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06月24日
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タイ・バンコック難民キャンプでの施療

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異なった国から診察を受けに来た人々はそれぞれ母国語で会話していた。医療ボランティアはタイ語と中国語、英語を交えて通訳していた。 バンコックの慈済ボランティアは毎月一回、難民に対する施療活動を行っている。難民たちはそこで病を治療すると共に、リラックスした、尊重された大切な時間を過ごしている。

バンコック郊外にある四階建ての建物はワンベッドルームの賃貸アパートである。狭い階段を上っていくと、突然、「あなたたちは慈済の方ですか?」という声がした。ふり返ると、ジョセフが自分の部屋の前で手招きしていた。扉が全部同じ色なので、通り過ぎてしまったのだ。ジョセフは私たちを中に招き入れ、妹のサイマが食器を並べていた。「一緒に朝食を食べましょう」と彼女が言った。

狭いバルコニーに一人用の簡易ガスコンロが置かれてある。それが厨房である。ジョセフはコンロの側にしゃがんでバタートーストを焼き始め、パキスタン式のミルクティーを作った。ボランティアがベッドの側に座っていた七十一歳になるお母さん、テレサの顔にキスすると、彼女は嬉しそうに笑った。

フライパンの上でトーストが焼き上がる音がし、小さな部屋にバターの香ばしい香りが充満した。サイマはベッドの端に座って彼女たちのストーリーを話し始めた。

サイマ一家は以前はパキスタンに住んでいたが、兄のジョセフはメイクアップアーティストで、サイマは在パキスタンイギリス大使館で十年間勤務していた。そういう安定した生活が続くものと思っていた。しかし、思いもよらず、ある日、彼らがカトリック教徒であることを誰かが政府に密告した。サイマはイスラム教を信仰するか仕事をやめるかを迫られる警告を受けた。彼女は社会から排斥され、挙句には解雇通達を受け、生命の危険さえも感じ始めた。

逃げるしかなかった。サイマはタイがアジアの観光立国で、観光ビザの取得が容易だと聞いていたので、バンコックを移住先に選んだ。バンコックに来た当初、安宿に滞在していたが、教会の人の支援で、今のアパートを見つけることができた。一月の家賃は光熱費を入れて四千バーツ(約一万二千円)で、神父は彼らに食卓や食器類を用意してくれた。

二カ月の観光ビザが期限を迎えようとしていた頃、教会の協力を経て国連難民高等弁務官事務所に難民として保護を申請した。サイマの英語の能力が買われ、教会の弁護士は彼女に通訳の仕事を紹介した。収入は一月約二千五百から三千バーツである。

幸いにも教会の支援があった。神父はいつも食糧や衣類を持って来てくれた。しかし、節約するために生活を極力質素なものにしている、とサイマが言う。

果敢に国際医療奉仕に参加する

二〇一三年の統計によると、国連難民高等弁務官事務所に登録され、タイに滞在している難民の数は、以前の二千~三千人から八千人に増えている。難民は四十七カ国から来ており、密航して来た人もいれば、観光ビザの期限が切れても滞在し続けている人もいる。どんな方法でタイに来るにしろ、皆、自由で安定した暮らしを求めているのだ。

しかし残念なことに、タイ政府は「一九五一年国連難民公約」と「一九六七年難民地位議定書」にサインしており、そのために難民はタイで庇護されず、不法滞在と見做されている。

不法滞在であるため彼らは隠れて生活し、慈善団体の支援に頼るほかない。二十数年前、バンコック難民センターで簡単な医療活動を始めたが、設備が簡単な上、常駐する医師もなかったため、患者が来ると、当直の看護師が状況を判断して投薬するぐらいで、重病患者が来た時は、私設の診療所に助けを求めるしかなかった。

二〇一四年、難民の数は大幅に増え、国連難民高等弁務官事務所は慈善団体の力を借りて、難民が定住国に向かう前の不安定な日々を支援しようとしている。在タイアメリカ大使館の難民チームは、慈済がマレーシアで行っている難民への施療活動が大いに功を呈していることを知っており、タイの慈済ボランティアに連絡を取った。そして、タイでも同じように難民に対する施療活動を期待した。

慈済米国総支部の協力の下、慈済はアメリカ国務省と協力体制の覚え書き書を交わした後、タイ慈済ボランティアは二〇一四年六月からバンコックで難民への施療活動の準備に取りかかった。まず医療人員を確保するため、タイ慈済人医会事務局長を務めるボランティアの余建中は、いくつかの政府系大病院の医師を招聘した。そして、台湾で二十一人の一行に慈済の医療人文を理解してもらうと共に、帰国してから施療に参加してもらうことになった。

