2011年7月17日 岩手県上閉伊郡大槌町

2011年 7月 28日 慈済基金会
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地震見舞金配布二日目
朝7時15分、今朝も町長代理の平野課長を始め、大槌町の方方が私たちの開始を待っていた。7時40分開始配布を開始。昨日から比べると受け取りに来られる大槌町の方は少なかった。その中で一人のおばあさんが私たちに深深と頭を下げてくださった。その方は会場に掛けてあったポスターの一枚を見ながら「ありがとうございました。暖かいショールと毛布を頂き、本当にありがとうございました」とおっしゃった。おばあさんは私たちが3月に行った支援物資配布のときに避難所で慈濟のショールと毛布を受け取って下さってくれていたのでした。ボランティアの許麗香さんはそのおばあちゃんの話をゆっくりと聞いてあげていました。昨日のような忙しさではどうしても時間が優先してしまいます。しかしボランティアの人たちはいつも受け取りに来られる方との時間を大切にしたいと思っています。一期一会、この時間を大切に、慈濟ボランティアはいつもこの縁を大切にしています。

受け取りに来られる大槌町の方がたもその縁を大切にしています。それは震災後初めて出会うことができた同級生、友人、親戚、互いに連絡をとることもままならず、ただ心に留めていた人たちに出会うことができたことです。大槌町役場の方が4000世帯におよぶ被災者の方へ連絡をとる努力をし、慈濟がこの3日間の時間を作り出せたことで見舞金にも勝る喜びをこの方方に享受してもらう事ができました。ひとりのおばあちゃんは古い友人と会うことができて涙を流していました。お互いに離れた避難生活でもう今生での再会は無いやも知れないとおっしゃっていました。それでもこの場所で出会えたことにとても喜んでくれたことと思います。

今回、慈濟が会場にさせていただいた小学校ではほかのボランティアの方も活動していました。関東の方からいらっしゃったその方たちは瓦礫の中から見つかった何百枚もの写真やアルバムを再生する活動を行っていました。一枚一枚の写真を見ながら、家族写真、友人との写真、卒業写真、一枚一枚を丁寧に剥がし、整理していました。そして整理した写真は別のボランティアによって再生させるのだそうです。その日作業をされていた二人の方は黙黙と作業をされていました。その姿はなぜか沈んだ感じに見えました。

その理由を平野課長が説明してくれました。写真には多くの笑顔が写っています。そしてその多くの方がその笑顔を無くす悲しい運命を背負うことになりました。写真を整理しているとそれがどうしても心に刺さり深く沈みこんでしまうのだそうです。それでも一枚でも多くの写真を再生し、一人でも多くの方のもとに戻せるようにと活動を続けているのだそうです。撮影することは出来ませんでしたが、私も何枚かの写真を見せていただきました。そこには家族4人が楽しそうにはしゃぐ姿が写っていました。お父さんとお母さん、二人の兄弟が写っていました。この写真がこの家族にもとに戻れるか解りませんが、そう願わずにはいられませんでした。

さらにこの小学校に思いを残す人たちがいます。被災するその日までここに通っていた子供たちです。大槌小学校は280名ほどの子供たちが通っていて、あの日、3名の子が海に流されたそうです。被災後、小学校は立ち入り禁止になり子供たちは自分の通っていた教室がどうなったかも見ることが出来なかったそうです。見舞金を受け取りにくる親御さんと共にそんな子供たちが幾人も着ていました。

そのうちの何人かを保護者のかたや役場の方の許可をもらって、お母さんが見舞金受け取りの手続きをしている間、慈青のひとりが校舎の中を案内しました。まだ具体的な計画が有るわけでは無いそうですが、ただこの小学校がここで再建されることは無いだろうとのことでした。次の災害が10年後に起きるのか100年後に起きるのか、それは誰も解らない事ですが、それでも同じ悲しみを繰り返してはいけないという思いは誰もが同じです。さらに今回の震災でも再認識されたのが学校は子供たちの教育の場となるだけではなく、災害時には多くの方の避難所として機能しなければならないということです。だかれこそ50年、100年と先を見越してより安全に、より多機能に再建されるだろうとのことでした。

この大槌小学校の裏手には大念寺というお寺があります。そのお寺の奥さんが話してくれました。地震の後の津波で一帯の家家が押し流され、お寺の方にも濁流と共に押し寄せてきたそうです。しかしこの小学校が盾となりお寺に達する前に防いでくれました。その後起きた火災で学校は無残な姿となりましたが、学校がお寺を助けてくれたと奥さんは言っていました。私たち慈濟のメンバーもここで見舞金配布活動をすることが出来ました。やはりこの縁に感謝します。

文・池田浩一