訳・張美芳
撮影・顏霖沼
 

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