次は、場所の選定がボランティアを悩ませた。施療に適した場所を探していた時、まず狭過ぎたり家賃が高過ぎる所を排除してから出したいくつかの案に対して、證厳法師に教えを請うた時、法師は、決まった場所でないと難民が施療所を探しづらいと心配した。結局、今建設中のスアンルアン・ラマ九世公園に面した慈済タイ支部で行うことに決定した。「施療が支部で行われると決まれば、建築会社と共に努力して一日も早く完成させ、より良い快適な環境を作るだけです」とボランティアの王鐘賢が言った。

慈済ボランティアもビラを作成し、それを国連難民高等弁務官事務所を通じて長期的に難民の世話をしている慈善団体に送ったり、口伝えに施療活動を難民に知らせている。

難民は取り締まりを警戒して、多くは居住している付近を出歩くだけである。彼らに安心して診察を受けられるよう、アメリカ大使館の協力の下に、タイ政府の外交部と相談した結果、慈済ボランティアが施療会場に隣接した三つの警察署に出向いて施療活動の内容を説明した。そして、地下鉄駅から施療会場まで無料送迎バスを用意し、難民が診察を受けに行く時の不安要素を排除した。

難民の国籍が四十数カ国に渡っていることを考慮し、ボランティアは国連難民高等弁務官事務所や各慈善団体の協力の下に広く通訳人材を集め、チームにして訓練することで医療人員と患者の架け橋になってもらっている。慈済バンコック難民施療活動は二〇一五年一月に始まり、毎月第四日曜日に定期的に行われている。

その日だけは難民ではなく、患者なのだ

一月二十五日から五月二十四日までバンコックで五回の施療活動が順調に行われ、二千百三十八人が診察を受けた。慈済難民施療活動の総指揮を担当しているボランティアの晋栄鋼は、「施療活動のために、タイのボランティア全員を動員しているのは、患者に安心して診療を受けてもらうためです」と言った。

慈済ボランティアのベストを着たサイマは、施療会場で英語が分からない難民の通訳となって、受付から身長や体重の測定、医療人員との意思疎通、薬の受け取りなどを手伝っている。

サイマは多くの人が薬をもらった後、笑顔を浮かべているのを見た。あたかも医師の親切な問診によって、病気が半分治ったかのようだ。四カ月前、慈済が難民に対して施療活動を行うために通訳人員を必要としていると聞いた時、サイマはすぐに応募した。

同様にパキスタンから来た通訳のアニールは通訳の仕事を終えてユニフォームのベストを脱ぐと、施療活動が終わる前に急いで診察の受付登録を行った。

三十三歳のアニールは、以前は携帯電話会社のセールスマネージャーで、妻は看護師だったが、自分の信仰を頑に守った結果、仕事がなくなり、生命の危険まで感じる状況に追いやられた。最後は車を売り、母親と妻、娘を連れて故郷から逃れた。

娘のアザールがバンコックに来た時は九カ月だったが、今は三歳である。一家がバンコックに来た当初、アザールは予防接種する必要があったが、どこも相手にしてくれなかったので、仕方なく私立病院に行った。その時、一回の予防接種が三千八百バーツだったとアニールは過去を振り返った。「とても困難なことで、友人や教会から借金して娘に予防接種を受けさせました」。アニールは当時の無力な自分をふり返り、「ですから慈済には施療活動を続けて欲しいのです」と言った。

施療活動は一月に一回しかないが、多くの難民は友人と再会する時のように、その日を待ち望んでいる。

アニールの親しい友人、ガフールは慈済の第一回目の施療活動で通訳として参加していた。ある日、慈済ボランティアが通訳人員の養成講座に参加するよう勧めるため連絡を取ろうとしたが、連絡が取れなくて心配していた。ガフールは帰宅途中に取り締まりに遭い、拘置所に入れられたとアニールがボランティアに報告した。

「私たちはいつでも待っています、とアニールに伝えてもらうしかありませんでした」と郭玫君が言った。彼は三月二十五日に釈放された後、その四日後の施療活動にやってきた。次の四月に連絡を取った時、ガフールはボランティアに嬉しい知らせを伝えた。「行き先が決まりました。アメリカです」

空港で見送るつもりだったボランティアは待ちぼうけを喰わされた。移民局が彼らの身の安全を考慮して、ガフール一家を直接、搭乗口に連れて行ったからだ。待ち続けたボランティアは結局、電話でガフールと別れを告げるしかなかった。

しかし、彼らがアメリカに着いてから、アメリカの慈済ボランティアが引き継いだ。彼との情が途切れることがないことを願って……。

難民は以前の生活を捨て、中継地としてタイに流れ着いた。慈済ボランティアは施療活動を通して、この彷徨える旅人を世話し、落ち着く先を見つけるまで彼らの健康を守って助けを求めている人に力を貸すと共に愛を広め続けている。

訳・済運
慈済ものがたり224期より


 

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