教訓忘れず 海と共に生きる

2012年 4月 27日 慈済基金会
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【東日本大震災から一年 ● 岩手、宮城】
どんなに高くて丈夫な防波堤も
家や田畑
そして、人間の命を
完全に守ることはできない
寒い春に雪がちらついていた
被災者の姿が
世の人に訴えている
三一一の教訓を
忘れないで欲しい、と

二〇一二年三月十一日午後二時四十六分、数百本もの東京の地下鉄が一斉に一分間、運行を停止すると同時に黙祷を呼びかけるアナウンスを流した。銀座のデパートでは十一の鐘の音が鳴り響き、客は足を止めて黙祷した。二月末に心臓の手術を終えたばかりの天皇陛下は、弱った体を押して東京国立劇場に出向かれ、慰霊祭に参加された。

その日は国難であり、忘れてはならない日である。

日本各地の神社や学校、広場などで追悼式が行われた。慰霊祭に出席した人たちは、喪服を着て菊の花を手に持ち、一年前の東日本大震災で亡くなった一万五千八百五十四人を追悼すると共に、未だ行方不明である三千百五十五人の遺体が一日も早く見つかるよう祈った。

黙祷前には国歌がゆっくりと流れた。人々はこの一年間の悲しみや絶望、悔しさを国歌に託した。物悲しいゆっくりとした旋律のこの国歌は世界の国歌の中で最も短いものであるが、三十二文字が歌い終わる前に、多くの人が涙を流した。

三月の日本はまだ寒く、東京でも稀に見る大雪となった。東北ではレスキュー隊員たちが同じように毎日海に潜って行方不明者の捜索に努めていた。震災から一年経ったが、悲しみは未だ見つからない行方不明者の遺体と共に海底に沈むことはなく、復興も未だ敬虔な祈りと共に明るい兆しを見せてはいない。今でも「頑張れ、日本!」というスローガンが街の通りやビルの外壁に貼られてあるのが見られる。

復興の妨げになっている瓦礫

二〇一一年三月十一日、東北地方沖に発生したマグニチュード九・〇の巨大地震によって地球の回転軸がずれ、本州が東寄りに二・四メートル移動した。このように強力な地震の影響下で起った大津波は東北沿岸を襲い、瞬く間に人間や家屋を跡形もなく押し流した。岩手県と宮城県、福島県が最も大きな被害を蒙った。

また、津波は海辺に立つ東京電力福島第一原子力発電所を破壊した。三月十二日午後三時三十六分、原子力発電所の一号機が爆発を起し、放射能が漏れた。それによって半径二十キロ以内に住む住民が避難を余儀なくされ、今も帰宅することができない。今回のような複合的な災害は世界でも稀に見るものである。

一年を経て再び、被災地を訪れた。建物の土台だけが残った広大な土地には砂利が敷かれていた。流されなかったビルの鉄筋はむき出しになり、苦痛に抗っているようにねじれていた。また、陸に打ち上げられた大型漁船はそこに残されたままだ。

三一一地震で起きた津波の発生範囲は南北に五百五十キロ、東西二百キロにも及び、今までで最も広範囲のものである。二千二百五十二トンに及ぶ瓦礫の処理が待たれるが、それは東北三県十五年間のゴミの量に匹敵する。今までに処理された量は五%に過ぎず、瓦礫の山が町の復興を妨げている。

宮城県気仙沼市に住む斉藤信夫さんは、自宅を根こそぎ津波で流され、今は仮設住宅に住んでいる。この一年間、再建に関するどんな会議にも出席してきた。本棚には会議の記録資料が並んでいた。彼は黄色の表紙のファイルを取り出し、様々な色に塗り分けられた再建計画図を見せてくれた。

政府は危険区域の住民全員を移転させることにしているが、移転先がまだ決まっていない。震災から一年、政府案は斉藤さんが持っている計画案とほとんど同じで、山を削って町を造るものである。彼は地図を取り出して説明した。「ここは海岸から車で約二十分のところです。今ここは山で、将来、政府はその山を削って平らにし、電気、水道を通して公営住宅を建てる予定です。私たちは一般賃貸料の七掛けで住むことができます」
このように大規模な工事は早くても三年から五年はかかるが、仮設住宅の使用期限は二年で、既に一年が過ぎている。この他にもいろいろな課題はあるが、斉藤さんは「あれこれ考えても煩わしいだけです。今できることと言えば、心を落ち着けて待つことです」と言った。

海の万里の長城を越えた津波

日本は太平洋プレートとユーラシア大陸プレート、北米プレート、そしてフィリピン海プレートのぶつかり合う地点にあり、地震と火山活動が頻繁なところである。そして、東北の太平洋岸は有名なリアス式海岸で、津波が襲った時、往々にして波が予想よりも高くなり、破壊力が倍増する。

