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05月25日
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ハンバントタの大愛村

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【国際援助・スリランカ】
まるで仙人が魔法の棒を一振りしたかのように、木々は大きくなり野菜もよく育ち、緑の木陰に人々は集い語らう。
七年前、インド洋大津波は南部の沿岸一帯数千人の人々に被害を及ぼした。
そこには今、新しい家々や学校が建てられ、人々は新しい未来に向かって生きている。

強い海風と赤い砂塵がシリボブラの広い土地を吹きさらしている。スリランカ・ハンバントタは従来の景色と変わらず、かつての林が新しい都市となって聳え立っている。国立中学校が新しく建ち、その周辺でも他国からの援助による建設工事が進行中である。

前と違うのは、大愛村に新しく植えた木々が成長し、緑の蔭をつくっていることだ。まるで静かな田園の風景画のようである。

二〇〇六年四月、世界を震撼させた大津波から一年後、シリボブラにある慈済大愛村が落成し、被災者に引き渡された。村では子供たちが自転車に乗って遊んでいる姿が見え、交差点の角にはいろいろな雑貨店がある。門前には小型トラックが停まって、荷物を降ろす。微笑ましい景色が広がっている。

村の建設当初に設計・企画をした理念が、その後住民の手で知らずのうちに一つずつ実現されている。

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サンティの新居の玄関から表の門まではセメントで敷いた小路があり、両側に野菜や果物が植えてある。天気のいい日には、これら果物や野菜を干して保存食とする。

サンティの住所はC4で、塀には「花嫁化粧」の看板がかけてある。彼女は花嫁さんに化粧をするほか、洋服やカーテンを作っている。

夫は慈済大愛村の建設中、工事現場の監督をしていた。完成後、セメントや煉瓦工事を引き受けている。夫婦は暇があればボランティアとなって奉仕している。生活が安定しているので夫婦の仲もよい。

住所I40の家には七十歳になるリュートンが住んでいる。鉄条網で垣根をつくり、表門も簡単な鉄の欄干で作ってある。両側には人の頭よりも高い木が植えてあり、両側の木の枝や葉をからませてアーチ型に繕って、来客を歓迎する。

リュートンは一人暮らしの老人で、客間には家族の写真がかけてある。写真の中の妻や子供はみな二〇〇四年十二月二十六日の大津波で永別した。「今日で七年五カ月と七日になります。私たちは過去あんなに幸福でしたのに」と七十歳の老人は妻子の命日をはっきり憶えている。

彼は常に妻と子の写真を身につけている。毎月慈済支部へ寄付金を渡しにいく。「私は慈済が義捐金を救済に使っているのを知っています。この福業は私の妻子の身の上にも届きます」

七年来、リュートンは毎月献金してきた。

大津浪の前、彼は漁師だった。大津波の当日、「休日市場」の近くにある漁師の集会所にいた。津波が襲ってきた時、幸いにして一軒の家の屋根の上に流されたので、かすかな傷だけで助かったが、家に戻って妻と子が津波にさらわれたことを知った。

悲しみのあまり彼は再び海へ出るのをやめた。自家用の小船は他人に貸し出し、多少なりとも生活費の足しにした。「どうせ私は一人者だから、生活は簡単で何の心配もありません」と言う。

大津波が去った後、慈済人がハンバントタに来て緊急医療や物資の配布、臨時テント設営、大愛の家や慈済中学の建設などの支援活動を行っていたのを、リュートンはその目で見てきた。「大津波が去って長い時がたちましたが、慈済は相変わらず村で貧しい人たちを援助しています。慈済はたくさんの善を施しました」と語る。

教師と保護者を兼ねる

青少年にも希望を与えたい。大愛村の中に国立中学が二〇〇八年正月、正式に開校した。校門の入口にセメントの台があり、両側に草木が植えてある。体育館の外の階段の前にも緑したたる木々が成長している。

学校のA12クラスの教室の中で、マドシマがシンハラ語を学んでいた。熱心に授業を聴いているが、以前は違った。大津波が来たその朝、彼女の両親は「休日市場」にいた。最初にきた大津波に父がさらわれ、探しに出かけた母も、再び襲ってきた津波にのまれてしまった。今になっても両親の行方は分からない。たった一人の弟は無事で、祖父母が育てている。

慈済中学が開校して一年後、マドシマは入学を申請した。初めのころ、彼女は授業に集中することができず、いつも自分の殻に閉じこもって、クラスメートや教師と話をしなかった。

