古里の百合がまた咲いた

2010年 11月 01日 李委煌
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松明に火が灯され
ゆるやかに白い煙の立ちのぼる中
祖先の霊を迎えます
ルカイ族とパイワン族の人々は
盛装して祝賀会に臨みました
歌と踊りでお世話になった人に感謝を捧げました
そしてお互い新しい家の主人になったことを祝福しました

昨年八月の台風八号から一年
この間、悲喜交々の道程を越えてきました
百世帯あまりの屏東県の霧台、三地門両村の村人は
ついに安らぎの住居に落ちつきました
新居の庭に移植された古里の百合が
伝統の新生を見守るかのようです
花の季節の訪れる頃には
清い香りが団地に満ちていることでしょう

早朝六時半、張仁傑と柯銀花は新居の戸締りを終えて、もと住んでいた家に帰る準備をしていました。屏東県長治郷にある慈済大愛村の前を通る屏二六号線道路を進み、台二四号線に乗り換えて三地門郷の三徳検査哨から管制区域の山地地区に入ります。

張仁傑は大型トラックを注意深く、狭くて危険な道を運転しながら進みます。仰ぎ見れば絶壁には今にも落下しそうな岩が目に入ります。災害が過ぎて一年が経ちますが、もとの村に帰る道は依然危険な状態で、別の道を遠回りして行かなければなりません。大雨にあえばその道さえも通行禁止となります。村民が元の村に用事があって帰る時は、夏の午後特有の雷雨で山に閉じこめられないように、朝早く出かけて用事をすませ、正午前に山から下りるようにします。

山に戻る途中、ルカイ族の文化を象徴する百歩蛇の彫刻や陶器の壺、スレート板の家などが見られます。馴れたこの山道は祖先の霊が鎮座する郷土です。凹凸の道のカーブを過ぎると広い隘寮渓が眼前に現れます。ここから霧台郷の入口の谷川村に進み、佳暮村まではさほど遠くありません。

張仁傑は佳暮村にゆっくりと車を乗り入れました。佳暮村には今でもまだ居残っている人がいます。永久住宅を申請した被災者のうち約四十世帯はすでに慈済の建てた長治郷の大愛団地に移り住みました。引越した者にとっても村に居残った者にとっても、この一年は険しい山道を歩むような辛いものでした。

張仁傑と妻の柯銀花は数十キロもの重さのあるスレート板を車に載せて、新しい住宅に小さな庭を造ろうと考えています。そして百合を植えて、柯銀花が織った手工芸品を並べて販売するつもりです。スレート板で机と椅子をこしらえて、お茶を飲んだりギターを弾いたりしながら村人が四方山話ができる場所にします。

夫婦はできるだけ古里の草花とルカイ族伝統のものを新居に移すことにし、「慈済が建ててくれたこの立派な家を自分たちの文化で彩りたいと思っています」と言いました。

神の思し召し
台湾島の南北を貫く中央山脈南部に居住するルカイ族は高雄県、台東県、屏東県の山地に多く、屏東県の霧台郷が中心地です。霧台郷には霧台、吉露、佳暮、阿札、大武、好茶の六村があり、住民の九十八%がルカイ族です。

霧台は「雲霧の里」の美名を持ち、涼しい爽やかな気候に恵まれています。佳暮は霧台の穀倉と称えられ、里芋、粟、とうもろこし、かぼちゃなどの生産量はいずれも郷で一番です。一番奥地の阿礼村は毎年二月に山桜が一斉にほころび花見客を喜ばせます。

慈済の援助で建てられた長治大愛団地は四月二十六日に起工、台風八号風災一週年を迎える前の八月六日に村民は移り住みました。団地の新しい住民となる百五十四世帯は霧台郷の谷川、吉露、佳暮、阿札と三地門郷の徳文村のルカイ族、そして達来村のパイワン族の人たちが大多数でした。

百日を越した工事期間中には八十四名の被災者が、政府の「八八臨時工計画」によって建設作業員として工事に加わりました。被災後平地に移り住んだ人々が、照りつける太陽の下、汗水を流して働きました。村の頭目も教会の長老も、皆が新しい家の再建に尽くしました。この純真さと素朴さは人々に深い感動をあたえました。

