慈善の福田は広く 慈悲の力を寄せ集めます

2010年 3月 01日 慈済基金会
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【特別報道 海外慈済委員・慈誠隊員精神研修会】
毎年秋の深まった頃、
全世界の慈済ボランティアは
心霊の故郷花蓮にもどって参ります。
たとえ皮膚の色が異なり、信仰も違っていても、
師の仏心を受けつぎ、愛の信念を共に抱く人々です。
二十の国と地域から一千名を超える慈済ボランティアが、
十一月二十六日から三十日までの間に行われる
「海外慈済委員・慈誠隊員精神研修会」に参加するのです。
そのうち八百三十名あまりに
慈済委員や慈誠隊員の証を授与します。
今年は海外出身者の授証人数が最多となります。
見返りを求めない無私の愛を寄せ集めた慈悲の力は
この地球の隅々にまで行きわたります。

祈りの歌声が響く中、ヨルダンからやってきたヨウセフの兄と妹はムスリムの作法で両手を高く上げながら敬虔に祈りを捧げていました。その傍に立つカソリック信者のリリーは両手を胸の前で組み合わせて祈り、慈済ボランティアの陳秋華は合掌して真心こめて祈っていました。信仰する宗教はそれぞれ異なりますが、同じ一つの国土で手をたずさえて、苦難に喘ぐ民衆の世話に奉仕しております。

ヨルダンには五十四名の慈済ボランティアがおり、そのうち九名は委員の訓練を終えてすでに授証しております。人力には限りがありますが、この国で救済を必要とする福田は広大で、来年には慈済人医会の運営に踏み出し、パレスチナ地区での無料診療を予定しています。

慈済は南アフリカで十七年間に亙って福田を耕して参りました。そして四千名あまりのズール族慈済ボランティアを導き出し、毎日、貧困村落の世話に奔走しています。しかし援助を必要とする人たちが日に日に増えている状況です。

ダーバンからやって来た六十歳になるキャサリン・オンチイデイはキリスト教の牧師です。「牧師の地位は崇高で、信者は金銭や物品を教会に献じます。潘明水さんが私たちの町にいらっしゃるまで、私たちは当然のこととしてこれらのものを受取っていました。ですが、見返りを求めない慈済人の行いに接した後、本当に懺悔の気持ちでいっぱいです」とキャサリン牧師は言いました。

キャサリン牧師は地域でボランティアを組織して、現在、六十名の病気の人の世話をしています。また野菜畑を耕して、毎日百五十食分の温かい食事を貧しいズール族の人々に供給しています。

多くのズール族ボランティアの過去は、悲しみに満ちたものでした。家庭内暴力、戦乱、経済的困苦など。ですが、彼らは證厳上人のお諭しを聞いて心を清め、すべての怨恨を放下して、同胞と共に慈済の活動に参与し、辛い過去を乗り越えました。

欧米諸国から郷愁を馳せる
昨年八月に台風八号がもたらした台湾大水害は海外に居住する台湾人の関心を引きおこしました。全世界五十二の国と地域の慈済人が一斉に募金救済を発起しました。イギリスで博士コースを専攻中の羅珮瑄は街頭募金をしようと考えましたが、申請手続に時間がかかるので、ロンドン在住の慈済ボランティアを通じて、台湾人が開く店で募金箱をおいてもらうことにしました。ボランティアは二カ月間、毎週土日に店へ出かけ募金活動をしました。

「海外では人手が足りず、固定した拠点もないため、すべて自分でやるしかありません。慈済ボランティアはあらゆる方法を講じて円満に仕事を達成しようと図ります。どんなに忙しくても、慈済青年会の学生たちを安全に家まで送り届けてから初めて安心して休めるのです」と羅珮瑄は言います。そして、羅珮瑄は慈済委員となる願をかためました。

台湾からカナダのトロントに移民した李采容は、買い物に行ったスーパーで見知らぬ客に慈済のことを話し、慈済の活動に誘いました。また、スーパーの店主にも買い物に行くたびに慈済のことを話しました。

