国境を越えて愛を広めよう

2009年 12月 01日 慈済基金会
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精鋭の救援チームは救援に専念し、心ある人はお金を寄付したり、ボランティアとして被災地の復興に力を尽くした。被災地への愛は絶えることなくそして国境を越えて広まっていった。

一九九九年八月十七日にトルコでM・7以上の強い地震が発生し、数万人の命が失われました。この事態を受けて八月二十五日、慈済は救援の募金を呼びかけました。心ある人は大勢いたのですが、反対の声も少なくないようでした。それは「台湾国内を助けずに、外国を助けるなんて」という不満の声でした。

ところが三十五日後の九月二十一日、トルコの被災者がまた立ち上がっていないのに、台湾にも思いがけない大地震が起こりました。政府をはじめ民間の救援ボランティア、そして世界各地から二十一カ国の三十八におよぶ救援チームが台湾中部の被災地へ赴き、瓦礫の下に閉じ込められた生還者の捜索に尽くしてくださいました。

近隣の日本、韓国、シンガポール、そして太平洋側のアメリカ、メキシコからも精鋭の救援チームが派遣されてきました。なかでもトルコから来た四十三名の救援チームが彰化県員林鎮(台湾中部の町)で、五十時間も閉じこめられていた婦人を救出した時の光景をテレビが写しだした瞬間はとても感動的で、「人道精神」の真の意味を新たに考え直させられました。

地域を愛し
助け合おう

一九九九年九月二十一日の大地震は台湾にとって、第二次世界大戦以来もっとも深刻な災害の一つでした。二千人以上の人が瓦礫の下で亡くなり、家屋も倒壊し、心身に受けた苦しみは言葉では言い表せないものがありました。

これは実際に被災した人にとっても耐え難い災難ですが、また台湾社会にも大きな衝撃を与えたとも言えるでしょう。精鋭の救援チームは救援に専念し、心ある人はお金を寄付したり、ボランティアになって被災地の復興に力を尽くしました。被災地への愛は絶えることなく、そして国境を越えて広まっていったのです。

台北にある楽生療養院では三百人を越えるハンセン病の患者が百万元(約三百五十万円)以上の救援金を出し合って寄付しました。募金を呼びかけた金義禎さんは、「我々はいつも弱い者として哀れまれるだけではなく、社会に関心を持ち、人を助けることもできるのです」と述べました。

災害の後、台湾各地から慈済ボランティアが駆けつけ、車で救援物資を被災地に送ったり、温かい食べ物を提供したり、また家族を亡くした人々を慰めたりしていました。ブルーのシャツに白いズボンの姿のボランティアは人々に助け合いの大切さを身をもって示しました。かつて助けられたことのある人は、今度は自分が他人を助けることで恩に報いることができます。

その翌々年の二○○一年夏、台風八号の影響で、台湾中部の苗栗県卓蘭鎮白布帆地域が土石流にあったので、今度は台中県東勢から百二十名の大地震の被災者たちが清掃の手伝いにやってきたのです。

また一カ月後、台風十六号が台北に大浸水をもたらしたことで、南投県中寮郷の人々は清掃用具を持参し、台北にやってきたのです。台湾中部大地震の時に台北地域の人々に助けられた恩返しなのだそうです。

二○○九年八月八日に台風八号による洪水災害が発生した後、若い世代がインターネットで数百人の仲間を募り、慈済ボランティアについて被害が深刻な地域に救済に行きました。その中の一人の女子学生が、あるお婆さんの家を清掃していました。お婆さんが「なぜボランティアになってここに来たの?」と聞くと、彼女は「家は台湾中部大地震で被災しました。当時私はまだ幼かったですが、ブルーのシャツに白いズボン姿のボランティアの手から温かいお弁当を頂いた時の感動を今もまだ覚えています。ですから私は恩返しをしたいのです」と答えました。

愛を広めていけるのは、国を愛し、故郷を愛する一人ひとりの心が集まって大きな力となっているからなのです。また自ら台湾中部大地震の災難を体験したからこそ、人の痛みを自分の痛みと感じることができ、人を助ける原動力を発揮できるのです。

