好き発願 二十年余計に生き長らえて―蘇俊生、許錦釵夫婦

2011年 6月 16日 慈済基金会
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「一日の師と仰げば一生の親。法師さまは私の『父』です。父から言いつけられたことを未だやり遂げていないのに、どうして帰れましょう(注・帰るとは死ぬこと)」。

余命いくばくもないことを知り、許錦釵さんは発願して環境保全の奉仕に精を出している。すると、長年の持病が少しずつよくなってきた。夫の蘇俊生さんも八十四歳になるが、二人が環境保全の奉仕に尽くす精力的な姿は、若い者はとうてい及ばない。

「段ボールがあるの」と白髪の錦釵さんは電話を切った後、急いではきくたびれたサンダルをはいて、町角にある電気用品店へ向かった。夫の俊生さんは客間で念仏のテープをかけ、心の中で念仏を唱えながら、低い小さな椅子に座って回収してきた新聞紙を折りたたんでいた。彼の手によって整理された古新聞は、まるで刷り上ったばかりの新聞紙のように整然としている。

しばらくして、背の低い錦釵さんが胸の高さもある大きな段ボールをベビーカーにのせて帰ってきた。俊生さんはすぐ立ち上がって手伝った。

「電気屋さんから電話があったから、すぐ取りに行ってきたの。先方にも都合がいいし、遅く行くと人に取られてしまいますからね」と錦釵さんは笑顔で言った。彼女の毎日の仕事は「回収」をすることだ。段ボールが逃げないように。

絶望の時に救われた
約二十年前、台南市立文化センターで、錦釵さんは「幸福の人生」と題する慈済主催の講演を聞いていた。講師の證厳法師は、環境保全の重要性について大衆に向け力説していた。

「法師さまはその時、もし自然環境を大事にしなければ、将来山崩れや地割れが起こると諭されました」。彼女は当時、已に慈済に参加していたが、法師のおっしゃることが少し大袈裟に感じられた。しかしその後、台湾中部大地震や二〇〇九年の台風八号が起こり、大災害に遭ったのを見て、初めて法師の智慧と鋭い先見の明を知った。

「山崩れや地割れ」は初めあまり信じなかったが、身体が弱っていた錦釵さんは諸行無常を感じていた。それが彼女が早期に資源回収活動に全力投入するきっかけとなった。

二十数年前に末っ子が急死した。錦釵さんは悲痛のあまり、食事も喉に通らず、眠れない日々を過ごした。しばらくして重い胃腸の病気にかかり、医者の診断を受け、毎日ほうれん草のお粥を食べた。看護士に朝晩家に来てもらい、点滴をして栄養を補給した。

あらゆる手段を講じて栄養を補給したが、一向によくならなかった。ある日呼吸が苦しくなり、自分の命が終わりに近づいているのを感じた。

「一日師と仰げば一生の親。法師さまは私の父も同然です。父から言いつけられたことを未だやり遂げていないのに、どうして天に帰れましょう」。錦釵さんは法師が諭された環境保全活動に尽くすと願かけした。気力を振り絞って、資源を回収しようと近所の路地や商店街に出かけた。ある一軒の食料品店の前に空の段ボール箱があったのを見て、まず缶詰を一個買い、店員に「この段ボール箱は……」と尋ねた。

店員が「持っていっていいよ」と言った。店にとっては、空になったダンボール箱は幅を取る「邪魔なゴミ」だが、このゴミを喜んで片付ける人がいることを知っていた。

錦釵さんは両手に一つずつ段ボール箱を提げて家に戻った。家までは数百メートルだが、体力が衰えている錦釵さんは、途中五十回以上も休んだ。家に辿りついた時は咳きこみ、両手が震えて止まらなかった。俊生さんは急いで看護士を呼んで注射を打ってもらった。

「環境保全の活動を続けます」と錦釵さんは夫に自分の決心を明かした。俊生さんは妻の虚弱な身体を案じ、段ボール箱を折りたたんだ後、午後にまた回収に出てはいけないと固く禁じた。

翌日、錦釵さんが隣りに住む奥さんに環境保全活動のことを話したら、大変賛同してくれ、回収物を家まで持ってきてくれた。そのほか、不用になったベビーカーを回収に使ってと言ってくれた。

錦釵さんのベビーカーは、たちまち小さなトラックに変貌した。心の中は喜びでいっぱいになり、毎日ベビーカーを押して歩くのが適度な運動となって食欲も増し、体力もだんだんついてきた。「もう二度とあの泥のようなお粥を食べなくてすむ」と笑って言う。


「会社の社長さんが ゴミ拾いだなんて」
「あの当時は資源ゴミをたくさん集めましたよ」と錦釵さんは嬉しそうに語る。回収物が多いので、遠い所は会社のトラックを利用し夫婦で出かけた。時には会社の社員も一緒に仕事をした。

俊生さんは若い頃に小さな工場を経営していた。子供たちは皆成長し、夫婦は優雅に外国旅行を楽しんでいた。夫婦が「ゴミ拾い」をしだしてから、人は不審に思った。銀行勤めの娘の同僚も、お金に困っているわけでもないのにどうして老いた父母がゴミ拾いをするのかといぶかった。

