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04月19日
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足元の陽射し、頑張って 龍雪!

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四歳の龍雪は、踵を床につけられないが、つま先立で、よちよちと、笑顔で歩いてきた。しっかりした足取りとは言えないが、思うより早い動きに周囲の者は思わずエールを送った。そんな娘の後ろを、水筒と服を大きなリュックの両側にかけて背負いながら母親は娘が転ばないかと追いかけていた。

八月十八日、龍雪のリハビリの日、ボランティアの井田音心が車で親子を送迎していた。少しずつ昔の明るさが戻ってきた龍雪は、車から降りるとまっしぐらに病院のリハビリ室に走った。去年の七月、二十四秒しか立っていられなかった龍雪とは、とても思えない姿だった。母親の雪蓮は、この一年間娘の回復をしっかりと心に刻んでいた。

雪蓮が中華料理店のシェフを務めているご主人と一緒に瀋陽から来日して五年になる。言葉はまだ不自由だが、娘の無邪気な明るさが全てを慰めてくれた。「発病の三日前、ちょうど雪が降っていた日、二歳の龍雪は歌いながらダンスしていた」龍雪は可愛らしく着飾り、歌とダンスが好きな子供だった。

突然の荒れ狂う暴風雨に翻弄されるが如く、娘が名も知らぬ病に襲われた。二O一四年二月二十日、娘は脳炎で二か月も入院した。四月初め退院した時、彼女は坐ることも、歩くことも、立つことすら、話すことさえできなくなっていた。雪蓮は日本語が話せず、病院との意思疎通がうまくいかず、病院に行くことが苦痛となっていった。

遥かな道のり

二O一四年五月、井田音心は近くの病院でボランティアをしていた時、病院側から中国語の通訳の協力が欲しいとの相談があった。これが日本支部へ報告され、龍雪ちゃんケアチームが発足した。月に二回から四回愛のリレーを始め、ケアを行った。

龍雪は言語力も咀嚼力も衰え、全てを一から始めなければならなかった。娘も母も新たな道程の始まりだった。通訳を介して小児科の医師は母親に、食事は小さめのスプーンを使うこと、飲み込みにくい時は汁物を加えて食べさせることなど、注意すべき要点を母親に伝えた。

「何かを聞き漏らしたら子どもに影響を与えると心配して」母親は翻訳に注意深く聞き入った。「テレビを見ながら食事をする習慣を改めて欲しい、食事に集中すること」と医師は生活習慣も指導しながら共に改善法を探った。

「よく足の按摩をし、縮まった踵の筋肉を伸ばし、立って遊ばせること」など、ボランティアは通訳するだけでなく、要点を覚え、繰り返して母親へ伝えた。子供のリハビリ方法を母親へ教えることもとても大事なことだった。按摩を繰り返し、龍雪の筋肉を和らげる。母親の毎日の日課だった。

リハビリを開始してから二か月の六月、龍雪はゆっくりと声を出し、しゃべることができるようになり、はいはいや伝え歩きもできるようになってきたが、排泄などはまだ自覚できず、涎が出る症状などもあった。また立った状態では両足が硬直し、踵をスムーズに床へつけることができず、左手と左足裏が内側に丸まってしまう状態であった。医師は全面的なリハビリを勧め、小児科、整形外科、リハビリによる共同治療となり、長期にわたるリハビリ生活が始まった。龍雪の病名は「原因不明の脳性麻痺後遺症による痙攣性手足麻痺」と診断された。

八月、ボランティアが龍雪の小さな手をひきながら歩くと、数歩もいかずに彼女はすぐしゃがんでしまった。「龍雪ちゃん、頑張って」と声をかけたらまた立ち上がった、と龍雪の進歩ぶりを嬉しそうにボランティアが話していた。

そんなボランティアの助けもあり、母親は家でのトレーニングの仕方を覚え、遊びながら両手を伸ばせたり足の力を強めたりする訓練を続けていた。「この子は本当に回復できるのだろうか」と不安に駆られる、長いリハビリは出口のないトンネルのように母親に試練を与えた。

大切な母の愛

先の見えない遥かな道程、傍らに身寄りのいない親子にとって、ボランティアは病院以外の唯一の頼りだった。毎日マッサージしたり、ご飯を食べさせたりしていたが、その食事に二時間もかかることがあり、母子にとって食事は怯えすら感じる時間となってしまっていた。

ある時は、ご飯が食べられない龍雪のために、残りのご飯をミキサーにかけてお粥の様にして食べさせようとしたが、大泣きした娘は吐き戻してしまった。その瞬間、雪蓮の張りつめた心が切れ、娘に手を挙げてしまっていた。その後、冷静になり激しく後悔するも、そんな悩みを唯一話せるものボランティアしかいなかった。

娘が病気になってから、彼女は常に焦慮と自責の念に追われた。ある時診察が終わり、薬が出るのを待っていた時、子供のお腹が空くといけないと思い、「早く牛乳を飲もう、もっとおにぎり食べよう」と何かに追われるように娘を急かすことが、時には無理強いして娘が嘔吐することもあった。傍らにいたボランティアが「そんなに急かして無理をさせてはいけない」と母親を落ち着かせ、「愛を持ってゆっくりしましょう。娘の体も自分の体も大事にしましょう。」と諭した。

心が折れ、うつ病に

ある日バスを待っている時、突然、雪蓮は「子供をうまく育てられない、日本語もできない、他人に迷惑ばかりをかけている、…」自らを責め立てた。そんな彼女にボランティアは「私も嘗て病気になって人に助けられたことがあります。その人は見返りを求めませんでした。ですから私ができる事はこの愛を伝え続けることです。」と優しく言葉をかけました。

雪蓮は子供が病気になる前から、友達のいない、心を閉ざした生活ゆえに「以前から子供を怒ったり叩いたりした後、自らを叩いた」そんな焦慮と後悔の中で、鬱の症状を呈していた。そんな暗い道なりの中で、ボランティアは最愛の親友だった。

東北から来たボランティア張君の「少なくともあなたの子供はまだ健在だ」という一言に彼女は目を覚ました。張君の子供は三一一大震災の時に津波に流されていた。「彼女の言葉がなかったら、私はまだ深い悪夢の中に陥っていただろう。自分が目の前の幸せを大事にすべきだと気づかされた。」と雪蓮は言った。

振り向けば澄み渡る青空

ボランティアたちは、チームワークで愛のリレーを繋ぎ、日誌を通して喜びと不安を分かち合った。特に龍雪の症状が顕著に回復している事が最も皆を興奮された。

この一年を振り返ってみると、ボランティア達のケアもあり、龍雪ちゃんが少しずつ良くなり、母子の関係も改善された。愛のリレーには重要な意義がある。「私たちのケア活動は、単なる通訳ではなく、寄り添う気持ちがあったからこそ母親の心も大きく変化した。母の念が転じれば龍雪も助かり、一家が救われる。」ボランティアたちは龍雪を可愛がり、いつも龍雪母子に寄り添って寂しさと不安を取り除いてくれた。これからも私たちは二人を見守り、いつかは止む雨の後の、澄み渡る青空を待っています。

文/陳静慧
訳/小野雅子


 

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