不屈の精神で祖先の霊魂を慰める

2009年 11月 01日 慈済基金会
印刷
台湾大水害・一カ月後
台湾大水害から一カ月後
那瑪夏(ナマシャ)郷南沙魯(ナンサル)村の村人は村に戻った
遭難した肉親や友、そして祖先の霊魂に別れを告げに
変わり果てた故郷を見つめ
その姿を心の奥に刻みこんだ
故郷を離れて見知らぬ土地に移らなければならない……
新しい村を築き
子々孫々の平安と民族の伝統を
永続発展させることを誓い
祖先の霊に祈った

二〇〇九年九月十七日、那瑪夏郷南沙魯村の村人は、目を覆うほどのひどい姿になり果てた故郷に戻り、暴風雨のために犠牲となった二十七名の同胞に別れを告げた。

他所での避難生活を余儀なくされている村人たちは、追悼式の前日に帰って来た。荒れ狂う土石流が村を襲ったあの日、生死の境をさまよったこの場所で一夜を過ごすことを決心したのだ。

「昨夜は豪雨が降り続きました。またあの恐ろしい土石流が来るかと心配でした」と村の長老が言う。「私たちは帰らぬ同胞と故郷、そして祖先の霊魂とお別れに来ました」。

土石流は南沙魯村の建物のほとんどを埋め、二百戸余りの人たちが撤去した。例え家がまだ残っていても、山全体が安全な土地ではなくなったので、離れざるを得ない。劉喜秀さんは、息子に故郷の土を一握り持って下山するよう言われた。彼女は故郷の土を新しい家に持って行き、花や野菜を植えると言う。

【帰郷】
地形が変形し
故郷は変わり果てた姿に
南沙魯村から他村に通じる道が、災害で見る影もなく破壊されてしまった。高雄から出発し、台南、嘉義と遠回りし、いくつかの山を越えてやっと那瑪夏郷に辿りつく。

四時間半の車程中、ずっと車が上下に揺れていた。前日の大雨で泥沼と化した道が滑るので、谷底に落ちる危険がある。

災害発生後、初めて村に帰った時、林俊雄さんははっきりと村の周りの山全体に一筋一筋、洗い削られた痕跡が残されているのを見た。

以前は山の後に隠れていた一本の白い滝が姿を現した。「滝を遮っていた山が崩れたのだ」と俊雄さんが教えてくれた。

生まれ育った故郷の姿はもうそこにはなかった。卓素霞さんはしきりに右左を見ながら記憶を辿って、何がどこにあったのか思い出そうとしていた。「まるで見知らぬ土地に来たよう」とつぶやく。

【災難】
土石は波濤の如く転がり落ち
生命は一瞬にして消える
村の最高地点まで来た時、土石で積もった高台に壊れた建物が見えた。全校生徒六十名の民族小学校であった。

その小さな学校には、美しい花々が植えてあった。「私たちは毎朝ここでジョギングをしていました」。素霞さんは記憶にある美しい校庭が大自然の大きな力でぺちゃんことなり、後方にあった山が激流で二つに割れているのを見て、「ふだん水の少ない渓流が瞬時にして村を破滅する大洪水になるとは、誰も予測できませんでした」と語る。

昨年台風七号が起きた時、土石流が発生し、隣りの瑪雅村に襲いかかった。今年八月八日、台風八号が来た時、瑪雅村の住民は早目に安全な場所へ避難したが、南沙魯村の住民は土石流がよもや自分たちの村を襲ってくるとは予測していなかった。「幅が十メートルあった河床が瞬間にして二百メートルとなり、土石流はまるで荒れ狂う波濤のように人々を呑みこみました。三百人の住民が声を張り上げて絶叫していた様子は、まるで地獄のような有様でした」。

村民はお年寄りと子供を二キロ先にある高台へ避難させた。小さな小屋と雨水をしのぐテントがある臨時の避難所である。衣服が雨で濡れている上に強風がふきつける。寒さで震えるお年寄りと子供たちを中央に集め、冷えないようにした。たくましい青年は風雨を冒して村から食糧や飲料水を運んできて、皆の体力を維持した。

雷や土石流の音に人々は脅える。「山に取り残された数日間、傷を負ったお年寄りが堪えきれずに死んでいったり、子供たちが恐怖で泣き叫んだりしていました。まるで死を待っているような情景でした」。

四日後、ヘリコプターが救助に飛んで来た。林俊雄さんと妻の卓素霞さんは一番最後のヘリで下山した。八月十四日、三百数十名の村人は全員村から退去した。

【下山】
生活の環境に適応し
人を助け自らを助ける
下山してまもなくの間、南沙魯村の住民は寺廟や教会など三カ所の避難所に収容され、清潔な衣服や充分な食物が与えられた。避難所は狭いが、皆が頭をそろえて寝られる。湿気で冷たい高台に比べれば天国で、彼らは満足した。その後八月下旬、高雄県桃源郷、六亀郷、那瑪夏郷など二千人余りの住民は居住地別にそれぞれ五カ所の避難所に移った。

