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04月20日
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ホーム 慈済について 四大事業・八大法印  国際援助 壊れた大地をゆく 援助の道を広げる

壊れた大地をゆく 援助の道を広げる

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救援活動を終え、日常生活に戻っても
心の一部はまだハイチ――
めちゃくちゃになったポルトープランスにあります
多くの人が苦しみ
そして、多くの人が思いやりに感謝しています
困難に打ち勝ち、救援の道を開いて
これからも忍耐力と慈悲心と智慧でもって
傷ついた心を治します

ハイチでの救援活動を終えた慈済ボランティアが米国総支部に戻ってきました。帰国したボランティアは援助活動について報告をしました。

「ロサンゼルスは道路が広くて、夜景がきらびやかです。しかし、十数時間前に私たちがいたポルトープランスはまるで別世界のようでした。困難な道を通って、救援活動を成し遂げることができたのは、多くの人と善い縁を結べたおかげです」

米国から災害現地調査へ
全世界の慈済人が後ろ盾

慈済米国総支部の葛濟捨執行長は「今回の救援活動は、米国総支部が行ってきた国際援助の中でも、動員数、期間ともに過去最大の規模となりました」と話しました。

ハイチへの援助活動は花蓮本部が総指揮を取り、米国、カナダ、ドミニカ、アルゼンチン、ヨルダン、シント・マールテン島そして台湾のボランティアたちが米国総支部と協力して行いました。十一チームが代わる代わる三カ月に亘って奉仕をし、一回に少なくとも十五人、今までに延べ三百五十人が投入されました。

災害現地調査グループの先遣隊として参加したボランティアの陳思晟は、「地震後の調査で一番困ったことは、首都ポルトープランスと周辺地域では外との連絡がとれないことでした。一年前ハイチで援助物資を配布した時の仲間とも連絡がつかなくなってしまい、被災状況を知るすべもありませんでした」と話しました。

一月十八日、米国と台湾から大量の物資を発送すると同時に、葛濟捨はボランティアの邢濟敏、陳思晟、范婷らを率いてハイチの隣国、ドミニカへ向かいました。三日後、ポルトープランスに入ると、一刻も早く救助すべき人たちを見つけましたが、現地での住居、交通手段、連絡網などの確保が困難を極めました。

現地では車が不足しており、車を借りるのに一日百八十米ドル(約一万七千円)が必要です。たとえ、二倍の金額を出しても車がないので二台目を借りることはできません。幸いに、中華民国大使館に援助をお願いして、車の問題はなんとか解決することができました。また、有線インターネットは寸断されているので、無線LANカードはすぐ売り切れました。陳思晟は「三カ所の店を駆けずり回ってやっと二台の携帯電話を手に入れました」と話しました。

水、電気、食べ物のめどはつかず、夜は野宿で、先遣隊の活動は困難を極めました。自己中心的な考えを捨て、快適な生活から離れ、援助を必要としているハイチの人たちを助けるという全世界の慈済人の願いを達成するために、誰も尻込みしたりはしませんでした。

ベテランと新人
共に試練を乗り越える

災害現地調査グループは任務遂行に困難を極める中、證厳上人の「現場に行ったら、落ち着いてしっかりとなすべき事をしてきて下さい」というお言葉を胸に奉仕をしました。そして、物資の輸送路と連絡網が構築でき、援助チームが次々とやって来て大規模な援助物資の配布が始まりました。

グループの責任者の邢濟敏は、団員名簿を見て驚きました。少なくとも半分の人が国際援助活動に参加したことがなく、米国内での救援経験すらない人たちがほとんどだったのです。慈済青年会(大学、大学院、専門学校の慈済学生チーム)や慈済青年OB会(大学、大学院、専門学校の卒業生で、元慈青メンバー)から成る「予備チーム」さえも救援に駆り出されました。幸いなことに、ベテランのボランティアが新人のボランティアについて指導したので、任務を達成することができました。

邢濟敏は「新人は態度もよく、またよく働いてくれた」と、在学中あるいは社会に出たばかりの若いボランティアたちをほめます。施療や援助物資の配布を通して、救援活動というものを理解し、その中から知らないことを学び取るということが、救援活動の最適な訓練となりました。

博士の学位を持ちながら学術界を離れ、慈済に入り実務に携わる黄漢魁は、ハイチで初めて国際援助を経験して「状況が変化する中でどう対応していくか」ということを体得しました。

