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04月20日
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フィリピン・ザンボアンガの仮設教室

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反政府勢力は夜が明ける前に上陸した。目的は市政府を占拠することである。

一般市民を人質に取って兵を進めた。市街地が戦地に変わった。これは映画のシーンではなく、半年前のザンボアンガの内戦状況である。それは一時的な武力衝突ではなく、何十年にも渡る解決の難しい紛争である。

戦闘は三週間続き、十万を超える人の生活に影響を与え、人々の心の不安と対立の溝を深くした。慈済はプレハブ教室を支援建設して学校に鐘を鳴らし、愛の教育を続けると共にザンボアンガに平和の鐘が鳴ることを期待した。

サンボアンガはフィリピン・ミンダナオ島の南端に位置している。太陽が南国を照らし、海がきらきら輝いていた。海岸から波打ち際まで続く高床式の小屋は、以前、船を住居にしていた海の民の生活が変化したものだ。

言い伝えによると、サンボアンガという名称は西暦十四世紀にマレー人がサンボアンガに上陸した時、花園だった当地にびっくりし、マレー語で「花の町」と名付けたものだという。マレー人が持ち込んだイスラム教は先住民に大きな影響を与えたが、後にスペイン人が三百年間植民地統治を行い、カトリック教が深く根ざした。

歴史と共に変化し、花園は既にないが、スペインや日本、アメリカの植民地だった名残りと共に少数民族の風情が残っている。異なった民族と信仰、言語、文化が入り交じり、サンボアンガでは多彩な様式の建物が街中に見られる。

歴史は美しい面を残しただけでなく、町にはカトリック教会とイスラム教のモスクがそびえ、数百年に渡ってイスラム教からカトリックに信仰が移ってきたことを物語っている。そして、今、独立を勝ち取ろうとする政治的衝突によって、明るかった町に暗雲が覆いかぶさっているのだ。

市街戦で住民は避難した

二〇一三年九月九日の早朝四時半、静かな漁村リオホンドとマリキ海岸に長年、独立を主張してきたモロ民族解放戦線が上陸し、政府軍と激しく衝突した。海岸沿いの村に響いた銃声を発端として戦闘が勃発、やがて市街地に移った。銃撃戦がサンボアンガ市立病院裏の街道で始まったため、政府は病院の患者や医療人員を近くの大学の体育館に緊急避難させた。そして、空港を閉鎖すると共に夜間外出禁止令を出し、サンボアンガ市は緊急事態に突入した。

市街地が戦場に変わったため、街から人々の姿は消え、商店や銀行はシャッターを下ろし、会社は休業した。また、学生たちは家族と共に避難した。衝突は三週間後に収まったが、十万を超える人の生活に影響を与えた。

政府は住民を受け入れる避難所を各地の学校に設置した。しかし、難民の数があまりにも多いため国連がテントを建てる支援をした。サンボアンガ最大の屋外スポーツセンターも大規模な避難所と化し、数日の内に一万人以上が入所した。避難所が不足していたため、数本の海岸沿いの大通りでは歩道や中央分離帯などの狭い空間にもテントが立ち並んだ。

戦闘が始まった頃は五十余りの避難所に二万世帯余りの人が避難した。しかし、半年が過ぎても政府は不発弾の処理や反政府勢力の掃討作戦を続けており、多くの住民は当分、家に戻れそうにもないので他地方に住んでいる親戚のところを頼って行った。二〇一四年三月初めの政府の統計によると、まだ四千九百世帯余り、二万六千人余りが避難所生活をしている。

戦後の生活は一から始まった

銃撃戦が行われた通りに来ると、両側の建物には弾痕が生々しく残っていた。反政府勢力が司令部として占拠していたKGKベーカリーにはもう元の店構えはなく、付近の住宅も火災で廃墟と化していた。しかし、政府軍は今もなお駐屯して反政府勢力が盛り返してくるのを用心深く警備していた。

アルフレッド・オンは私たちを家に案内した。中華系の祖父はフィリピン人の祖母と結婚し、この村に住み着いた。アルフレッドが生まれ育った家はわずかに梁と柱を残しているだけだった。彼は横にある焼けて骨組みだけになった三輪自動車を指して、「これは生計を立てる道具でしたが、もう、子どもの学費を稼ぐことはできません」と言った。

