世紀の大洪水を国民の団結で乗り越える

2012年 4月 06日 慈済基金会
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大洪水が路地を覆い尽くし、村と村の境界が失われ、タイは千を越える小島の国と化した。愛の心に国境はない。被災した人も、そうでない人も、水をくんだり、砂をつかんで防水袋に入れる。全国民と各国の救援団体は協力して大洪水と戦い、一日も早くこの災難から立ち上がろうと努力している。

タイの首都バンコクの真昼、灼熱の太陽の下、陸軍の兵士たちがシャベルで土砂をすくい袋に入れている。マボンルさんは十キロほどの砂袋を一つずつ作っていく。「砂袋が不足してなかなか買えない。その上、北部の水の勢いが急速に増しているので、チャオプラヤー川の両端の堤防を強化しなければならない。二十日以内に十五万の砂袋が必要だ」

この度の水災に際しタイ政府は毎日五万人の兵士を投入して救災に当たっている。マボンルさんの両目には黒いくまができている。「我々は毎日夜の十一時まで働き、仮眠を取って夜中の二時にまた起きて工事を急いでいる」。彼は側で働いている人たちを指して、「彼らはみな軍人の家族だ。軍人は休暇がなく、家族の者まで支援に来ている」と語った。

「被災地でない地区に住んでいる軍人は全て召集されて救助に来ている。ここで砂を掘っている我々はまだよいが、他の大勢の軍人は一日中汚い水の中で物資や民衆やゴミを運び、環境の整理をしている」。マボンルさんも同じく北部の辺境から召集されて来た。一体いつまでここに駐屯するのか、考える余裕すらない。「これは大変大きな国難であり、国民の一人ひとりに、団結して克服すべき責任がある」と語る。

軍だけでなく、民間から寄付された物資を積んだ車が一台また一台と被災地に入ってくる。日用品や米、食糧、防寒着と、ありとあらゆる物資がある。仏教国タイの国民は、無私の奉仕精神を重んじる民族で、性格は温厚である。災難が襲ってきたら、国民は善の力を発揮して助け合い、難関を乗り越えていく。

災害休暇返上で
ボランティア活動をする大学生

タイ社会開発・人間安全保障省のパニタ・カムブ局長は、この度の救難支援の責任者である。彼女は「この災難でタイ国民の奉仕精神を知ることができた。ことに若い世代の人たちのボランティアが最も多かった」と指摘する。

パニタ・カムブさんによると、水災で観光業が麻痺状態に陥ったが、タクシードライバーの営業には大きな影響はなかったと言う。「期間中、若者たちのボランティアが一団ずつ被災地の収容センターや物資センター、市政府の関係部門に行ったり、砂袋作り支援や運搬に行くのにタクシーに乗ってくれたそうです」

バンコク市内の避難所の一つであるトゥラキットバンディット大学の体育館には、二十人以上の紫色のシャツを着たボランティアが忙しく働いていた。清掃している者、救助物資を仕分けする者、また楽器を演奏して被災者を慰問している者もいた。彼らは皆トゥラキットバンディット大学の学生である。

同大のサマコセス校長は、大洪水が一向に退かないので、授業再開の日を十月二十二日から十一月二十一日まで延期したと説明する。

被災地の各学校は皆こうした苦境にある。また、将来授業を再開した後、どうやって授業の遅れを取り戻すかも難題の一つである。しかし今なすべきことは、家の中でじっとしているのではなく、被災地で救援すること。学生たちが次々に志願してボランティア活動に参加していった。

「洪水が発生した時、学生たちは七万個の砂袋をつくった。その上洪水のひどい被災地へ行って船を引いたり、お年寄りの避難を手助けした」。中国の広西民族大学から交換留学生としてタイに来ている李娟さんは、ある病院の食堂で奉仕している。毎朝野菜を洗ったり切ったりして、十時頃には四百人分の弁当をつくり上げ、クラスメートと一緒に小舟を漕いで配りに出かける。普段料理をしないのだろう、包丁を持つ手もぎこちない。「こんな緊急事態では、私たちには小さな力でも必要です」

みなが家族のように助け合い
信頼し合う

ロッブリー県は二年連続で重度の被災地に認定された。プロムレト県長は言う。「二〇一〇年七月の雨季、タイは百年来の大洪水に遭い、二〇一一年の雨季は前年の災害規模を超え、三百年来の最悪の水害となりました。聞くところによれば、以後ますますひどくなるといいます」

ロッブリー県のマハソン町の第四村には百四十世帯、約三百人の住民が住んでいる。ほとんどの者は多かれ少なかれ、お互い血縁関係にある。「長年家と家のいざこざや政治主張の相違で、各家の関係が悪かったのです」と同村のカノパーン村長は、外からやって来た私たちに対しても隠すことなく、村の事情を話した。しかしこうした対立はこの度の大洪水ですっかり洗い流されてしまった。

村長は看護士で、市の中心にある病院に勤務している。昨年の水災の時、故郷を離れ病院の近くに引越して来た。通勤も便利で、市の中心地区は水害に遇っていなかった。「洪水が去った後、私は台湾にある慈済を訪ねました。そこで慈済の救済方式を知りました。この団体は口であれこれ指示するのでなく、実際に救援物資を携え、医療団体が被災地へ赴き被災者を助け、一緒に難関を乗り越えているのです」

村長は慈済を知って自らを反省した。「私は村長であり、また人を助ける看護士でもある。大洪水が来たのに、自分勝手でよいでしょうか」。今年の洪水は昨年より厳しい。彼女は故郷を守ることを決心した。病院の院長もその決意に賛同し支持してくれ、と彼女が現地で被災者の支援に当たることを許可し、さらに一艘のモーターボートを提供し、病人を乗せて病院へ行けるようにしてくれた。