震災後、沿岸地帯の民家を訪れた時、「住居は海に近いところに建ててはならない、という言葉を祖先の人が残していたのです」と何人もの年輩者が証言した。津波が東北を襲うことは珍しいことではない。記録によれば、六、七十年に一度は襲って来ていた。一八九六年の明治三陸地震と一九三三年の昭和三陸地震は共に大津波を引き起こし、明治三陸地震では二万一千人余りの死者を出している。しかし、海で生活する人たちは利便性を求めて、徐々に海岸に近いところに住むようになり、毎回、津波で多くの犠牲者を出している。

東北の海岸沿いには世界でも有数の防波堤が二つある。一つは岩手県釜石の港にあるもので、南側が九百九十メートル、北側が六百七十メートルで、高さは海底から上まで六十三メートルもある。それは世界で最も深く、長い防波堤で、百十六年前に多大な犠牲者を出した明治三陸地震の時の津波の記録を基に設計されたものである。

もう一つは岩手県宮古市田老町の海岸にあるもので、長さは二千四百三十三メートル、高さ十メートルで、「海の万里の長城」と呼ばれた。

田老町に住む加倉則雄さんは防波堤の横に立って町と津波の歴史を語ってくれた。「一六一一年以来、大きな津波被害が七回起きており、何千人も犠牲になっています。一九三三年の時は村が全滅に近い状態だったために、防波堤を作ることになったのです」今回の震災にも田老町の防波堤は、びくともせず立っている。しかし、彼が立っているこの辺りには、かつては住宅が立ち並んでいた。「津波の高さは三十七・九メートルで、防波堤を超えて小高い丘を襲いました」。この海の万里の長城は、町の二百人余りの命を守ることができなかった。

今回の津波は最高四十・五メートルを記録しており、犠牲者の九割が津波による死者である。

壊滅的被害を受けた漁業

今回の地震の震源地である三陸沖は、太平洋の親潮と黒潮がぶつかる地点で、世界三大漁場の一つに数えられている。今回、岩手県と宮城県では数多くの大型漁港が被害を受けた。

宮城県気仙沼市では、住宅や水産会社、漁船が壊滅的なダメージを受けたほかに、魚市場と港が七十センチも地盤沈下し、危機的な状況に瀕している。

魚市場水産課の調査員である桜田真樹さんが住民と海の密接な関係を説明してくれた。「百%近い住民が漁業と関係しています。例えば、商店や美容院関係の人でも、副業が漁業関係であったり、家族が漁業関係に従事していたりするのです」

「もし、海が駄目になれば、私たちは全滅ということになります。ですから、生活の再建を始める前に、漁業の復興を始めなければならないのです」。魚市場と港の整備、そして、海の中の瓦礫の撤去に三カ月を費やし、六月二十八日にやっと船が出港できるまでこぎつけた。

彼は復興に関する話をしてくれたが、口調は重かった。「港の整備を始めて半年になりますが、漁業の回復は三割に留まっています。以前、水産関係の総売り上げは年平均して二百二十五億円でしたが、去年は僅か八十五億円で、今年は考えてみたくもありません」

「港は回復しましたが、漁師たちには漁船や道具を買うお金がないので、どうしようもありません」。鮮魚の卸売りをしている千葉龍一さんは津波にあらゆる感情を持って行かれたとでもいうように、淡々とした口調で語った。「ここの沿岸漁業の漁船は全滅に近い状態で、遠洋漁業の船もありません。頼れるのは外国や国内の他の地方から来る遠洋船ですが、数が少ないために価格が何割も跳ね上がっています」。そのほか、水産加工工場が一軒も残らず津波に破壊されてしまったので加工ができず、冷凍庫も足りない状態である。たとえ漁獲量が十分にあっても逆に損失は増えるばかりなのだ。

東北大震災一周年の数日前、全国七十七の銀行が復興金融応援計画を発表した。それは低金利で被災地の産業復興を支える案で、被災地の人に一縷の望みを与えた。「効果はまだ見えませんが、とにかく希望にはなります」

崩壊寸前の中小企業

漁業は政府と銀行の支援によってゆっくりと回復しつつあるが、工業と商業に対しては、政府は震災一周年が過ぎてからやっと補助を開始した。「政府は総損失額の四分の三を補助してくれるのですが、動きが遅すぎるのです。多くの中小企業はそれを受け取る前に倒産を余儀なくされました」と中小企業を経営する花田薫さんが言った。

花田さんの会社は全国に七つの工場を持っている。仙台市にある工場は最も小さく、従業員数も少ない。そこでは基礎的な技術を応用したものしか作っていなかったが、彼はその三十数年になる工場に格別な感情を持っている。「私は父の事業を継ぎましたが、この工場は私が立ち上げたものです」と彼は言った。