故郷がハンバントタにあるウェトンガ先生はかつて中部の学校でシンハラ語を教えていた。今年幸いにして慈済中学に転任できた。彼は大勢の学生が津波の被害者であることを聞き、輔導教師の研修課程に参加した。「津波で父母を亡くした学生がもし親戚や親しい友人がいなければ、教師は父母の代わりとなって世話をしてあげるべきです」と語る。

マドシマの状況を知ったウェトンガ先生は、彼女に特別の輔導をしてあげた。父母が出席すべき場合やサインすべき文件には彼女と祖父母と協議した上で、参加したりサインをしたりした。

ウェトンガ先生はまた、マドシマを他のクラスメートたちの輪に溶け込ませようと気配りした。段々と打ちとけて互いに心の内を話し合うようになり、いい友達ができた。その中にニシャラがいた。彼女はマドシマは性格のよい女の子で喜んで他人を助けることを知っている。「マドシマは私にノートを貸してくれます。私たちはとても信頼し合っていて、私たちの間には秘密がありません」と言う。

ニシャラの隣に坐っているマドシマは、「入学当初、私は学校に慣れず、友だちもありませんでした。でも、ウェトンガ先生の指導のおかげでたくさんの友達ができました。今はとても幸せです」と嬉しそうに話した。

リレーで大愛の原動力を引き出す

大津波が襲ったのは七年前で、大愛村が建設されたのが五年前、慈済中学が開校したのが四年前である。慈済ボランティアはハンバントタで一歩ずつ前進してきた。

大愛村が建設されてから、慈済基金会の建設委員たちは休みなく台湾とスリランカの間を行き来し、大愛村の家屋と中学校舎の品質の維持に努めてきた。二〇一二年六月二日、王明徳、朱章麟、廖文吉、陳仕栄ら慈済委員が、大愛村のメインストリートで何かを覆っている赤い布をとると、「スリランカハンバントタ慈済大愛村建設之碑」と書かれた石碑が皆の前に現われた。

石碑は中国語、シンハラ語、英語の三言語で書かれてあり、津波で大きな災害を負ったハンバントタの経過と八年の間、台湾、マレーシア、シンガポール、アメリカ、カナダなどから慈済人がこの地に駆けつけ、継続して支援してきたことを記している。

この石碑披露式典の前日、慈済ボランティアは現地に着くや上衣を脱ぎ、道具箱から金槌や箒を取り出して、式場を設営したり、路上をきれいに掃いた。過去一千日余り、彼らは遠い地から何度もここへ奉仕にきた。

「このようにして、たゆまない努力をしてきたのは言うまでもなく、義捐金を寄付してくれた人たちの愛を現地に伝えたかったからです」と建設会社の会長である七十歳の王明徳は語る。彼はこの地にくればたちまちセメント職人に早変わり、休みなく皆と汗まみれになって働いた。

八年前、慈済大愛の足跡をハンバントタに築いた実業家の朱章麟は、「私にとって始まりも終わりもありません。石碑を建てたのは過程の中の小さな出来事で、私は決して足を止めません。上人さまが当時花蓮で奉仕を始められたやり方で、全力を尽くし継続して前へ進んでいきます」

スリランカのハンバントタと遠くアジアの一端にある台湾は今、長い縄で互いに結びつけられた。過去の大きな傷は遠くへ去り、人々が忘れつつある中、大愛の力は一滴また一滴とこのインド洋の島国に流れ集まっている。

慈済のスリランカ大津波に対する援助


2004年12月26日、インドネシア北西の海底でマグニチュード9の大地震が発生し、高さ十数メートルの大津波を引き起した。インド南東の島国であるスリランカは地震発生から2時間後に大津波に襲われ、全島の7割を占める沿岸部に被害をもたらし、30000人以上が犠牲となった。

スリランカに慈済の拠点がないため、スリランカと貿易をしていた実業家の朱章麟と連絡、慈済は災害発生から36時間後に救援活動を行う決意をした。第一段階として救済医療団が出発。さらに台湾、マレーシア、シンガポール、アメリカ、カナダのボランティアが8段階に分かれて現地へ向かった。

2004年12月30日から2005年12月末まで、慈済はハンバントタ、タンガラ、アンパラントタ、ティサマハラマに米、砂糖、食用油などの民生物資を延べ11万人に配布し、約27000人に施療を行い、臨時テント296個を設営した。

中長期援助計画として、南東海岸地帯、首都から200キロにあるハンバントタでの計画実施を決定。この地の住民は主に漁業や製塩、農業に従事しており、経済は裕福ではない。649世帯の家屋から成る大愛村を建設し、学校や職業訓練所、診療所を建設。2008年5月、正式に現地政府に移管された。

文・邱淑絹/訳・重 安/撮影・蕭耀華
慈済ものがたり190期より