ハイチは、幾度も政変を経験し国連平和維持軍が治安維持に当たっています。三月中旬、緊急援助の段階がおわり各国の部隊が続々と撤退していきました。

慈済の援助物資の配布は、国連平和維持隊の保護を申請しても拒否されるかもしれないという厳しい状況でしたが、軍の車両が配布現場に現われ、黄漢魁の心は少しだけ軽くなりました。

ハイチ政府と援助に関する事柄を相談しても、いつも政府内の意見がばらばらで、決断を下す人がいません。しかし、状況が頻繁に変わっても、慈済人の歩みは止まることはありませんでした。

慈済米国総支部の副執行長を務める黄漢魁は、「今回は、米国やカナダなど、比較的豊かな国の人たちが発心してボランティアとしてハイチへ向かいました。震災のあとの光景は、皆の心を強く揺さぶりました。苦しかったけれどもやはり奉仕をすることが好きなのです」と話しました。

善縁が湧き出て
苦心と労力を集める

毎日、ハイチ時間の夜七時四十分になると、慈済ボランティアは海外工事会社(OECC)のハイチ事務所の大食堂に集まりました。インターネットで米国総支部、花蓮本部と繋ぎ最新の進展状況を報告するのです。そして、證厳上人から援助活動の作業方法についてお話がありました。

ハイチ地震のあと、全てのインフラが破壊されました。ボランティアが救済活動を継続できたのも海外工事会社の協力があったからです。

台湾企業が中南米に子会社として設立した海外工事会社は、慈済や路竹会など台湾から来た救助団体に滞在・活動の場を提供するなど、全力で支えてくれました。

慈済援助チームを支援するため、トレーニングジムを宿泊できるように改造してくれたり、疲れて帰ってきたボランティアのために菜食料理を用意してくれるなど、いろいろと気遣ってくれ、何の心配もなく滞在することができました。また、物資の保管場所とインターネットも確保してくれたので、救援活動に専念することができました。

海外工事会社のハイチ事務所は、台湾人従業員は数名いるだけで、残りは現地の人か近隣の国からきた人たちです。しかし、請け負った建設工事の実績から「台湾の鏡」と高く評価されています。この度の大地震でも倒壊しなかった国立サッカー場も同社が建設したものです。

慈済の援助物資は、陸海空あらゆるルートでハイチへ運ばれてきます。ポルトープランスで縫製工場を営む台湾人の劉俊謀さんは、工場を物資保管場として提供してくれ、ドミニカから物資輸送のコンテナも運んでくれました。従業員に協力するように呼びかけ、とうもろこし粉と米を袋詰めにし配布しやすいようにしてくれました。

ボランティアの苗萬輝は「国境を越えて物資を運ぶことはかなり面倒なことで、ほとんどの人は二度としたがりません。でも劉さんは、会社の同僚を派遣してくれたり、あるときは自ら出かけて来てくれたりしてくれました。本当に感謝しています」と話しました。



援助チームがハイチを離れたあと、被災者を思うと気がかりで仕方がありませんでした。被災者が自らの手で故郷を再建するのを支えることが、援助チームの新たな試練となりました。

二年間、ハイチの任務に継続して携わってきたロサンゼルスのボランティア曽慈慧は、「ハイチの人は純粋で粘り強い」と話しました。

ポルトープランスの住民は、廃墟の中から石を掘り出して煉瓦を作り、再び家を造ります。曽慈慧は、この種の建材が強震には耐えられないことを知っています。それでも人々は一心に家屋を建て直します。

昨年私たちは、北部の村へ行きました。稲穂がとてもきれいで、生活は素朴で楽しそうでした。しかし村人が足で踏んで脱穀している姿は、私たちの常識を遥かに越えたものでした。

曾慈慧は「『文明社会』の考え方をハイチの人に押しつけるべきではありません。先進国家の考えから脱皮して、現地の人を信じ、しきたりを尊重するべきです」と話しました。

仕事の機会を与え、彼らが自ら立ち上がれるようサポートをしていかなければなりません。つまり、医療現場を例にとってみれば、現地でハイチ人の医療スタッフを募集し、ハイチ人の力で同胞を助けるということです。それこそが将来に繋がる道なのです。

慈済の中長期再建計画は、米国総支部が主力となって世界中の慈済ボランティアが後ろ盾となり、ハイチ人ボランティアに付き添って道路の再建をし、さらに援助を待っている多くのハイチの人を手伝うというものです。

文・葉子豪/訳・鈴木美穂/撮影・林炎煌
慈済月刊五二一期より