「しばらくは店主の反応は極めて冷淡でした。果して慈済が実在しているのかわからないと言うのです。しかし私はあきらめませんでした。機会ある毎に『慈済月刊』をお見せしました。台湾大水害救災募金の時、私は勇気を出して店主に店先で募金させてほしいと聞いてみました。すると店主は快諾してくれました」。店主は慈済を認めたばかりでなく、スーパーの中で慈済の歌を流すようになったといいます。

李采容の夫・楊東栄も慈済人で、自宅で慈済茶話会を催しています。近所を一軒一軒回ってチャイムを押して誘うのです。「あなたは英語が話せないのにどうやって誘うの?」と友達が聞くと、李采容はまるい顔に笑みをたたえて、「大丈夫よ。手まね、身ぶりで気持ちを伝えるの。慈済は私のパワーよ。パワーが充満しているからおそれることないわ」と答えます。

トロント支部は一昨年、中国の四川省大地震を救援するために、チマキのチャリティーバザーを行いました。李采容は自宅の裏庭に調理場を作り、張秀廷がチマキを並べる棚を作りました。炊事組はカセットコンロをいくつか購入し、三、四十名の人がチマキ作りに必要な材料の準備をしました。週末毎に作業に集まり、一万個ものチマキを売りました。

ジャカルタで無私の奉仕
インドネシアは一九九八年のアジア金融危機でもろに打撃を受け、政治も乱れ、経済は大きな損害を蒙りました。ジャカルタ大暴動中、多くの華人が民衆の攻撃対象となりました。衣類の加工工場を経営していた許乃圑は工場を閉鎖し、家に閉じこもったので被害は受けなかったものの、恐ろしさで一杯でした。その後、許乃圑はうつ病を患い、車を運転中に運転ができなくなることもありました。商いをする許乃圑にとって大変辛い状況でした。

二〇〇二年にジャカルタ大水害が起きた時、慈済がカリアンケ川のほとりに住む貧民の住宅建設を支援した際に慈済と出会いました。

「私が友人のために働き口を探していた時、慈済の周世満さんと知り合いました。その時、周さんはすぐ私に、建設中の大愛村にボランティアとして明日行かないかと誘いました。私は働くのだから多少なり工銭が得られると思いました。友人もすぐには適当な職が見つからないので、一緒に行こうとすすめました」

ところが翌日、大愛村建設現場に友人は現れず、約束を守ってやってきた許乃圑は、ボランティアたちについて忙しく働くはめになりました。作業員の一人が、工場のオーナーがまじめに働いているのを見て、「ボランティアは工賃がありませんよ」と言いました。許乃圑は「工賃がなくてもせめて昼食ぐらいは食べさせてもらえるだろう」と思っていましたが、昼になって初めて飯も自分でまかなうことがわかりました。「ボランティアというのは弁当もないのか。ボランティアは仕事することを志願するということなのだな」。

許乃圑はこのことから慈済が救災のために募ったお金はすべて救災にのみ使われるという原則をはっきりと知りました。そして慈済に敬服しました。「ボランティアに興味をおぼえた私は数日続けました。ボランティアは続ければ続けるほど楽しくなり、そして慈済が民族や宗教の別なく救災することを了解できました。感動して、とうとう慈誠隊員となるための訓練を受けることにしました」。

「いろいろなボランティア活動に加わりました。家庭訪問、介護、無料診療など。その上で、私は環境保全のリサイクルを選びました。この仕事は汚くてあまり人がやりたがらないようなので、この奉仕を選びました。この奉仕は毎日出勤の道すがらできます。収集した物を車に載せ、退勤後家に持ち帰って、一定量になれば他のボランティアに頼んで運んでもらいました」

また、許乃圑は、「現在インドネシアでは大愛テレビの視聴者が急激に増えています。私はより一層リサイクルに励み、大愛テレビの運営基金のために努力します」と言いました。

許乃圑は福州なまりの台湾語で、「天災はますます増える一方で、各地の救災を慈済は少しもゆるめることはできません。救済にかかる経費は莫大なもので、法師様の弟子として努力していくべきです」と言います。友人、商売仲間、日頃買い物に出入する店などで会員や募金を募りました。「時には挫折に会うこともあります。けれども私は、足るを知る、感謝する、すべてを善に解釈する、すべてを受け入れるの四つの理念ですべてのことに当たっています。このようにして培った会員は四百人あまりで、そのうち四十人ほどはインドネシアの方です」。