工場の骨組みは残っていたが、壁は所々に穴が開き、機械は全て損壊した。損失は三億五千万円を超える。
彼は二十二人の従業員を他の工場に出向させ、引っ越し費用は会社が負担し、宿舎の家賃も免除した。「故郷を離れなければなりませんが、仕事があるだけでも彼らは喜んでくれました」。もし、他の六つの工場の支援がなければ、この古参の従業員を食べさせて行く自信はなかった、と彼は正直に言った。彼は再建の資金を得るために、他の工場を抵当に入れて借金した。

帝国データバンクによれば、震災後、会社の倒産は一直線で増加している。中でも水産業や自動車部品製造業、中小企業の負債は一千万円以上が十七万件に達し、今もなお増え続けている。被災者の四割が失業による経済的な苦境の中に置かれている。

心的外傷後ストレス障害に苦しむ

震災発生後、直ちに公民館や学校、体育館など二千六百カ所余りの避難所を設け、五十五万人が避難した。今でも三十四万人が自宅に戻ることができない。調査によれば、七割の人が元の場所に家を再建したいと望んでいる。

阿部澄子さんは漁師の家に生まれ、海の匂いを嗅いで生きてきた。彼女の夫は五、六人でなる小規模な船隊
を統率していた。二人の息子も漁業で生計を立てており、彼女はウニを捕って生計の足しにしていた。「ウニを捕る時は胸まで水につかるのですが、今は海に近づくのが怖いのです」と言う。

震災一周年前夜、テレビではひっきりなしに特別報道を流していたが、阿部さんは津波の映像を見るだけで気分が悪くなる。「あの時に戻ったみたいで、家の中で座っているのにまた津波に流されるような気持ちに襲われてしまうのです。」

阿部さんは罹災手続きを済まし、生活補助金をもらっているが、次々と再建に関する会議に出席して、悲しんでいる暇はなかった。今年に入ってからほぼ普通の生活に戻ったが、ある日突然、朝起きると理由もなく涙が流れ、時折胃がきりきり痛むようになった。それは心的ストレスによるものだと医者に言われた。

友人に夫と息子を亡くした人がいるが、毎日、鎮静剤を服用してやっと日々を送っている。その人はとくに心的外傷後ストレス障害の患者ではなく、被災者の多くはそのような生活をしていると彼女は言った。

今、被災者たちにとって、生活の主体は生活の再建と心を癒すことである。生活と心の再建は思ったほど簡単なことではない。「頑張れ!」という言葉は彼らにとって励ましであると同時に、ストレスでもある。一年間努力して精魂使い果たしてきたが、あとどのくらい経てば以前のような生活に戻ることができるのだろう? 誰もその答えを出せる者はいない。

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橋詰琢見さんが住んでいた陸前高田市も大きな被害を蒙った。彼自身も被災者であるが、「どうやって被災地のために尽くすことができるか、ずっと友人と考えてきました」と言った。

昨年の八月、「三一一桜前線」という構想を練り上げた。「陸前高田市が被災した海岸線の長さは百七十六キロです。そこで、津波が到達した最も遠い地点に桜の木を植えるのです。それを連ねて津波の到達線を他の人々や次の世代の人たちに知ってもらうのです。将来、何百年、何千年後の人に、津波の怖さを理解してもらい、海を生活の基盤としたために僕らと同じような過ちを犯して悲惨な目に遭わないよう忠告したいのです」

木と木の間隔を十メートルとすると、一万七千本の桜の木を植えて初めてこの行動は完成する。昨年の十一月から今年の三月まで植えたのは二百七十本で、完成までにはまだ距離がある。「しかし、僕らは成し遂げなければいけないのです。次に津波に襲われた時、桜の木のお陰で一人でも犠牲者を減らすことができれば、僕らの行動は意味を持つのです」と橋詰さんが言った。

「桜前線」とは気象庁が予測して発表する、日本各地の桜の開花時期を示す地図で、桜は毎年三月末から四月初めにかけて開花する。桜の花見は古くからの習慣であるが、橋詰さんたちの桜前線は後に花が咲いた時、損壊した海岸線を美しくすると共に、そのピンク色の花は人々にあの壊滅的な災害を思い起こさせてくれるだろう。

桜は日本的精神の象徴であるが、今は「三一一を忘れるな」という記憶の象徴でもある。「日本人は頑張るだけでなく、教訓を忘れずに未来に向かって歩まなければいけません」と橋詰さんが言った。                             


(慈済月刊五四四期より)
文/凃心怡  訳/済運  攝影/蕭耀華