全世界の慈済人のバックアップを受けて

2011年 11月 17日 慈済基金会
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【慈済日本支部の「女性軍」たち】

東日本大地震発生後、慈済日本支部は直ちに台湾慈済本部とインターネット会議を行い、證厳法師はボランティアの安否を尋ねました。あたかも慈母のような思いやり深い言葉に、みなの目から涙があふれ出ました。

「困難に直面した子を心配する母の声が、電話の向こうから伝わってきたようでした……」と、ボランティアの陳雅琴が半年前のあの日のことを、込み上げる気持ちに声をつまらせながら話しました。「私たちは皆、故郷を離れ、異国で働く身です。大災難に直面し、苦難の人を助けたいと思っていますが、どう手を打つべきか勝手が分かりませんでした」

心の師である證厳法師が力を与えてくださったおかげで、日本に住む台湾女性たちは、大いに勇気づけられました。劉桂英は、「今やるべきことが何かは分かっていても、どのように援助をすべきか、その手段については、経験のない私たちは途方に暮れていました」。地震発生翌日の三月十二日、陳金発が台湾から日本に急遽やって来ました。日本支部のボランティアはほっとしました。

陳金発は事業の関係で頻繁に日本と台湾の間を往き来しています。ボランティア経験が豊富で、震災発生を受け日本支部の監督指導の職務を担うことになりました。「日本地震のニュースをラジオで知ると急いで日本支部に電話して事情を聞き、すぐさま航空券の手配をしました」

放射能漏れの状況がますます深刻となり、台湾の家族は早く台湾に戻るようにと言いましたが、陳金発は「飛行機が飛んでいるかぎり、外務省が渡日を禁じないかぎり、私は日本に参ります」と。陳金発は、日本にいる台湾女性ボランティアのことが気がかりだったのです。

「初めて東北救済に行く時、陳金発さんは三晩にわたって細かい注意事項を私たちに告げました」と劉桂英は笑いながら言いました。支部のメンバーはほとんどが主婦です。彼女たちがすぐ状況に慣れ、うまく仕事をこなせるようにと、陳金発の心の配り様が窺われます。

陳金発は豊富な国際救済経験を生かして、日本のボランティアを力強くリードし、救済作業が進められていきました。みんなボランティア活動の現場では、被災者の方々の話に耳を傾け、心に大きなショックを受けることもありました。

「津波が押し寄せてきた時、ある女性は片手で母を引っ張り、もう一方の手で娘を引っ張りましたが、とうとう力尽きて、母を手放し両手で娘を引き上げたといいます。また、ある男の方は、片手で子供を掴み、片手で奥さんを引っ張りました。けれども力尽きてやむなく奥さんを引っ張っていた手を放しました。『自分は間違ったことをしたのだろうか』と聞かれ、返す言葉が見つかりませんでした……」。劉月英は言いました。この人生の悲劇にどう立ち向かい、また受けとめるべきでしょうか。

「半年この方、私たちは輪のように止まることなく休みなしに転がっています。毎朝目が覚めるとまた転がり始めます。立ち止まって一息つく時間などありません」。二百日の間働き続け、心身ともに疲労困弊の極に達しました。

「しかし私たちは挫けることなく毅然として立ち向かいました。この世紀の災難の救済に動いたのは、日本にいる私たちだけではありません。全世界の慈済人が背後で支えてくれていることを、私たちは知っています」。八月、日本のボランティアたちは台湾に帰り、全世界から集まったボランティアと共に講習キャンプに参加しました。日本から来たのだと言うと、「頑張れ」と激励やねぎらいの言葉をかけられました。「その時、私は地にひれ伏して皆様からいただいた無数の激励に感謝したい気持ちでした」と劉月英は語りました。

劉月英は財務管理を担当しており、第一回目の住宅被害見舞金配付活動の時、手押し車でお金を運びました。重たい手押し車を、でこぼこの地面の上を引くのは至難の業でした。「これは全世界三十九カ国もの慈済人が、風雪の中、太陽の下、豪雨の中を、一人ひとりから集めてきた愛の心です。どんなことがあっても必ず届けるのだと歯を食いしばって運びました」と。

日本支部の責任者である張秀民は、「私たちは少しも恐れません。全世界の慈済人が私たちの双肩となってくれ、最強のバックアップを下さっているのですから」と。

文‧凃心怡/訳・王得和
(慈済月刊五三九期より)