南沙魯村住民はまず燕巣陸軍工兵学校に移った。「一家族につき一間の部屋をあてがわれ、前の避難所よりも広かった」と相互救済会会長の林清章さんは語る。軍営ではベッドや布団、生活必需品を用意してあり、三食には四皿のおかずにスープがつくメニューで、デザートもあった。

しかし、「山とは異なる平地の生活に、村人たちは適応しなければならない」と、翁雪貞さん。被災者は気持ちを切り替えて、新しい環境での生活にも対応しなければならないと語る。「山には信号機や横断歩道がないので、年寄りや子供たちは道を横断する方法を知らないのです」。

しばらくの間、彼らはいつも空ろな目をして座っていたが、数週間後には兵営の暮らしにも慣れ、精神的に元気になり、草原にCDレコーダーを持ち出して、ブヌン族が最も誇りとする八部合唱を歌って楽しむ。また、戸外に大きなスクリーンが張られ、影写機で映画が上映されることもあった。

「長期間人の援助に頼るのではなく、私たち自身が立ち上って現実に対応しなければなりません」と被災者の林素雲さんは言う。土石流で家が破壊されただけでなく、経営していた土産物店の二百点にも上る工芸品が水に浸った。「下山した後、友人の支援で材料を買い、新しい土地で仕事をしています」と素雲さん。「家は失いましたが、決して失望せず、村の婦女を励まして一緒に仕事をしています。目標を立て、また、お金を稼がなければなりません。再建の道は遠いですが、早く立ち直って皆で努力しなければなりません」。

【選択】
命は何よりも大切なもの
この日の午後三時、兵営区の空地に一本の長い麻縄が横たわっていた。被災者と兵士が綱引きをするという。兵営の士官が「先住民の人たちは山の上では毎日農作業をしていました。ここでも何か運動をして、体力を発散し、精神を奮い起こさなければ」と語る。

綱引きが始まる前、被災者が「勝ったら何か賞品がありますか?」と冗談を言う。士官が「どんな賞品が欲しい?」と笑って聞くと、「もし私たちが勝てばヘリコプターを貸して下さい。故郷に戻ってみたいから。そしてまた兵営に帰って来ます」。帰郷の道は険しい。しかしそれでも彼らは帰って一目だけでも被災した故郷の姿を見たい。そうしたら、平地に根を下ろして暮らしてゆく決心がつくだろう。

移住――これは南沙魯村の住民にとって非常に重苦しい、一大決心を要する重要な課題である。「私たちは二週間必死になって、この問題に悩み、ようやく故郷を離れる決心をしました」。相互救済会会長の林清章さんは当時の事を思い出して言った。下山して間もなくの頃、大きな音を聞く度に「土石流がやって来た」と驚く村人たち。平地に移った今もなお、反射神経的に土石流の恐怖におののいているのだ。

肉親や友が土石流に呑まれていくのをこの目で見た。力のある者は激流から抜け出し、力のない者は永遠に消えてしまった。故郷から離れていかねばならない。そこはもう安住の地ではないのだ。

【村の移住】
安全で堅固な村をつくる

平地への移住が必至となったが、一体どこへ? 林清章さんは分析した。一軒の家を建てるには少くとも百五十万元(約四百十七万円)いる。経済力のない先住民にしてみれば大金であり、「私たちには大した資金はありません。新しい家を建てる場所は安全で、少くとも三十年間風雨に堪えられる家でなければなりません」。

付近の土地で条件にあった土地を探し、検討した結果、故郷から車で約一時間の距離にある旗山が最適地ということになった。しかし、政府から南沙魯村の移住計画を委託された慈済は、杉林郷を移住の土地として選んだ。「私たちは慈済に感謝します。私たちのために、旗山よりも故郷の那瑪夏郷に近い杉林郷を選んでくれました」。

慈済が永久家屋を援助建設する計画に、大多数の村人は賛成した。タンフ・パーラフェーは「慈済が建ててくれる家は耐震七~八度、耐風十七級と聞いています。しかも故郷に近く安全な平地なので、一日も早く入居したいと願っています」と語る。

彼は慈済が世界で多くの慈善事業を行っていること、村を建設することは初めてのことではないことを知っていた。皆が最も感動したのは、慈済人の気配りと愛の心である。「慈済は、私たちのコミュニティに呼喚台を建ててくれるというのです。私はこの企画説明書を見た時とても感動しました」と語る。