カノパーン村長は毎日自分で慢性患者の家に薬を届ける。水災で皮膚病を患ったり風邪で熱発した村民を緊急に病院へ連れて行く。「次第に村民は自発的に団結し、船を漕げる者は船頭をつとめ、大工は毎日家々を回って修理をしている。女性たちは協力して炊事の仕事を受けもつ。みんなが金や力を出し合って助けるので、無一物になった被災者も一時的な経済問題に対処できる」

別の村が洪水で困っている最中、カノパーン村長の村は毎日笑い声と歌声が絶えない。同じように水災に遇っても彼らは愛があり、助け合っているからだ。

温かい食事がいつもある

近隣の村長サワイさんはカノパーンさんの村が水害に対して団結し、互いに助け合っているのに共鳴した。今年大洪水が襲ってきた時、彼女の村も早速行動を起こした。十数名の女性が炊事道具を持って山の方に行き、炊き出しの拠点を設立した。

毎日炊き出しの拠点に集る女性のほとんどが被災者である。「幸いにして、私たちは高床式の家に住んでいるので普段どおりの生活ができます」とサワイさんは言う。彼女が一番恐れていることは、毎日炊き出し場から帰宅する時、道が暗く、ワニが出るかもしれないことだった。「船に乗って帰る時は、力強くオールで水面を打って進みます。ワニを追い払うためにね」

九月の中旬に入ると洪水の水かさが増してきたので、炊き出し場は何度も移転を強いられた。「炊事の道具を担いで水に追われてあちらこちら行ったわ」。例え水災で困難に遭っても、彼女たちは鍋いっぱいの食事をつくり続けた。小舟を漕いで二メートルも浸水した被災地へ温かい食事を届けるのだ。「外からも救援物資が届きますが、ほとんどが非常食なので、温かい食事を食べられることはとてもありがたいです」

このようにすぐ行動ができたのは、過去の経験のおかげだという。「昨年私たちが水害にあった時、慈済がすぐに駆けつけて、炊き出し場を設置し、私たちは驚き感動しました。一口の温かいご飯が全身に大きな力を与えてくれることを知りました」

八月末から九月初旬にかけて水害がひどくなり、交通が麻痺する状態に陥った時、タイ北部のピサヌローク県から慈済ボランティアが一路南下し、ピサヌローク県からナコンサワン県、アユタヤ県、ロッブリー県などに炊き出し場を設置した。これまでに延べ十二万人分の食事を供給し、炊き出しは今も続けられている。

洪水がなかなか退かないので、市場から食材を調達することができず、炊き出し場は一時中断された。慈済ボランティアの陳世忠は、「私たちが困っていると、村民が船を漕いで道端に生えている菜っぱや水中にあるレンコンを引きぬいたり、倒れた木から青いパパイヤをもぎ取って、持ってきてくれました。それでやっと炊き出しを続けることができました」

初めてロッブリー県を訪れた時、陳世忠は新しいモーターボートを一艘借りた。しかし組立てる時に、部品が足りないことが分かり、町へ買いに行ったが見つからない。「ロッブリー県専門学校の校長がこのことを知って、すぐ学校の倉庫にある草刈り機を取り出させ、機械学科専攻の校長がその場で部品を取り出し、モーターに取りつけてくれました」

陳世忠が校長に「草刈機の部品を取り出したら、将来あの草刈機は使えなくなってしまうのでは」と聞くと、校長は「どうせ今は洪水だから、草刈り機は無用の長物だよ」と笑って答えた。
このような小さなほほえましいエピソードがあった。陳世忠は感動して、「人々が心を一つにして協力し、一人一人がひしゃくで水をくめば、四十億立方メートルもの水を大海に吐き出すことができるのだ」と。

タイは国民の自助、互助でこの国難を乗り越えているが、多くの外国の援助がまだ必要である。その中でも薬品の不足が最も危急の問題である。

洪水のため三カ月間製薬工場は回復できなかったので、薬品不足の危機が迫っていた。ラーチャブリー県の厚生局の鄒文良局長は、四万人の人工透析患者の必要とする点滴や腎臓透析用液の不足は患者の生命に危険をもたらすと指摘する。

彼は国際救済活動の経験がある台湾の慈済に支援を求め、慈済台北病院は薬品を集める責任を担うことになった。同院の趙有誠院長は、「タイの透析薬剤は台湾と異なり、四方八方探し求めてやっとタイ向けの製薬会社を探すことができました」と語る。今では続々と海路で透析薬剤をタイに輸送している。

慈済は台湾で薬品の準備や、水上輸送の準備と即席ご飯を準備している。被災地は水が不足しているので、マレーシアのボランティアは陸路で二十四万本のミネラルウォーターを送った。フィリピンとインドネシアのボランティアは被災地を訪問し、過去の経験を活かしてタイ国の慈済ボランティアと協力し、今後の救済計画を立てている。

慈済基金会のほか、国際的なNGO団体、例えば赤十字やロータリークラブ、各国政府や国連も手を差し伸べている。

愛の心には国境はなく、四方八方から救助がやって来る。自助、互助、他助の三方面の力で、タイは必ずやこの世紀の災難を克服することができると信じてやまない。

SUSUタイ!


慈済月刊五四〇期より
文・凃心怡/訳・重安/撮影・林炎煌

*SUSUはタイ語で頑張れの意味