愛を発揮し
世界に広めよう

大地震発生の際の救援活動から教訓を得、政府、民間団体共に救援方法と物資の準備が不十分だと痛感し、装備強化と人材育成に力を入れることになりました。

消防署は特別救助隊を編成しました。一方、台北市政府は内政部(内務省に相当する)から経費を受け取り、年度の補正予算を組んで国際特別救助隊を立ち上げました。また民間団体の中華捜索救助総隊に慈済が二千万元(約五千五百万円)相当の救難用機器や車を寄付しました。

専門訓練を受けた救助隊員で組織する、この二つの救助隊が強化された装備を携え、二○○一年一月、エルサルバドル大地震の救援活動に国際チームの一員として参加し、役に立つことができたのです。その後も、二○○三年イラン・バム地震、二○○四年インド洋大津波、そして、二○○八年中国の四川大地震、ミャンマーのサイクロン・ナルギスなどの災害発生時に、台湾の救援団体とボランティアが現地での救援活動に参加しました。

四川大地震で救援活動に尽くしてきた慈済委員の羅美珠さんは、「私たち救援活動を通じ、地元の人たちの愛と優しい心を啓発するよう努めました」と述べました。ボランティアたちは地元の人々を誘って一緒に温かい食事を作って配りました。また、子供たちには、お年寄りの被災者を自分のお祖父さんやお祖母さんだと思って、優しく接するように教えました。このように、「受難者が受難者を思いやること」を考え出したのも、台湾中部大地震の救援経験から得た救済方法の一つなのです。

「かつてテントと仮設住宅で半年も過ごした私は、家を失った被災者の気持ちがよく分かります」。台中東勢の慈済ボランティア、陳麗珠さんは四川大地震の被災者の窮状が身に染みて分かります。四川の被災地で、慈済ボランティアが温かい食べ物をエコ食器につめて、丁寧に両手を添えて被災者に差し出すのを陳麗珠さんは見ました。この光景はまさに十年前の台湾中部大地震の感動を再現したものでした。「東勢では、多くの被災者があのお碗を今でも大事にとっておいています。また、その後、慈済ボランティアになった人も、あのお碗を愛用しています」と陳麗珠さんは感謝の気持ちをにじませながら、語りました。

貧困や災難の淵にある人を助け
善の種をまこう

「愛を広めていこう」に力を尽くしていた慈済は、海外で貧困家庭や被災者たちに物資面で援助するだけではなく、援助を受ける人々に「力のある限り人を助けるように」と導いたのです。
「僕は慈済ボランティアのように、自分よりもっと困っている人達を助けたいです」とミャンマーの農民、ウミンソーさんが自分の体験を話してくれました。二○○八年五月、サイクロン‧ナルギスがミャンマーを襲った後、ウミンソーさんは慈済が援助した肥料を受け取りました。そのおかげで、農作物の収穫は例年より十%も増加したのです。そこで、ウミンソーさんは慈済が四十数年前に「竹筒歳月」を推進したことを真似しようと、村の農民たちに呼びかけました。竹筒歳月とは、慈済がその草創期、一日五十銭のお金を倹約して竹筒に貯金し寄付したことですが、ウミンソーさんたちは一日一握りの米を余分に取っておくことを考えつきました。そして貯まった米を売って得たお金を人のために寄付するという考えでした。

世界中が金融危機に見舞われている昨今、慈済という民間の救援団体の足取りは衰えることなく、むしろさらに積極性を増しています。



地球温暖化が進み、世界中のあちらこちらで災難がエスカレートしているようです。一九九九年の台湾中部大地震から今年二○○九年の台風八号まで、この十年の間に、小さな島国である台湾の上に災難が次から次へと襲いかかりました。

この度、台風八号が発生した際、被災者を救援するため一万人を超えるボランティアが被災地へと駆けつけていったのです。この愛が凝集された力が台湾を救う原動力となるでしょう。愛がありさえすれば、たとえ一時窮地に陥ったとしてもそれは必ず過ぎ去っていくものです。そして希望の光がトンネルの向こうに見えてくるのです。


文・葉子豪/訳・心嫈