再生したよき夫婦―朱徳雄と陳秀鸞

2011年 5月 13日 陳美珠
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貧しい幼少時代を過ごし
人生の大半を
金を稼ぐために費やしてきた
無から有へ
そして「欲」という一念の差で
有から再び無へと転落した
あらゆる辛酸を嘗めつくして
成した財が泡となって消えた時
夫婦二人が築きあげた家庭も
形を留めないほどに崩れ去った
こんな夫婦の後半生が
環境保全活動の縁で変わろうとは
誰が想像できただろう


明け方の高雄は涼しく澄んだ空気に満ちていた。慈済の標示が下がった胡椒樹の脇の門をくぐると、そこは岡山柳橋リサイクルセンターである。廃棄されたマットレスで生垣をこしらえた、風通しのよいリサイクル広場がある。特別に設計したものでもない。全てが朱徳雄一人のアイデアであり、彼の傑作である。皆は彼のことを「朱パパ」と呼んでいる。

軍人出身の朱徳雄は今年七十歳。曲がったことの嫌いな正直一徹者でメリハリのある力強い話し方をする。何年か前、妻の陳秀鸞が慈済ボランティアに参加したいと言ったとき、朱徳雄は猛反対した。手術後間もない妻の体を心配しただけではなく、ゴミ拾いまでしなければ生活が成り立たないのではないかと人に誤解されないかと恐れたのだ。

ところが今では妻以上に熱心に、朱徳雄は毎日の時間をリサイクルセンターで過ごすようになった。どうしてそうなったのか、そう至るまでの心の変化を語るには、今から数十年もの昔に戻らなければならないが……。


多年の努力を無にした
欲の一念


台南の田舎町、玉井に生まれた朱徳雄は小さい時から家が貧しかった。中学を出るとすぐに軍の学校に入り、その後、高雄県岡山の空軍基地に長く服役していた。

二十四歳の時、朱徳雄は同郷の陳秀鸞と結婚しその後、二男二女に恵まれた。毎日が子供の世話で明け暮れる陳秀鸞はアルバイトする時間もとれず、生活の支えは全て夫、朱徳雄が軍隊から支給される五百元の給料に頼るしかなかった。経済的圧力の重い朱徳雄は、昼間は軍隊に出勤し、夜、家に戻れば子供の世話を手伝い、休日になると建設現場でアルバイトした。一年中休む時がないといっても過言ではなかった。

子供が少し大きくなると、妻の陳秀鸞も子供たちを姑に預けて、農家を手伝うようになった。毎日朝から晩まで働き続け、家に帰って夕食を済ますと、農作物を収穫しに再び出かけるのだった。たとえそれが一日十元の安い報酬であっても厭わずにとにかく働いた。

「生まれた時から貧乏だったので、真面目に働き倹約することには慣れていました。私にとって、どれだけ働いてどれだけの金になるのかは問題ではなく、自分の力で得た金の一銭までも大切にすることでした」と陳秀鸞は言った。その後、ネジ工場に職を見つけやっと収入が落ち着いた。

考えた末、借家住まいにピリオッドを打ち、夫婦二人で無理してローンで家を買った。自分の家を持った喜びの一方、その後の返済に追われる陳秀鸞の毎日は、ちょうど一本のローソクを両端から火をつけているようで、仕事を終えて夜遅く家に戻った時は、体力は燃え尽きていた。もちろん家族と過ごす時間も限られたものになった。

「ほかの軍人の奥さん方がきれいな着物で悠々と毎日を過ごしているのに、どうして私だけがこんな毎日を送らなければならないの?」。他人と比べ、引け目が恨みに変わって、絶えず夫婦で争い合うようになった。子供たちも母親を見ると、ネズミが猫に出会ったように遠くから避けるようになった。そして親子の関係がだんだんと疎遠になっていった。

