法師さま、お写真を撮ってもいいですか?

2009年 11月 01日 慈済基金会
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「法師さま、お写真を撮ってもいいですか?」
ぱちぱちとシャッターの音が響いています。法師さまの前に現われたのは一人のかしこそうな、照れたような顔をした男の子でした。

それは二〇〇〇年のことでした。前の年に台湾中部大地震で倒壊した学校の再建工事の状況を視察するため、法師さまは南投県(台湾の中部)の鹿谷小学校に来られたのです。当時小学一年生だった蘇博翊君は、法師さまに会うため、お母さんと学校に来ました。博翊君は持っていた小型カメラのシャッターを押し続けていました。

「何枚撮ったの? うまく撮れましたか?」との法師さまのご質問に、「たくさん撮りましたから、きっとよく撮れたのもあると思います」と明るく返事をしました。

それから十年の歳月が経ちました。今、博翊君は十七歳で、もう専門学校の二年生になっていました。

「その時、法師さまは僕の手をとって、鹿谷小学校の視察に同行させて下さいました」と言った後、十年前のあの日のことを話してくれました。

一九九九年九月二十一日の真夜中、僕は一階にいた父の叫び声で目が覚めました。ゴロゴロという音がして、天井が激しく揺れているように感じました。突然、部屋の灯りも消えました。
この突然にやって来た大地震にみんなとても驚きました。お母さんは僕を抱きしめて、「大丈夫よ。一緒に念仏を唱えましょう」と優しく声をかけてくれました。

ようやく揺れが小さくなり、お父さんは懐中電灯を照らしながら二階に上がってきました。すると、いたるところに割れたガラスが散らばり、たんすも倒れていました。

僕たちは驚いてどうしてよいかわかりませんでしたが、お父さんは冷静で落ち着いているように見えました。

お父さんが炒り葉機のガス栓が閉まっているかどうかを確認しようと、機械に寄りかかった途端、またもや大きな余震が来ました。重さ何トンもある機械が横倒しになってしまい、お父さんの手が押しつぶされて血だらけになりましたが、幸い命に別状はありませんでした。

翌朝、大勢のブルーのシャツに白いズボン姿の慈済ボランティアの人たちが鹿谷の山にやって来ました。被災した人々を優しく慰め、美味しい食べ物を配ってくれました。これが慈済との出会いのきっかけでした。このご縁の働きで慈済の道を歩んできました。

法師さまの手は
お父さんやお母さんのように

倒壊した学校を再建するため、慈済ボランティアの方々は募金に尽くして下さいました。お茶の売り場にはバザーのコーナーが設けられました。

僕はお母さんと一緒に手伝いに行きました。バザーの終了時間間際に豆干(干した豆腐)がまだ残っていたので、「僕が外へ持っていって売ってもいいですか?」と師姑(年配女性の慈済ボランティアへの呼称)に聞きました。

「学校を再建するために豆干を買って頂けませんか?」と人々に呼びかけました。学校再建の基金を募金していると聞くと、みなはわれ先にと豆干を買ってくれたので、またたく間に完売しました。当時七歳だった僕に、少しでも法師さまのお手伝いができたことはとても嬉しかったです。

ある日の朝、お母さんに起こされて、台中(台湾中部の町)の慈済支部へ法師さまにお会いしに行くことになりました。僕は嬉しくてわくわくしながら、法師さまにお目にかかるのを今か今かと待っていました。ようやく僕たちの番になり、緊張ぎみに法師さまの前に立ちました。心の中から何とも言えない感動と尊敬の念がこみ上げてきました。

法師さまは僕に話しかけながら、僕の手に数珠の腕輪をはめて下さいました。手を握られた瞬間、僕は法師さまの手はお母さんの手のように柔らかで温かく、そしてまたお父さんのように力強い手だと感じました。この時の感覚は今でも鮮明に心に刻まれています。

美しい校庭が向上心をかきたてる
九月、新学期が始まりました。僕たちはむし暑い仮設教室の中で勉強をしていました。休み時間になると、みなは一斉に校庭に走り出ました。半分倒壊した鹿谷小学校の校舎は、慈済の援助により再建されることになりました。このため広かった校庭は小さくなり、バスケットボールコートしか使えなくなりました。工事の砂ぼこりが舞う中を、僕たちは工事現場の塀を眺めながら、「今度できあがる教室はきっときれいだと思う」などとしゃべっていました。

「もし、新しい校舎がお城のようになったら、私はお姫さまになれるわ」

「じゃあ僕が王子さまだ。お姫様さまはお嫁さんになってくれる?」などと口々に言い合ったものです。

二○○一年六月、立派な新校舎が完成しました。みなはわくわくしながら見学しました。

建物の塀は灰色と白の小石を混ぜたコンクリートでできたものでした。太陽の光につやつやと輝いてとてもきれいでした。教室の天井は高く、広々としているので涼しく感じられました。休み時間に僕たちはよく教室の隅に設けられた図書コーナーに集まりました。おしゃべりをしたり、勉強をしたりして、みなに愛用されていた場所でした。

教室をはじめ、校舎の建物に使われた石やタイルなど、好奇心に溢れた僕たちはすみからすみまで興味津々でした。また、面白いところを発見すると、秘密の遊び場として独占しようとしました。このように新校舎は僕たちに幸福をもたらしてくれました。

慈済に参加して我家が変わる
新校舎が完成した時、両親は慈済のボランティア養成訓練に参加しました。昼間の仕事で疲れているにもかかわらず、ボランティアのユニホームを着て活動に励んでいました。僕も両親の後について子供の勉強クラスに出たり、年末の祝福会などを手伝ったり、そして慈済の貸切列車に乗って花蓮へ行くこともありました。旧暦のお正月には、よく家族と一緒に静思精舎へ行きました。僕はいつもわくわくして夜が明けるのが待ち遠しくてなりませんでした。

両親は本業の茶畑の仕事で相変わらず忙しいかたわら、地域で訪問ケアをしたりしていました。慈済ボランティアになってからは、ちょっと変わったことがありました。それはいざという時に、前とは違って冷静に、困難に立ち向かうことができるようになったことです。またお母さんは、「静思語」を読んではその感動を僕たちと分ち合ってくれました。お父さんは「法師さまのお諭しで、今まで身についていた悪い習慣、とくにタバコをやめることができた。法師さまのおかげです」と心から感謝していました。



その後、十年の歳月が流れました。当時小学生だった僕は、料理専門学校の学生となりました。法師さまが下さった数珠はいつも身につけています。そしてお写真を撮らせていただいた時に触れた法師さまの暖かさと、感動をいつも思い出しています。

鹿谷小学校は僕たちに夢と希望を与えてくれただけではなく、大地震が残した忘れられない思い出でもあったのです。法師さまをはじめ、無数の心ある方々に感謝の気持ちでいっぱいです。将来できることなら法師さまの後について、一人でも多くの人の未来に希望をもたらすような人間になりたい、と僕は心からそう願っています。

慈済月刊五一三期より
文・蘇博翊/訳・心嫈/写真提供・蘇瑞芳、林美君