戦闘が勃発したその朝、夫婦と末っ子は遠く海岸の方から聞こえてきた銃声で目を覚ました。外に出ると煙が上がっているのが見え、すぐにそこから離れた。数日後、アルフレッドは別の地方で働いたり学校に通っていた三人の子どもと連絡が取れ、一家六人が皆無事であることを確認した。一月初めに故郷に戻ってきた時、家はなくなっていた。そして、その向かいの夫婦が結婚して間もなく買った二階建ての店も二階部分が爆弾で破壊され、階段もなかった。一階の店は銃弾の痕だらけだったが、何とか住むことはできた。

妻のメロディーは、「政府はまだ正式に帰宅の許可を出していませんが、収入がなく、子どもたちも学校に行けない状態では危険を冒しても帰るしかないのです」と言った。メロディーはめちゃくちゃになった店を片付け、大方清掃できた後、兄嫁と一緒に日用雑貨や食糧を仕入れ、どこからか冷蔵庫を一台運んできて商売を始めた。

家が損壊しても何とか住める状態であれば、ほとんどの人は戻ることを選択する。避難所よりはましだからだ。「前の生活より劣るけど、平穏に生活できればいいのです」と彼女は言った。

教室が家になり
机がベッド代わり


市街地の住民はなんとか家に戻ることができたが、漁村の住民はどうしようもなかった。戦闘が始まった時、反政府軍は沿岸の六つの村を焼き払った。木材を骨組みにし、トタン板で屋根を作っていた高床式の家は一軒ずつ連なって海岸沿いに並んでいたが、今は果てしない廃墟と化し、数万人の漁業で生計を立てていた人々は帰る家をなくして放浪していた。

十歳のジェナリン一家八人はタロンタロン小学校の教室に住んでいる。この小さな教室をタオルや衣類で六世帯に仕切り、大人と子ども合わせて三十四人が住んでいる。夜になると勉強机をベッド代わりにしたり床に寝たりしたが、昼間も同じスペースしかない。

生活を維持するため、一家の主は年が大きい子供らを連れて海辺で海草を植え、少しでも生計の足しにしようとしている。しかし、それで一家八人が生活していくことはできず、食料や日用品は政府と慈善団体に頼っている。「精一杯、節約しながら使うしかありません」とヌミナが言った。

ほかの同じ教室に住んでいる若い父親が小声で言った。「皆、帰りたがっています。帰りさえすれば、私たちは自分の力でお金を稼ぎ、家を建て直すことができるのです」

政府の統計によれば、戦闘が始まってから、避難所の環境が劣悪なためにデング熱やその他の伝染病に罹って亡くなった人は六十人を超えた。慈済ボランティアは全ての避難所を回り、日用品の補給と共に定期的に栄養補給剤を送り届けている。人医会のメンバーは住民の健康状況が悪化しないように施療を行っている。

交替で授業を受け
心の傷を癒す


二〇一三年十一月、タロンタロン小学校は授業を再開したが、教室が住居になり、ラヤグラヤグ村の子どもたちもここで授業を受けるため、教室が足りず、学年毎に日替わりで交替して二時間の授業を受けるしかない。

「教室があってもなくても、私たちは教師としての責任を果たさなければなりません」と三年生の指導教師であるシャリーンが言った。教師たちは第一に子どもたちをこの状況から抜け出させることが大切だと考えた。「子どもたちが学校に戻ってきた当初、皆静かであまり外に出たがりませんでした。私たちは勉強はほどほどにして、彼らと話をしたり絵を描いたり、心の恐怖を取り除くよう努めてきました」とシャリーンが言った。しばらくしてから元来の天真爛漫で活発な子どもたちに戻った。

ヌシャラ先生も武力衝突の影響を受け、住宅が破壊された。彼女が学校に戻った時、子どもたちを自分の子どものように感じた。「何があっても、私たちが側にいることを子どもたちに知って欲しいのです」と彼女が言った。

子どもたちの就学環境を考え、慈済ボランティアは武力衝突が一段落した後、プレハブ教室の建設を考えた。建材は台湾のボランティアが大至急製作したが、二〇一三年十一月にはサンボアンガのボランティアが台湾に行って組み立て方法を習った。しかし、建材を船で輸送する直前、フィリピンのレイテ省を台風ハイエンが襲った。大規模で広範囲な天災によって大勢の人が家をなくし、学校も大きな被害を蒙った。サンボアンガよりももっとプレハブ教室を必要としていたため、建材は先にハイエン被災地に送られた。「大丈夫です。私たちは引き続き子どもたちの面倒を見ます。待ちます」とサンボアンガのボランティア、楊偉順が言った。