「最初は二人の銀行員がこっそり私たちを見にきましたよ。その中に四人になった」と俊生さんは笑って言う。ある日出会いがしらにばったり会ったので、「私たちは環境保全の仕事をしているのです」と言った。

環境保全活動のため、俊生さんは車庫を回収物の倉庫にし、自家用車は外に出して風や日光にさらした。錦釵さんにしてみれば家は「黄金の屋敷」である。何しろゴミが黄金に変わるのだから。

俊生さんは、花蓮や大林の慈済病院へボランティア奉仕に行かない日は、雨の日も風の日も、毎朝四時頃から海辺へ廃棄物の回収に行く。妻の錦釵さんが一緒ではないので、余計時間をかけて回収の仕事をする。

海からの風を受けて散歩をするのが好きな俊生さんにとって、労動は運動のかわり。海辺に散らかっているビールの空瓶はかさばる上に重いので、回収に使う労力と回収価格とは引き合わないが、環境保全のために海辺のゴミ拾いを続けている。

白髪に憂いなく 純粋に布施する
錦釵さんは六十を少し過ぎた頃、愛しい末っ子を失った。彼女は自分の命も終りに近いと感じた。親が子を送る悲しみは大きく、台湾のあらゆる寺廟を訪れて、布施をし平安を祈った。俊生さんは妻の悲しみを少しでも和らげてやりたいと、車を運転して寺廟に連れて行ってあげた。

台南のある寺で、錦釵さんは一人の参拝者がベビーシッターをして稼いだ金を「慈済」に献金していると話すのを聞いた。錦釵さんはとても感動し、自分も慈済の会員になることにした。

「慈済に入会したのだから、これからは四方八方走り回ってはいけませんよ」と俊生さんは妻を諭した。

「参拝した寺や廟に行って、仏さまに別れを告げました。私は神仏にこれから先は一途に慈済の證厳法師さまについて参りますと報告しました」。錦釵さんは本当に純朴な良き女性である。

慈済への献金を集めようと思うと話すと、夫は「仏教への布施は見境なく集めてはならない」と反対した。もし何かの間違いで人の献金をなくしたり、不注意で私用に使ったりしたら、重大な因果応報の責任を負わねばならないと、心配していた。

夫のこのような気配りに対し、錦釵さんは慎重に注意を払って献金を処理していた。もし集めた献金が足りないときにはすぐに自分の懐から足し、多い場合は夜通しかかっても原因を徹底的に探す。

配慮ある夫 慎重な奉仕
その後、俊生さんも妻の後について慈済に参加するようになった。さまざまな慈済の活動に出る妻を支持し、自分も慈済の「保全組」(慈済の男性ボランティア団体。現在の慈誠隊に相当)のメンバーを務めた。慈済功徳会の創設期は證厳法師の護衛として南部への行脚にお供した。

俊生さんはまた、二カ月毎に花蓮の慈済病院へボランティア奉仕に行く。南部で大林慈済病院が起工した時、七十歳を越えていた俊生さんは工事の手伝いができなかった。病院が完成したら必ずボランティアとして奉仕に行くと誓い、あれから十年来毎月大林病院にボランティアとして奉仕している。

俊生さんは四歳の時に父をなくした。父の三番目の妻だった母は、俊生さんが幼い頃から、「お前はお父さんがいないから、働く時は常に誰よりも先に立って仕事をするのだよ」と戒めた。母の教えが勤勉で何事にも真剣に取り組む気質を養ったのだった。兵役中、飛行機のメンテナンスをしていた俊生さんは、結婚した後、軍での経験を活かして電話やコンピューター関連の事業を起こし、厳しい品質管理の下で精密機器を生産した。資源の回収をする時も同じで、正確に厳格に資源ゴミを整理整頓している。

例えば、空瓶を整理する時は、一袋五十五本としている。運ぶ人のことを考えて重過ぎないようにしているのだ。そのほかどんな些細なことでも、常に安全を考慮して対処する。

長男も毎日家に来て回収物の整理を手伝っている。息子と錦釵さんの仕事の品質は、厳格に言えばまだまだ俊生さんの求める基準には達していない。結局、俊生さんは二人のした仕事を黙って始めからやり直すのだった。

俊生さんの家は一階から三階まで、客間、寝室、仏間など全ての部屋にテープレコーダーが一台ずつ置いてあり、一日中念仏を唱える声が聞こえてくる。

「もし夜中に往生した時は念仏の伴奏がある」とユーモアたっぷりに話す錦釵さんは、二十年以上も余計に生き長らえたので「死」については達観している。 「世界中を旅行しました。アメリカ、日本、カナダ……。今はただ善を尽すだけです」と錦釵さんは笑って言う。

「そうだとも。いくらその時景色が美しくても、いつまでも目に焼きついているものではないからね」と俊生さんが相槌を打つ。「かつてあらゆる福という福を享受しました。今はただ法師さまの教えに従い、損得にこだわらず、人と比較せず、一途にやればよいのです」。

(慈済月刊五二九期より)

◎文・葉文鶯/訳・重安/撮影・顏霖沼