武士道精神 恩返しの心

2012年 2月 09日 慈済基金会
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「本当にそのお金を受け取りに行くべきか……」。航空自衛隊を退職した元隊員たちは数カ月前、自問していた。しかし、配付会場に来た後、疑問は吹き飛んだ。今、彼らは慈済ボランティアと共に被災者に奉仕している。

「津波に襲われてから今日まで涙を流したことはありません。でも、この『心つなごう愛で』の歌を聞いた時、涙がこぼれました」。このような話は各地の見舞金配付会場でよく聞かれる話である。

日本人はよく「建前」という言葉を使う。とくに震災後、多くの人が悲しみを押し隠し、容易なことでは心の内を人には見せない。「建前」という壁が人と人の間に流れる感情の交流を阻んでいる。

幸いなことに善意はそよ風のように人々の心の内側にある「本音」を撫で、真心の交流が生まれている。その理由は、待っている時にボランティアが歌う「心つなごう愛で」という歌かもしれないし、見舞金を恭しく手渡しするボランティアの丁寧で尊重のこもった態度かもしれない。あるいは思いやりコーナーで出される一杯のお茶と、台湾菓子の甘酸っぱいパイナップルケーキかもしれない。どこの会場でも被災者は慈済ボランティアの真心を感じ取ることができ、それは悲しみから抜け出すきっかけとなっている。

十月二十二日、配付会場に笠原豊子さんがお菓子を持って現れ、ボランティアになりたいと申し出た。前の日、彼女は見舞金を受け取った後、うっかり運転免許証を紛失してしまい、大勢のボランティアが一所懸命探し回った。運転免許証は結局見つからなかったが、笠原さんは多くの愛を見つけた。

前かけをつけた笠原さんは穏やかな人柄で、典型的な日本の主婦という感じだった。震災後の家の整理も終わっておらず、家族の世話もしなければならない状態であれば、忙しいからと人間菩薩になることを断って当然である。「家の方は忙しいのではありませんか」とボランティアが聞くと、「あなたたちがこんなに働いても忙しいと言わないのに、私に忙しいと言う資格はありません」と答えた。

お返しで恩に報いるのが
日本の伝統的な礼儀作法

そよ風のような愛は、笠原豊子さんのような主婦の心を温めることができる。柔らかい春陽のような愛は、百戦錬磨の金剛をも柔軟にする。航空自衛隊を退職した元隊員たちは固い軍人という役をかなぐり捨て、慈済ボランティアと一緒に被災者に奉仕している。

九月十日から十二日まで、慈済ボランティアは宮城県東松島市で見舞金の配付を行った。菅原三千男さんは「見舞金を受け取りに行くべきかどうか」迷っていた。自分に厳しい武士道精神を持った人は、無常に遭遇した時、人一倍心に溜め込むことになる。

市役所の職員が慈済ボランティアに聞いた。「どうして座って見舞金を渡さないのですか」。ボランティアは、「私たちはただお金を渡しに来たのではなく、世界三十九カ国の人々の愛を手渡しするために来たのです」と答えた。

こうやって少しずつ愛で接することで、菅原さんは疑問が消えた。日本の文化には「恩返し」という考え方がある。台湾にも「人から一斤食べさせてもらったら、八両お返しをする」という古くからの言い伝えがある。私が子どもの頃、日本教育を受けた母は、隣近所から食べ物をもらうと、お皿をきれいに洗い、白米を盛り、その上に卵を載せて礼儀正しく返しに行ったのを覚えている。

台湾も東京も遠く、見舞金をもらってもお返しができないが、何かしなければと彼は思った。「慈済のために何をしたらいいのだろう」。自衛隊を退職してから様々な社会活動に参加してきた。今、菅原さんは「公益社団法人隊友会東松島支部」の副会長を務めている。慈済が配付活動する時に言葉の問題があると聞くと、十九人の隊員を伴って交代で手伝いに来た。彼らは体で奉仕することによって心の傷を癒している。

配付活動の初日と二日目は最も来場者が多く、受け取りに三~四時間も待たなければならなかった。お昼になると、慈済ボランティアは昼食が摂れない人々にお菓子を出した。持ち場を離れて食事をしに行こうとしない男性ボランティアがいた。彼は「慣れています。お腹は空いていません」と言い、また、心優しい女性ボランティアは目を赤くして「被災者が立ったまま食事もしていないのに、私が食べるわけにはいきません」と言った。

菅原さんは今年七十一歳で、航空自衛隊の元隊員も皆、同じ位の年齢である。彼らは皆、真っ直ぐ伸ばした腰と膝にサポーターを巻き、食事の時間になっても休まずに人々への奉仕に当たっていた。

初日、彼らは弁当を持参してきたが、二日目からは慈済ボランティアの招待で、皆と打ち解けて一緒に食事を摂り、緊急災害用の即席ご飯を食べた。

日本には「同じ釜の飯を食う仲間」という言葉がある。この尊敬に値する元自衛隊員と慈済ボランティアは人助けの良き仲間である。公益社団法人隊友会は日本全国で約八万八千名の会員がいる。「慈済に人手が必要な時は、必ず飛んで来ます」と菅原さんが言ってくれた。



外国から日本を見ていると、政府は有能で国民は礼儀正しく、震災から既に立ち直っているはずだと思っていた。しかし、実際にこの土地に来て、泣き崩れるお婆さんや涙を流して言葉がでない人に出会い、その人たちの肩をやさしく叩きながら、心の傷が内に秘められているのを知った。亡くなった家族のこと以外に、仕事が見つからないことや仮設住宅での困難な生活状況が彼らを苦しめていた。

家族を亡くしたという話を数多く聞いたが、その内容は似通っている。「同時に二人の家族の手をつかんでいましたが、体力に限界がきました。最後はどちらの手を離したらいいのでしょう?」「津波が襲ってきた時、私は大声で『逃げろ! 逃げろ!』と走りながら叫びました。何人かは私について走りましたが、急に離れて家に飛び込み、貴重品を取りに行った人もいました。後で避難所で捜してみると、物を取りに行った人がいませんでした」

無常は準備が整っている時には来ない。「誰を助けたらいいのか?」「何を持って逃げたらいいか?」といった問いは、心理テストではない。「心を静め、慌てず、仏道を極める心で衆生を悟りに導く」、「大きな悪が訪れた後には、大きな善が訪れる」……これらは被災者に手渡した祝福カードに書かれたものである。

石巻市で台湾からの支援に応え、国旗がはためくのを見た。国連のように世界各地から集まったボランティアや元気いっぱいで初めて参加した現地のボランティア、東松島からやってきた元自衛隊員たちの勇壮な姿、そして、紺色のシャツに白いパンツの我々慈済ボランティア……。

大災害の後、世界からの愛がここに集った。


(慈済月刊五四〇期より)
文・林玲悧/訳・済運/撮影・蔡謀誠