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04月20日
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解剖学のルネッサンス

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9月15日には、年初に改装して使い始めたばかりの日本支部1階の書籍コーナーで、改装後初めての「心の講座」を開催し、日本医科大学を来訪した曾国藩慈濟大学副校長をお呼びして、日本滞在中の時間を特別に空けて頂いた。

「慈濟大学において、毎年約60名の献体先生が我々の面前を通り過ぎていく。生命が短い人もいれば、長い人もいる。誰が長生きすべきで誰が短命で良いのかは、誰にも分からない。」解剖学の権威である曾副校長は述べた。

生命を失った身体或いは遺体と呼ばれるものは、死を宣告された時からこの世界との関係が変わる。所有権は誰に属すべきなのか。誰が権利を有しているのか。曾教授は解剖学の歴史からこの問題を考えた。

尊重されない時代

死を宣告された後の身体には如何なる尊厳があるのか。多くの場合、家族は考えがそこまで及ばず、死による痛みや打撃のために空しくなっている。

曾副校長は以下の通り述べた。古代ローマ時代には人は復活すると考え、土葬を堅持していた。これは、「実用的」な観点に基づいている。その後、かなり長期間に亘って、宗教上人体を解剖することは全く許されなかった。15世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチ時代から水面下で人体の解剖が始まったが、目的は彫刻と絵画のためであった。16世紀からは、死刑囚の解剖が許されたが、それは犯人には「侮辱」が許され、受け入れられたからであった。

解剖研究には医学的経験の積み重ねが必要である。1832年に英国でまず立法され、医学生・教職者は、法に基づき、誰か不明な遺体を解剖する権利が認められた。これは、医学界の特権とされた。 

解剖学に人文を導入

仮に法律によって解剖権が認められているとしても、「誰であるか知らず、名前すら呼べず、申し訳ないと感じ、忸怩たる思いだ。」曾副校長は、慈濟大学に来る前の一人の解剖学者としての救いのない心の声を口にした。

慈濟は1994年から献体推進運動を進めたが、全台湾医学院生が解剖学の授業で使っていたのは、全て誰か不明な遺体であった。不明であることは生きて来なかったことを意味しない。メスを入れる時にどう立ち向かうべきなのか。「物と思う」ことは、心の安らぎを得る方法である。「以前、自分が学んだ方法は、自分の感情を離脱し、これらの遺体に向かう時に、誰であるのか或いはその貢献等について考えない様にした。」それだけでなく、「教育者になる様に訓練される過程の中で、医学生は感情を持たない様にすることを学んだ。」しかし、心の中の忸怩たる思いや不安は拭えなかった。

曾教授が慈濟大学に来て教育に携わった後、解剖学者として長年抱えて来たこの不安をゆっくりと解放する機会を得た。慈濟大学医学部においては、遺体とは呼ばず、「献体先生」「口なし良師」と呼んでいる。この神秘的で冷たい解剖学が、初めて双方向で利他的な「生命の卒業式」に入った。「口なし良師」の解剖プロセスの中で、医学生は一切を決定することを求める驕れる執刀者ではなくなり、十分に恩を感じる学習者となった。

「学生に対して、250字で口なし良師の一生を書き出す様求めている。それが家族にとって残された全てである。」そのため、学生は口なし良師の一生の行動を家族から学んでいる。慈濟大学の解剖教育課程においては、死装束を着せてあげ、棺桶に入れ、その一生を共有し、家族を訪問してフォローアップを行う等、医学生に遺体の所有権全てを独占させることもなく、家族の位置も軽視されることはない。

家族と双方向のプロセスの中で、女子中学生は、「祖父が往生したことは知っていたが、式典に参加し、初めて祖父が如何に偉大かを知った。祖父はこんなに多くの医学生を教えている。」と述べていた。純粋な話に教授はとても驚かされた。慈濟大学の解剖学教育は、教師、学生、家族に、透明で公開の儀式の中で、口なし良師の一生を学ばせており、「利他」の模範にまで高められ、解剖学の手術室は既に冷たく無情なステンレスの台ではなくなった。

「双方向プロセスを通じ、先生が何故献体したのかを理解して、初めて「利他」の側面が出て来る。慈濟大学は解剖学に新しい生命を吹き込んだ。」伝統的な解剖学に人文を持ち込むことは、正に中世のルネッサンスの様に、人文を専門分野に持ち込むことである。「だから、これは解剖学のルネッサンスである。」と曾教授は力強く述べた。

双方向で共有し、模範の伝承まで高める

文化の価値は、人類の心のレベルを高めることにある。慈濟に触れた後の曾教授は、「私の様な頑固な者も、慈濟が堅持している理想にはその意味があると言わざるを得ず、背後の理想は皆が追求する価値のあるものである。これは、慈濟の俗世仏法が医学教育の中で行われる実践である。」と述べた。

俗世の仏法は、奉仕する人生観である。曾教授は、誠実に恩を感じ、「慈濟の双方向方式のお陰で、これだけ多くの人の生命や考え方の変遷等に触れさせてもらった。不必要な執着から本当に離脱出来た。」生命は何故無常であるかに執着するよりも、全てを放り出し、拘りを多く持ち過ぎないことが良いと考える。「解剖が好きでない人は多いかも知れない。しかし、自分にとっては大きな幸せである。何故なら、多くの人の生命を体験できるからである。」慈濟の解剖学教育は、人体の解剖を学習すると同時に、若い学生と家族が一緒に口なし良師の生命を元に戻している。

その夜、最も幼い聴衆である「豆豆」は、母親と一緒に講演を聴きに来ていた。中学二年生の彼女のノートには、小さい字がびっちり書き込まれ、感想を発表する時に、「以前は解剖とは口なし良師を解剖することだと思っていたが、家族がこんなに辛いとは思っていなかった。凄い。」と述べた。幼いな彼女は「大きくなったら、慈濟大学に行きたい。」と願望を述べ、また、「献体同意書への署名を決めた。前は少し怖かったけれど、今はもう怖くない。」と話した。

一生を解剖学に捧げた曾教授は、自分自身についてどんな願望があるのか。彼は軽く笑いながら、「一生、口を使って解剖学を教えて来た。だから、もしいつかこの世を去る時には、自分が横になって最後のレッスンを行いたい。」と話した。口なし良師が横になる時は、生命が元に戻る始まりであり、冷たい手術台の上で、智慧と模範が再生され、生が止まることなく、代々伝えられていくのだ。

文/陳静慧
訳/古谷珊伊

 

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