朱徳雄が退役した一九七九年、台湾の株式市場は上昇の一途にあった。退役したばかりの朱徳雄は、親戚の勧めで株を買うようになった。始めは投資額も利益も少額だったが、ブームにつられてだんだん膨れ上がり、自分の金はおろか、妻が蓄えた貯金までつぎ込んだ。そしてバブルがはじけた時、全てが泡になって消えてしまったのだ。

妻に発覚した時はすでに挽回の余地もなく、夫婦の争いはさらに激化した。そしてある日、陳秀鸞がバスルームに入った時のことだった。水音の聞こえない長時間の風呂に、朱徳雄は悪い予感を覚え、強くノックしたが返事がないので、ドアを蹴破った。そこで見たのは、両手でタオルを首に巻きつけ、それを一生懸命ひねろうとしている陳秀鸞だった。

身を削る思いで作った貯えも消え、子供たちの心も遠く離れ、「永年の苦労は一体何のためだったのか……」と陳秀鸞は全てに絶望した。

泣き叫び、慌てふためき、懺悔の末に朱徳雄は再び妻の心を得たが、騒ぎを聞きつけた近隣の慈済ボランティアも、心配してお見舞いに来た。

「一九九三年に私は慈済の会員になりました。この縁が私の後の半生に大きな影響を及ぼすとは、夢にも思いませんでした」。人生のどん底を見た陳秀鸞が、再び頭をもたげて空を見上げる勇気を与えたのは、その人たちだったのだと彼女は言いたかったのではないだろうか。


心を開き、腰をかがめて
喜びを集めよう

慈済ボランティアの黄月華は、立ち直った陳秀鸞をよく付近のリサイクルセンターに連れて行った。そこで腰を曲げてリサイクルされた物を整理する度に陳秀鸞は感動するのだった。「世界にいる不幸な人々に比べて、自分は人のために何かができる。それだけで十分幸福なのだ」と悟るようになった。

倹約家の陳秀鸞は、センターに集められた品々にほとんど新品のような衣類やバッグ、アクセサリー、まだ使えそうな家具や電気用品が多いのを見て、感慨無量になるのだった。人の欲の深さに驚くだけではなく、資源浪費の切実さを感じるのだった。

陳秀鸞は、リサイクルセンターでの奉仕に喜びを感じていた。その喜びを分かち合いたいと夫に参加を勧めるが、夫は一向にその気持ちにならないのだ。彼はただリサイクルをゴミ拾いとなんら変わらないと思っているからだ。そしてそれを人前ですることは恥ずかしいと感じていた。

しかしその反面、それを喜んでやっている妻の笑顔に、そして一日一日が楽しそうで、別人のように変わっていく妻の変化に好奇心を覚えるのだった。ある日、黄月華の計らいで朱徳雄は花蓮の静思静舎を訪れる機会を得た。初めて多くの信者と行動を共にし、仏経を唱える中で行われる敬虔な催しは、朱徳雄を深く感動させた。心が満たされ、落ち着き、地に足がついた実感が湧いてくるのだった。

その帰途、静かに揺れ動く汽車の中で朱徳雄は頂いた『静思語』(證厳上人のお言葉集)を読んだ。気持ちが揺れ動く中で、行間を追う彼の目がふと止まった。「この世の中で待てないことが二つある。一つは善事の実行、もう一つは親孝行」。この言葉を心の中で何度も繰り返しているうちに、目の前の字がぼやけ、溢れる涙を抑えることができなかった。深い感動を覚えずにはいられなかった。

家に戻ってからの朱徳雄も、黄月華についてリサイクルに積極的に参加するようになり、生活保護家庭の訪問や高齢者へのケア、災害時の援助活動と広範囲に亙る奉仕に励んだ。一九九九年に台湾中部大地震が発生した後、慈済の学校再建事業である「希望工程」にも加わった。

ボランティアに参加するうちに、朱徳雄は「慈済四神湯(スーシェンタン)」(足るを知り、感謝の気持ちを持ち、人の気持ちになって包容力があることを四神湯という台湾の薬膳スープに譬えている)を心がけて飲んでいるので、声を荒げて妻をどやす習慣も改まってきた。