吉露村頭目の孫清吉は十四歳に村を離れて、きのこ栽培や醤油造りを学びました。最後に落ち着いたのが台北の紡織工場でした。三十年間懸命に働いて貯えを成し、妻子を連れて古里の村に戻りました。そして五、六百万元の費用をかけてルカイ伝統のスレートの家を建てて民宿を営みました。それが僅か六年で台風災害に遭ったのです。

生涯心血注いで成した財産が瞬時に消失し、その悲しみと驚きは言い尽し難いものでした。兵隊に行っている子が帰ってきた時、「どうして泣くの? 僕たちまた会えたじゃない」と言ったのを聞いて孫清吉はやっと涙を止め、「家の者が無事だっただけでよいのだ」と再び後のことを心配しないようになりました。

もともと神の思し召しでした。思いもよらずこんな立派な家が得られました。臨時作業員として工事の始めから最後まで、工事の品質を親しく経験してきました。そして感動したのは、慈済ボランティアが細かく気を遣って、村人の健康のために飲食習慣を改善するよう指導してくれたことでした。「私はますます健康になった感じがします。家内とともに今までの体によくない悪い習慣を改めるよう子供を教育します」と言いました。

毎日、朝の祈祷のときに孫清吉は同胞を引きつれ、お互いの祝福を祈りました。「慈済は本当に美しい。ボランティアはみな微笑をたたえています。私たちはお互いに関心を持ち、人を寛大に受け入れることの大切さを学びました」

吉露村から二十四世帯が大愛団地に引越してきました。パイナップル畑が美しい家に変わっているのを見て、吉露地域発展協会理事長を務める孫清吉は、「各村の人々は家に小さな庭を造ろうと計画しています。できあがったら団地に一層の彩りを添えることでしょう」

孫清吉は将来、工芸品や農産物などの生産と流通に励んで、村人に新しい財源が開けることを期待しています。

悲しみから感謝へ
「大水の災難にも皆は無事でした。神は私たちを見捨てず、愛してくれています」と谷川村のキリスト教会長老の林秋男は遠方を見つめて言いました。新居に移った晩、林秋男は村の信徒を集めて初めての礼拝を行いました。そして神と先祖に、この度山を下りて生活することになったと報告しました。

谷川村は狭い隘寮溪のほとりに位置しており、おそろしい山の地滑りと土石流で、幅八十メートルの河床が五倍の四百メートルに拡がりました。林秋男は大愛団地に移り住んだ後、古い山の家は畑仕事のための小屋として使うことにしました。

十数年来、工事現場で働く林秋男は日給千五百元以上の高給取りでした。しかし将来自分たちの家となる長治団地がどうやって建てられるのかを知りたいと思い、日給八百元の「八八臨時工計画」に志願しました。工事が終わり、林秋男一家は三十二坪の新居に移りました。昔、山で住んでいた八十坪の二階建ての家より大分せまいが、大変満足していました。慈済が建ててくれた家の品質は堅固で安心して住めるものと信頼しているからです。

十五歳の子供と一緒に住む阿札村の包仙妹は十七坪の家です。包仙妹はこんな家を持つなど夢にも考えられなかったと言います。ボランティアには大変親切にしてもらい、年老いた父もすぐ隣の家です。新しい設備に馴れない父の面倒を見られるので安心しました。包仙妹は新居の鍵をかたく握りしめ、顔いっぱい涙で濡らしていました。

これまで十二年間、包仙妹は家計を支えてきたばかりでなく、病床に臥す姑と夫の看護をしてきました。昼間は美容師、夜は介護師の仕事をし、掃除など何か手伝いの機会があればそれも見逃すことなく、毎日の睡眠が三時間を超えたことはありませんでした。

昨年台風が来襲する前、病に臥せっていた夫が亡くなりました。屏東の街で借家して働いていた仙妹は阿札村に戻って喪に服しました。その時台風災害に遭い、ヘリに助けられて下山しました。慈済の援助による団地建設が開始された後、病院のヘルパーをやめて臨時作業員になりました。

