国道45号線の愛

2016年 3月 18日 慈済基金会
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国道45号線は太平洋に面した宮城県仙台市から青森県八戸市までをつなぐ全長五七四キロあまりの東北の海岸道路で、青空、白雲、大海が織りなす日本で最も美しい国道として称賛されている。二〇一一年三月十一日東北沿岸で発生したマグニチュード9.0の大地震は最高40.1メートルに達する大津波を引き起こし、国道45号線、宮城県、岩手県、福島県などの沿海区域に押し寄せたため、甚大な被害を及ぼした。

五年後、東北の海岸道路は変わらずに青空、白雲、紺碧の太平洋と、車窓の風景は何も変わっていないようだった。しかし商店の営業も再開したものの、海水浴とサーフィンで賑わった海岸は津波の襲撃で当時の人波や笑い声を戻すすべがなくなってしまっていた。「東北海岸の風情」は戻らず、取って代わったのが砂ぼこりにまみれた「復興工事中」のプレート、東北の情緒溢れる東北海岸線「JR大船渡線」も津波の被害に遭い、未だに運行回復をしていない。取って代わったのが「復興工事」の赤い布をかけたトラックだった。

この日私たちは大船渡市の岩手県立福祉センターを訪れた。誰もが忙しくてんてこ舞いの時に、機材に問題が発生。日刊新聞の製作に影響を与える面倒なことになってしまった。色々試してみたが、解決の目処もなく、仕方なくボランティアは厚かましくも受付に微かな望みを求めた。その時当番の佐々木陽一さんは、とても親切に事務所から使用できる電源コードを持ってきたり、テストしたり、電話をかけ付近の商店に尋ねたりしたが、最後まで解決することは出来なかった。しかし、外はマイナス1℃の中、我々の心はとても温まった。

大方の日本人のイメージは笑顔で礼儀正しいということだが、いつも少し距離感がある気がする。だから佐々木陽一さんの熱意は不思議に思えた。しかし、多くを尋ねず、その夜は暖かい感動のなか眠りについた。「とっても心に響いたことがあったんです」、ボランティアの口から「感動の物語」を告げられた時、顔を上げると、昨晩私たちの問題解決に付き合ってくれた佐々木陽一さんが目の前にいらっしゃいました。

五年前佐々木さん一家四人は陸前高田市に住んでいました。津波は家を更地に変え、母と弟をさらい、生き残った彼と父親も全てを失っていました。そんな時、台湾からの慈濟基金會が付近の小学校へ物資と見舞金の配布に訪れたのです。彼は私たちに「あの時は本当にありがとうございました。私はずっと慈濟基金會の名を覚えていました。いつも台湾と慈濟に恩返しをしたいと思っていました。去年あなた方がここで祈福会を開催した時、日本にいるあなた達を知ってから、ずっと恩返しをしたい、慈濟にお礼がしたい、と機会を探していました。だから昨日あなた達を見かけた時、できる限りお手伝いしたいと思ったのです。あの時、私たちの人生に大きな助力をしてくれたあなた方に感謝しながらも、今まで何も返すことができなかったのですから。」と話された。彼の話を聞き、五年前の恩を返すために全力を尽くしてくれたことに感動の涙が流れた。

彼の父、佐々木善仁さんは陸前高田市の広田小学校の前任の校長で、家から福祉センターまで車で一時間かかるにも関わらず、私達のインタビューの依頼に何も言わず車で来てくれました。さらに私たちを連れて各々の撮影ポイントを廻ってくれました。一時間半が過ぎ、車中、撮影まで時間がある時など、彼は幾度も私たちに「ありがとう。本当にありがとうございます。やっとお礼ができます。」と言ってくれました。その日、彼は私たちを現在の家に招き、丁寧に引き出しの奥から、5年前慈濟が見舞金に渡した封筒を取出して来て話しをしました。「当時の状況のなか、見舞金を受取り、本当に大きな助けになった。私はいつまでもこの大きな助けを忘れ無いためにも封筒を取っておいた。私が台湾に行けるかどうか分からないが、もし行けるならみんなに伝えたい。私はずっとお礼をする機会を待っています。この道はとても大変だが、皆さんのおかげです。皆さんありがとう。」彼は封筒を触りながら話し続けた。「この見舞金の封筒のデザインからだけでもあなた方の気持ちを感じ取れました。」佐々木前校長は感動と感謝を、力を込めて伝えてくれた。私は日本語が分からないが、その時に見た彼の真摯な表情に感動し、涙を浮かべながらボランティアの通訳を聞いていました。

心の内から発する真の感動と感謝は言葉が通じなくとも感じ取ることが出来る。五年前陸前高田の広田小学校に在職していた佐々木前校長は、その年の三月三十一日に定年を迎えた。311大地震は彼の退職の数日前に発生し、その時、彼は児童や避難した地元の方を慰めるのに忙殺された。「その時奥さんやお子さんを心配しませんでしたか?」そう尋ねると、「私はあの学校の校長で、学校の子供を最優先にしなければならない、これが私の責任であり妻もきっと理解してくれていた。」と語られた。佐々木前校長は表情にいつも孤独と寂しさを漂わせている。「妻によく言っていたのだが、仕事に専念させてくれたら、定年後は世界旅行に連れて行くよ、と。だが、定年前の地震は私の人生で最大の遺恨となった。」と言われた。
国道45号線、この美しい東北の海岸道路が結ぶ幾つもの町は311大地震により大きな被害を受けた。しかし、五年後、東北の地元の人たちは心に残していてくれた。「あの時、誰が愛をもたらしてくれたのか。どうやって恩返しをしたらいいのか。」と。インタビューに出発する前、私は五年が過ぎ、地元の人たちはおそらく忘れてしまっているだろうと思っていた。東北の地に降りた時、それは間違いだと気付いた。例えば、どうやって大船渡市に行くべきか悩んだ時、東松島市の菅原さんは「私が案内します」と言われ、東松島市から大船渡市まで車で往復六時間あまり、七十八歳の彼が連れて行ってくれた。私たちが彼にお礼を伝えた時、「十分な事は出来無いが、これくらいの事はやらせてもらうよ」と言った。

ひとつひとつ、愛は繋がっていました。ちょっと無口でいつも冷静沈着な彼らも、実は心に多くの愛を持ち、口には出さずとも、心の愛を行動に移してくれたことに感動しました。彼等なりの温かいやり方を私たちに教えてくれました。東北の皆さん、本当にありがとうございました。

文/楊景卉
訳/佐藤仁