昔のブヌン族の集落には呼喚台とよばれる高台が設置されていた。この高台はもともと、猟に出た者が大きな獲物をとった時にここに上がって、獲物を獲得したことを村に告げるために使われていた。この声を聞いた村人が駆けつけて獲物の運搬を手伝い、村に持ち帰って頭目の家に持っていく。頭目が村人を皆集めて、獲物を分けるという慣わしだった。その後も、村人同士が連絡を取り合う方法として利用されていた。通信が発達し、連絡用としての役目はなくなってしまったが、呼喚台は村にとって精神的なシンボルとなる。

「私は慈済が家を建ててくれるほか、私たちの文化を理解し、それに合った建設をしてくれることに感謝します」とタンフ・パーラフェーは言う。

慈済は台風八号発生時に救援活動を展開した後、引き続いて長期再建プロジェクトを推進している。安身(身の安全)、安心(心の安らぎ)、安居(居住の安全)、安学(安心して学ぶ)、安生(生活の安心)、そして山林の復旧を再建の六大目標に掲げている。

一カ月来、慈済は高雄・屏東地区で、撤去と移住などについて五十回に上る説明会を催した。住民との協調をスムースにし、彼らの希望と需要を理解し、先住民の生活環境に適した永久家屋を築き上げようとしている。

「あなた方は私たちの故郷に対する切っても切れない感情をよく分かってくれて、私たちが決定するまで辛抱強く待ってくれました。その後、何度も私たちの意見や要望を聞いて、先住民の文化に合った村を建設してくれることになりました」とタンフ・パーラフェーは慈済の根気強さに対して感謝した。

「このような気配りのある包容心をもって私たちにつき添い、あの困難で絶望していた月日を一緒に過ごしてくれたことに感謝します」と語る。

【傷の治療】
根気ある付添いは良薬

慈済のボランティアと那瑪夏村住民の関係は已に十数年にわたる。毎月定期的に山の上へ独居老人や生活保護家庭を訪問し、無料診療活動などを行ってきた。「災害が発生した時、私はすぐ村人に連絡しました」と慈済ボランティアの張嫦嬪は語る。

ボランティアは毎日五カ所の避難所へ慰問に出かける。九月中旬までに延べ一千回を超えた。「被災者に付き添って話に耳をかたむけ、不安な彼らの心を慰めます。彼らが平安であるのを見ると本当に安心します」とボランティアの葉亭吟は言う。

ボランティアの呉慈同は初めて避難所で林俊雄さんと会った時のことを覚えている。「彼は忙しく被災後の再建の処理をしていました。また、故郷に戻って肉親と友達の遺体を探す計画もしていました。私たちを見るといつも頭を下に向けて、話をしたくない様子でした」。呉慈同は林俊雄さんが冷たい態度をとるのも気にせず、近づいて関心を寄せました。「彼に、南沙魯村の子を病院にお見舞いに行ったと話したら、その子の名前を聞いて、彼は眼を輝かせた。なんとあの子は彼の従弟だったのです」。山から病人たちがそれぞれの病院へ運ばれた後、従弟を探す手立てがなかったが、呉慈同の口から消息を聞いてやっと安心した。

林俊雄さんの妻である卓素霞さんは、「長い時間をかけて被災した心の傷を癒やす覚悟をしていましたが、慈済のボランティアたちがずっと付き添ってくれましたので、短期間で元気を取り戻しました。今の私は、生涯で一番精神的に強い時だと思います」と語る。

以前、卓素霞さんも慰問や付き添いにどんな効果があるのだろうと疑問だった。「私たちが避難所にいた間中、ボランティアたちは毎日朝早くから来てさまざまな仕事に協力してくれました。子供たちがいたずらしても嫌な顔をせず、親身になって世話をしてくれました。夜私たちが寝た後も、彼らはコンピュータの前で仕事を続けていました」。卓素霞さんはボランティアの無私の愛の奉仕に感動したと言う。

民族小学校の教師である荘宜蛍さんは、災害が発生して、山に取り残された四日間の出来事を思い出して、「山が轟々と立ている音は、まるで悲鳴をあげているように聞こえました」と言う。「あの時、みんなはとても悲しかった。きっと私たちは大地を傷つけたのだと思っていました」。

三百余人の村人が山から平地へと降りてきた道は、一カ月後には草が覆って見えなくなった。新しく建てられる家に入居する日を待つ村人たちの心境は、那瑪夏の歌「月光」の歌詞のようだ。

月光
頼りになるものを失ったが
私たちには月の明りがあるから楽しい
足場の土地も失ったが
私たちには希望があるから
心が安らかである


慈済月刊五一四期より
文・凃心怡/訳・重安/撮影・林炎煌