ボランティアはすべて自費で酷暑の中仕事をするときいた時、「ボランティアはそこまでして奉仕するのか? 信じられない」と包仙妹は驚きました。毎日慈済ボランティアが準備した菜食のお昼をいただき、そして家で留守番している子にもお弁当をいただきます。

包仙妹の生活は質素なもので、家で使われている品物は回収物ばかり。身につけている服もみな人から贈られた物でした。仙妹は感動をすぐ行動に移し、常に袋を携えて、路傍に落ちている空瓶や空缶を拾い集め、売り上げたお金を教会や慈済に献金しています。教会の回収箱はただ「資源ゴミ」と「一般ゴミ」の二種類だけに分けています。それを仙妹は「紙」、「プラスチック」、「ペットボトル」、「鉄缶」と「アルミ缶」と五種類に分け、徹底して分類して環境保全に力を尽くすよう呼びかけました。村人が回収物を包仙妹に届けると、仙妹は両手を合わせて「本当にありがたいです。地球を可愛がり、保護しましょう」と感謝して受け取ります。

困難な生活と天災を経た今、仙妹は新しい家を持ち、楽しい気持ちで毎日を過ごしています。「援助してくださった人々に、私は行動で感謝の気持ちを表したい」と言いました。

すべてを大切に
中年と壮年が大多数を占める臨時作業員の中で、二十代の盧雅琴は珍しい若者でした。昨年、台東県卑南郷から屏東県霧台郷の佳暮村に嫁いできた盧雅琴は、夫の徐神維とコックをしていました。台風当日も山を下りて仕事に出かけました。家に戻って一時間も経たないうちに道路は寸断され、村もつぶされました。

災害の後は安定した仕事が得られなかったので、半年の間臨時作業員として働けたことを、盧雅琴はとても喜んでいました。最初の間はボランティアについてお茶や飲料水、おやつを工事現場に送る仕事で、天気が暑いと短気をおこし、どうしても態度がぞんざいになりがちでした。しかしボランティアの親切な態度、おだやかな言葉遣いなどに接しているうちにだんだん心が落ち着いてきました。盧雅琴は「微笑みは感染するものですね」と笑みをたたえて言いました。f

現場の作業員は照りつける太陽の下でセメントを攪拌しています。顔一面に泥水を浴びて大変な苦労です。雅琴は心の持ち様を変えて、「皆さんは苦労して私たちの住む家を建ててくれています。辛い仕事も、私たちの笑顔を見れば励みになることでしょう」と。

佳暮村の人たちは災害後、屏東「栄民の家」(退役軍人が暮らす施設)で避難生活を送ることになりましたが、盧雅琴は病気の舅が診療に行くのに便利なように、「栄民の家」から出て家を借りました。教会で働いている雅琴は建設現場から退けた後、「栄民の家」に行って片親の子の勉強を見てあげています。災害後に生活上の圧力が加わり、この仕事をやめようと思いましたが、工事現場で静思語(證厳上人のお言葉)に接し、続けようと決心しました。

以前、自分の感情を抑えることができず、夫といさかいが絶えなかった雅琴ですが、静思語から自分の欠点に気づき、聖書と静思語を教材として、子供たちに環境保全の大切さを教えました。「地球を救うには自分の力に頼るだけではできません。必ず人に影響をあたえることが必要です」と。

慈済の新団地に移り住んでから雅琴は、団地に子供の勉強を見るクラスを設けて子供たちが良い生活習慣と礼儀を習えるようにしたいと考えています。



長治慈済大愛団地は約三十ヘクタールの敷地があります。すでに第一期住宅工事が完成しました。百合の花はルカイ族とパイワン族にとって文化の象徴で、この新しい古里でその伝統文化を伝え続けます。

水害前、古里では住民がさつま芋や里芋、粟などを植えてきました。そして泉の水を飲むことができました。留守に鍵などをかける必要もなく、村全体が家族のようにお互い見守ってきました。平地にある新しい団地では、暮らしが変わり、以前よりもお金もかかるため、生計をどうするかが当面の問題です。村人たちがこうした問題を一つずつ克服し、新居が少しずつ本当の「わが家」になっていってほしいと願います。


慈済月刊五二五期より
資料提供・陳虹秀
訳・王得和
撮影・林炎煌