我彼の区別なく仮設教室を組み立てた

二〇一四年一月中旬、プレハブ教室の建材がやっとサンボアンガに到着した。ボランティアは老若男女の区別なく組み立てに参加した。二月から七校六十二の教室が順次落成し、起用された。

武力衝突後、人々は異なった部族の人に少なからぬ不信感を抱くようになっていたが、子どもたちは華僑やフィリピン人、そして、イスラム教徒、カトリック教徒の区別なく猛暑の中、教室の組み立てをしてくれているのを見た。「子どもたちにより多くの愛と思いやりを与えることができれば、彼らは憎しみを忘れるでしょう」とボランティアの楊偉順が言った。

ほとんどの慈済ボランティアは普段仕事を持っており、休日に組み立てに参加するしかない。そのような時、雇用計画に参加した被災者が一番良い助手となった。彼らは組み立て方法を学ぶのも早く、上ったり下りたりと手馴れたものだった。

二月末、マニラの慈済人医会の医師たちが海辺の町、タルクサンゲイにあるダトゥトゥアン小学校を訪れ、教室の組み立てに手を貸した。三日間、柯賢智医師を先頭にサンボアンガで定期的な外科の施療を行った。貧しい住民たちは長年、抱えていた甲状腺瘤、胸やお腹の腫瘍、脱腸に苦しんでいた。医師たちは長時間、立ち続けて手術を続けていたが、手術を全部終えてから学校にやってきた。普段、メスを持ち慣れた医師たちは地面に置かれたままになっていた鉄骨を見て立ちつくした。「手術する時はどこから始めたらいいのかを知っていますが、これ鉄骨についてはどこから始めたらいいのかさっぱり分りませんでした」と呉道銘医師が言った。

医師たちは楊偉順の要請で力を合わせてプレハブ教室の鉄骨を担いだ。女医や麻酔医はドライバーを手にネジを留める手伝いをした。皆、腕の疲れも手術を終えたばかりの腰の痛さも忘れ、素早く教室の骨組みを校庭に立ち上げた時、喜びの歓声を上げた。呉道銘医師は、「人助けの方法に差はありません。楊偉順がフェースブックに載せた喜びの感想を見た時、やっと私たちも共感することができました」と言った。

野菜畑を灌漑すれば
希望が湧いてくる


ダトゥトゥアン小学校に避難していた住民は政府と慈善団体の協力の下に、学校の裏手に建てられた仮設住宅に引っ越した。一世帯辺り四坪の狭い空間は板で仕切られたもので、夜、寝るためだけのものである。室内には電気もなく、昼間人々は屋外で活動している。男性は小船を操って漁に出かけ、女性はどうにか洗濯をしたり、三食の準備をする。そして、子どもたちは波打ち際で遊んでいる。

住環境は以前よりも劣るが、住民は見慣れた紺色のシャツに白のパンツ姿を見ると、嬉しそうにボランティアたちと握手した。プレハブ教室が完成すれば、子どもたちは学校に行くことができ、大人たちは家の再建に専念できると期待している。

仮設住宅の入り口に住民が作った小さい野菜畑があった。マリキ漁村から来たブラギーは「私の畑です」と嬉しそうに言った。漁をし海草を育てていた彼は武力衝突が発生してから収入がひどく落ち込んだ。子どもたちを食べさせていくために、彼はタルクサンゲイ村の住民から野菜の種を買ってきて、試しに真水でこの畑を灌漑してみた。勢いよく成長した緑の苗は彼に希望を与えた。

希望は愛がもたらす。慈済ボランティアがサンボアンガで十四年も慈善活動をしてきたのは、愛を人々の心に根づかせ、今でも抱えている歴史上の争点から来た憎しみを消すためである。しかし、先は長い。ボランティアはそこの住民と共に頑張っていくしかない。「私の家は焼失して何もありませんが、希望さえあればそれで十分です」とブラギーは言った。

文・邱如蓮/訳・済運/写真・蕭耀華
慈済ものがたり 2014年6月】


 

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