大願を持って尽くせば
福が来る

人に尽くすのも、親に孝行するのもタイミングがあることに気がついた朱徳雄は、年老いた母親を説き伏せて同居することに成功した。毎日同じ屋根の下で母親と暮らし、起居を世話し、また、母親をボランティア活動に誘った。母親は、息子夫婦がセンターから持って返る古新聞を折ったり片付けたりして手伝うようになった。そして慈済の信念と志を身を以って感じた母親は、八十九で大往生を遂げる前に、自分の遺産を慈済に献金するようにと息子夫婦に言付けた。母の遺言が果たされた時の朱徳雄の感動は大きかった。

陳秀鸞の人生の前半は、生きていくために金を追いかけることだけで忙しかったといってもよかった。無から有になり、そして有から無に返った波乱に満ちた人生の中で、いつも変わらずに陳秀鸞が持ち続けた希望は、慈済基金会の「名誉理事」になることだった。

二〇〇一年、二十三年間働いた工場が中国に移転した時に、陳秀鸞は退職した。そしてその時の退職金と、朱徳雄が頼母子講を落として、百万元を揃えて寄付し、慈済基金会の「名誉理事」になった。陳秀鸞の胸に秘められていた永年の夢を知る夫がその願いを叶えさせてあげたのだ。

その時、娘の朱億瑄は大変驚いた。贅沢だといって外食もしない倹約家の父が、どうしてそんな大金を献金する気になったのかと驚いたのだ。しかし「慈済に参加して父は新しい人生を見つけたようです。これまでとは違った道標を発見したようです」。娘は父の変化に気づいていたのだ。

そして「世界には不幸な方がたくさんいる。その中でまだ人を助けられるのは本当に恵まれた人なのだ」と陳秀鸞は言った。

朱徳雄は多芸多才で、仕事熱心で責任感が強い。朴訥で口数の少ない人柄ながら、心遣いは細かく、器用な両手を持っていた。手話に興味を持った朱徳雄は、毎週火曜の夜に手話ボランティア幹部の張秋然と地域の活動センターで手話で歌う慈済の歌を教えるようになった。もっと多くの人が手の表情を使って美しいメロディーを奏でられるように願ったからだ。

二〇〇二年、岡山柳橋リサイクルセンターが成立した。当時荒れ果てていた八百六十坪の用地を前にして、園芸に興味のある朱徳雄の頭には創作のインスピレーションが湧いた。

センターの中に小さな東屋をこさえ、花崗岩の石畳をはめこみ、その上に慈済の標語である「八大脚印」の文字を刻み入れた。そして「大愛」の二文字は古いゴルフボールでかたどった。また、センターのいたるところに中国の水墨画が施されている。指がやや変形した荒れた手にボールペンをとり、空き缶に絵を描く。風に揺れる袈裟の裾とリボンを細かい線で表現した小坊主さんや飛天は一枚一枚が本当に生きているように見えた。

これらは朱徳雄の代表作であり、また、柳橋リサイクルセンターの特色である。ボランティアも皆それを大切にし、いつの間にかセンターはよき教育の場になった。そして、国内外から学校や団体が見学に来るようになり、資源をリサイクルする重要性を示すよき模範となった。





「お父さんとお母さん、どこへ行ったのかしら」。いつもと同じように、夜の明けた早朝、朱徳雄の娘の淑珍が聞く。「今日はリサイクルデーよ」。姉の億瑄がそう答えた。姉にリサイクル回収日であると指摘され、淑珍は慌てて夫の田光中とセンターに急いだ。道すがら、車いっぱいに回収物を積んだ二番目の姉の夫の車に出会う。

今、朱徳雄は一家をあげて環境保全ボランティアに参加している。家族はよりかたく結びつき、それぞれ夫婦の仲も円満である。



訳・如薇/撮影・許志成
(慈済月刊五二八期より)