心残りのこと   

2016年 3月 11日 慈済基金会
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あの日からもう五年。帰宅のことばかり心にかかる。

二〇一一年三月十一日、午後二時四十六分。東北地方の外海でマグニチュード9.0の大地震が発生。大津波が沿岸部を襲い、福島第一原発も被害を受けた。私たちは「日本311大地震」の五年目の特集企画として、福島第一原発近くの町村を取材することにした。目に見えず、触ることもできない放射能は、やはり恐ろしい。この企画を福島県双葉町の幾田慎一氏に伝えたところ、彼は言った。「私は近々帰宅する計画を立てています。でも、現在の線量はますます高くなっていますよ。この二人の記者の方はまだ若いけど、大丈夫ですか。」

摂氏五度、うららかな天気だったが、南国から来た私たちは体がふるえた。寒かったからなのか。それとも幾田氏が私たちの同行を断るのではと心配したからなのか。あるいは、今からあの「目に見えない」危険地域に行くのが心配だからなのか。複雑な気持ちを抱きながら、埼玉県の「双葉栴檀広場」まで来た。ドアを開けると、親しげなあいさつの声があちこちから起り、おじいさん、おばあさんたちの笑顔が目に飛び込んできた。彼らは、みんな双葉町からここに避難してきている。双葉町は福島第一原発からわずか三・五キロのところにある小さな町だが、震災後、七千人余りの町民は全員この町を離れた。住民の一部は二百五十キロ離れた埼玉県に移り住み、幾田氏もその一人である。

毎月二回開かれる集会の日だった。お年寄りたちは、暮らしのことや友だちのこと、また故郷の双葉町について話をしている。「双葉町の印象で、最も忘れがたいものは何ですか」と聞いた時、私は故郷の食べ物や草木や懐かしい川のこと、また若い頃の思い出などを語ってくれるものと思っていた。しかし、一人のおじいさんが言った。「原発事故が起ったあの日のことは、一生忘れることができないね。」美智子さんという女性は、「私は双葉町の家に帰りたい。けれども、もう帰れないことが心残りなんです」と語った。最初みんなと一緒に笑っていた彼女は、声をつまらせて泣き出した。大震災の後ただちに住み慣れた町を脱出したが、その時は「何日か後には帰れる」と思っていたはずだ。まさか、もう二度と生まれ故郷に戻ることができないなんて。双葉町の町民にとって、帰宅は心から離れない願いなのである。

幾田氏は念を押して言った。「本当に行くんですか。病気になるかもしれないし、後遺症が残るかもしれないよ。それでもいいのですか。」撮影スタッフのほうを見ると、彼はうなずいた。通訳・取材を担当してくれる二人の慈濟ボランティアの女性たちもうなずいて言った。「人々のために尽くすことが私たちの使命ですから。」幾田氏はやっと同意してくれた。二〇一五年十二月十六日は、最後の帰宅となった日である。

この日、幾田氏は私たちを伴って、自ら車を運転して行くことになった。出発と同時に線量計のスイッチを入れた。高速道路を北上して福島県に入ると、警告音が絶え間なく鳴り響いた。窓外を見れば、放射性廃棄物を入れた大きな黒いビニール袋が高速道路の両側に並べられている。双葉町に入った時もこうしたビニール袋が積まれており、気持ちはたとえようもなく重かった。私は、おじいさん、おばあさんの顔を思い浮かべた。この時の私は、怖いという気持ちと、つらいという気持ちが区別できないまでになっていた。

検問所の処まで来た。申請書や乗車人数、身元の確認を受けて、ようやくそこを通過することができた。幾田氏は、「家に帰るだけなのに、どうしてこんなに沢山の手続きがいるんだろう」とつぶやいた。次の検問所で、私たちは白い防護服に防護帽を身につけ、ビニールの足カバーや手袋をはめて、安全マスクもかけた。「帰宅するだけなのに、まるで泥棒と同じかっこうだね。」私たちは一言も発することができなかった。そう、幾田氏は家に帰ろうとしているだけなのだ。だが帰宅は三か月に一回だけ、しかも一回につき六十分を超えてはいけない。「現在の放射線量は高いので、三十分しか居られない。線量の値が上がれば、すぐにここを出なければなりません。」

幾田氏は、帰宅時に浴びる放射線が健康に悪影響を与えていることを知っている。家族と話し合った結果、先祖の写真や皆の写真を持っていくことにし、もう二度と家には戻らないつもりだ。三十分しか残されていない。幾田氏は家に入ると、壁に掛けていた先祖の写真をすばやく取り外し、家の中を歩き回って写真を探し出した。撮影スタッフが動きについていけないほど、心が動揺している様子だった。

写真をしまい終わると、幾田氏は家のいろいろな場所をカメラで撮り始めた。「なぜ写真に撮るのですか」と聞いた瞬間、幾田氏は泣き崩れてしまった。「もう家に帰ることはできないからですよ。こんな悲しいことはないよね。」私も涙があふれた。外面上は冷静さを保っていても、心の中では家への愛着と気掛かりがあまりにも大きいのだ。私にいったい何ができるのだろう。目の前の幾田氏の姿を見て、同じように心が震え、やるせない思いだった。

引き続いて、墓地に行った。幾田氏は墓前に花を捧げ、涙を浮かべて別れを告げた。「この三年来、一度も墓参りができなかった。これからも出来るかどうか分からないんだよ……。」これが彼にとって最後の帰宅なのだ。その姿を見て、そして誰ひとりいない町を見た。どの家もちゃんとそこにあるのだが、永遠にそこに戻ることができない。

帰る際、私たちの車は「双葉町公民館」の前を通った。線量計の値は今までの最高の数値を示した。3.625マイクロシーベルト。車の外に出た私たちは、すぐに車内に戻るように促された。数秒間しか出られない。最後にカメラのレンズは「原子力正しい理解で豊かなくらし」という標語の上に止まった。この標語はなんとも不釣り合いに目立っていた。車は速度を上げて町を離れていく。窓の外には双葉町の学校や道路、商店が見える。ここが、おじいさん、おばあさんたちの双葉町なのだ。一瞬、まるで彼らが家の前に立って、私たちに手を振り、「さようなら、また会いに来てね!」と言っているように見えた。

帰宅の道がこんなにも難しく、こんなにも長かったとは……。


文/楊景卉
翻訳/金子昭
写真/慈涓