六十歳に近い許乃圑は、慈誠隊員として授証した後、最大の願いは募金とリサイクルをこれからもずっと続けたいというものです。「リサイクルの奉仕をしているうちにうつ病が治りました。そして、会員を募るおかげでさらに多くの方との間に善縁が結ばれました」と喜びで一杯です。

日本の四国地方に初めての種
毎月、家木錦瑩は四国から快速バスで東京に出て慈済委員の訓練課程に参加しています。往復十二時間を費やし、車代は約二万円かかります。その志は変わることなく続けられています。

台湾から遠い日本に嫁ぎ、知り合いもなく、慣れない土地で郷愁は募る一方でした。ある時偶然、中国語刊行物に載った「静思語」を目にしました。静思語の言葉を心霊の良薬のように感じ、東京の慈済支部に連絡したことから、ボランティアの張秀民と知り合いました。そして自宅でリサイクル活動を始めました。

三年前に郷里の母が病気になった時、日本に住む錦瑩は母の面倒を見ることができませんでした。その後、病状が突然悪化して母はなくなりました。錦瑩は母を看病してあげられなかったことに負い目を感じ、後悔の念にかられていました。そのような極度の悲しみに浸っている時に、静思語の「人生において、自分は自分の体の所有権がなく、使用する権利だけがある」という一句に触れ、悟るところがありました。「母が安心して黄泉路へ旅立ったことを心から祝福し、母がまたこの世に早く生まれかわるよう祈ります」と語る錦瑩の目には涙が光っていました。

「私はインターネットで大愛テレビの番組を見るようになり、その中から仏法の真髄を汲みとっています。毎日の『静思語』は私の心の糧です。法師様のお諭しがなかったなら、孝行を尽くせなかった私は一生涯悔やんでいたでしょう」

しかしさらに大きな無常が錦瑩の身に降りかかりました。一昨年の暮れのある早朝、夫が玄関で卒倒し、そのまま不帰の客となったのでした。

「三年の間に二度の無常が訪れたことに深く考えさせられました。生老病死は誰もが逃れられないおきてです。私は自分の人生脚本を作っておこうと決心しました。時期が来たら、私は何にもこだわることなく下車します」。家木錦瑩は悲しみを祝福に変え、身をもって愛を実行することを発願しました。



研修会の間、海外からやって来たボランティアたちが板橋、関渡、花蓮、三重などの慈済志業園区を訪れると、台湾の慈済人は真心で手厚く歓迎しました。花蓮での四日間の活動には、六百名にのぼる台湾のボランティアが集まって、彼らの面倒を見ました。

今年マレーシアからは四百人を超える授証者がおりました。マラッカ支部副執行長を務める林慈恬は、人間菩薩の募集というのはただ慈済会員を集めるのではなく、人材の育成を目指していると語ります。「訓練の途中でやめてしまう人もいます。私たちは法師様の説法を奉じて、困難にぶつかった人を励まします。慈済の活動に積極的に参加したことで家庭に問題を引き起こしてしまうという人もいます。私たちの誰もが大なり小なりそんな過程を経てきました。私たちはそうした問題にあった人と話し合って、その解決を捜し求めようと尽くします」。

「リーダーとして人々の前に立つ者は、常に自分に対し厳しく要求しなければいけません。法師様の説法を常日頃から聞いていれば、自然に分かってくることです。絶えず続けていけば、影響力を持つようになり、よい行いがいつかは善の循環を作り出します」

毎年、新委員の誕生に付き添って世話を続ける林慈恬は、新米委員たちの初志が自分にも一種の無形の力を与えてくれるのを感じます。「責任をもって受けつぐことは一種の法悦です。新米委員が、私たちに続いてさらに広く福田を開拓していくことを望んでやみません」。


慈済月刊五一七期より
文・呂媛菁、林淑懷、林瑋馨、徐瑞穗、王乙喬、李玲
訳・王得和