一歩を踏み出して悲しみを乗り越える

2011年 8月 18日 慈済基金会
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7月29日、30日、31日の三日間、東日本大震災慈済災害援助配付団は宮城県気仙沼市の本吉図書館と八日町町役場で第三回目の住宅被害見舞金の配付を行った。

7月30日から宮城県気仙沼市八日町の町役場で二日間の活動を行った。また、被災者が少しでも早く見舞金を受け取れるようにと考え、予定より一時間早く配付を開始した。

メディアは競って配付活動を報道した

配付を開始する前、ボランティアの陳金発さんは被災者に證厳法師からのお見舞いの手紙を読み上げると共に、三月十一日に大地震が発生してから慈済が被災地で行ってきた支援活動の数々を簡単に紹介した。配付を開始して一時間、受け取りに来た人の列は建物の外にまで長く伸び、坂の下の道まで続いていた。

ふと、会場にメディアのカメラマンが数人、撮影しているのを見かけた。全国紙である読売新聞と現地のケーブルテレビ局の人たちだった。彼らは見舞金を配付する慈善団体「慈済」に興味があった。

この一瞬を大切にし、足るを知って感謝の気持ちを持てば、恩人に出会う

見舞金を受け取りに来た被災者たちが辛抱強く順番待ちをしている間、ボランティアは慈済を紹介するパンフレットを配った。多くの人がそれを読んでいたが、小野寺さんという女性が静思語、「未来のことは妄想であり、過去のことは雑念です。今この時を大事にしましょう」という一句を見て涙を流した。「私の今の心境を言い当てています。」と彼女が言った。

見舞金を受け取ると、多くの人は目を赤くしたり涙を浮かべてボランティアの手を堅く握り締めながら、礼を述べていた。石川諒子さんは友人の斉藤慧子さんの誘いで奉仕しに来て、午前中、坐って休む暇がなかった。こんなに多くの被災者が見舞金を受け取りに来たということは、人々の生活がまだまだ、安定していないことを意味している。「金額的に大きいとは言えませんが、それでも皆さんには大いに役立つと信じています」と彼女は自信を持って言った。

大災害で、一層幸福を大切にしようと慰めた

七十歳になる渡辺孝子さんは両脚の静脈瘤のため、車椅子を使用している。ボランティアが彼女に優先的に手続きをさせようとしたが、彼女は遠慮がちに断った。順番に並ぶべきであり、普段、病院でも辛抱強く待つのと同じだ、と彼女は言った。そして、東北の人は安心感のために現金を家に置く習慣があるので、津波の時、そのほとんどをなくしているとも言った。

渡辺さんは、以前はテレビで被災した報道を見て、可哀想だと思っていたが、思いもよらず、今回は自分が被災者になってしまった。津波が襲ってきた時、幸いにも息子が彼女を連れて安全な所に避難した。今は息子と一緒に仮設住宅に住んでいる。

日本支部のボランティアである林真子さんは、「生きているだけでもよかったですよ。勇気を持ってください」と彼女に言った。そして、渡辺さんは、「死んだ人たちのためにも、命を大事にして精一杯、生きて行かなければね」と言った。

台湾から嫁いできたが、同郷の人に会えて喜ぶと共に心が安らいだ

十八年前、気仙沼市に嫁いできた台湾人の張恵秋さんは、今回の津波で家業を失った。数日前に慈済が見舞金の配付に来ると聞いて、期待を膨らませていた。

地震のあと、張さんは毎日のように悪夢にうなされた。姑も最近、仮設住宅に入ってから、少しずつ心が落ち着いてきた。彼女が同郷からやってきた慈済ボランティアに会った時、自分の家族のように思えた。「あなたたちが見舞金を配付に来たので、私の姑は知り合いに、嫁は台湾から来たと自慢しています」と言った。しかし、彼女は「お金はともかく、私は台湾からの人に会いたかった」と言った。

張さんのご主人、菅野さんは、久しぶりに見た奥さんの笑顔に胸を撫で下ろしていた。ボランティアがその夫婦をボランティア活動に誘ったが、ご主人は躊躇していた。その時、ボランティアであると同時に被災者でもある伊東信一さんを紹介すると話が弾み、明日、夫婦一緒にボランティアとして来ることに決まった。

心の傷の治療には、友人を誘って奉仕するのが一番

昨日、見舞金を受け取りに来た斉藤慧子さんは、心から愛の力を感じ、今日、ボランティアとして来ることを約束した。ところが、やって来たのは彼女だけでなく、友人を二人連れてきた。

「おはようございます!」小柄な彼女は、見舞金を受け取りに来た人、一人ひとりに温かく声を掛けていた。被災者たちはより一層の親しみを覚えた。

慈済を知る前、斉藤さんは二人の友人と共によく、ボランティア活動に参加していた。2008年、中国四川省の大地震の時、斉藤さんは友人と一緒に四川省へ出向いてボランティア活動に参加した。しかし、彼女は平穏な人生が津波で一変しようとは思いもしなかった。死ななかったのは幸いだが、今は何もかも失ってしまった。

地震発生当日、彼女は孫を迎えに幼稚園に急いだ。初めは孫を連れて直ぐに高台へ逃げようと思っていた。しかし、幼稚園には二、三十人の子どもがいて、先生一人で面倒を見ることはできない上、親たちもすぐには来られなかった。そこで、先生と一緒に子どもたちを隣

天地を覆う勢いで津波は襲い、全ての物は簡単に破壊された。怒号のように流れる水に時折、浮き沈みしながら助けを求める人が見えたが、彼女には何をすることもできなかった。

その日、大雪が降った。公民館の屋上で大勢の人と震えながら過し、三日後、ヘリコプターで救出された。

生来、楽天的な彼女は、災害に遭っても長く悲しむことはなかった。震災後、酷く傷ついた気仙沼市で彼女はボランティア活動を始めた。「家をなくしたけれど、もしその一歩を踏み出さなければ、永遠に悲しみの中から抜け出せなかったでしょうね」と彼女は朗らかに言った。午前中、ボランティアとして奉仕した彼女は、喜びに満ちていた。「これから必要な時、行けるところであれば、どこへでも行きます」

文・白如璐、胡青青、李壁秀  氣仙沼市にて 2011/07/31
訳・済運