悠々とした鬼怒川の怒り、かな慈濟愛が援助に走る 

2015年 11月 27日 慈済基金会
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鬼怒川は日本関東地方北部の川で、栃木県日光市の鬼怒沼を源流とし、茨城県守谷市において利根川と合流する全長176.7キロ、流域面積一七六〇平方キロの利根川支流の中で最長の川である。古来より、鬼怒川は氾濫しやすいことで名を轟かせており、近世になって「凶暴なこと鬼の怒りの如く」との意の「鬼怒川」に名前を変えた。鬼怒川源流地の日光市は一二〇〇年の文化的な歴史があり、名所の東照宮や、付近の鬼怒川温泉では春には山いっぱいに広がるつつじ、秋には爛漫たる紅葉で、延々と続く渓谷を更に美しくしている。

九月十日、台風18号の影響で、日本関東地方一帯は暴風雨に見舞われ、同日午後には鬼怒川が決壊し、洪水が茨城県常総市を襲った。九月十四日までに、約二万棟の住宅及び商店が浸水或いは流され、断水停電したため、約三千人が三十七の避難センターに収容された。

川が氾濫し、女性部隊が前線に

水が引いた後も、鬼怒川の水は黄色く濁って激しく流れ続けていた。道が通じることが分かった九月十三日、慈濟人は常総市に救援に向かった。道順に詳しいボランティアの協力の下、一行は順調に常総市役所に到着し、災害救助調整指揮センターの市議会議員新田弘安氏及び県議会議員神達岳志氏を訪問した。彼らの協力の下、まず市役所内の物資の分配作業と住宅の清掃の手伝いを始めた。水に浸かった市役所の一階は、床は剥がれ、机の下には水に浸かった紙の束が貯まっており、一行は直ぐに重いゴミを運ぶ手伝いを行った。

十四日、十四人のボランティアが日本支部と東川口の二か所に分かれて車に乗り、市役所に到着後、三人は市役所の物資分配の手伝いをし、残りの十一人は古谷夫人に同行してもらい、常総市心身障碍者ボランティア・センターで清掃作業に取り掛かった。七十四歳の瀧本氏は、夫人は本年三月に逝去し、現在は四十二歳の一人息子と同居している。住宅付近は断水しているため、瀧本氏は実家から水を持ってきてくれて、清掃活動が行われた。

泥水に浸かった家具、特に畳は特に重く、殆ど使えない。被災後四日目には空気中に異臭が混じったが、ボランティアはそれでも丁寧に素早く四時間で清掃を終えた。瀧本氏は、ボランティアが準備した昼食をとり、脳梗塞を発症したためはっきりと話せず、動きもスムーズではなかったけれど、掃除してくれたことに感激の意を述べた。

緊急動員で避難所に「平安」を届ける

ボランティア・センターは慣れた経験で、ボランティアに保険をかけ、作業を終えてセンターに戻ったら、親切に口を漱ぎ手を洗い、靴の泥をとる水を準備した。慈濟は唯一のボランティア集団で、それ以外は現地の個人ボランティアであったが、同じ奉仕精神を持っており、疲労困憊の中でも貢献後の嬉しさもあって、互いの距離を縮めた。

市役所に残って物資の分配をしていたボランティア林秋里は、常総市職員が忙しくて昼食をとっていないことを不憫に思って提案し、慈濟は九月十五日から毎日四百人の職員に素食弁当を提供することになった。前方で実際の活動を行い、後方でそれに合わせて連携する。日本支部は、直ぐにボランティアを集めて四日間の弁当作成計画を立て始め、現地人員を支援した。

十五日、市役所に分配された三人以外のボランティアは水海道の民家の清掃を手伝った。しかし一行には女性が多く、重い家具を運ぶ手伝いには不向きである他、水が足りないために清掃支援にも限界があった。慈濟一行は午後から、避難所で被災者の慰問活動を行った。

一軒目の避難所鬼怒川交流センターは、五十人の被災者を収容していた。若い人は住居整理のために戻っており、残っているのは老人だけであった。ボランティアは避難者の話し相手になり、親切に老人に按摩をして、互いの距離を縮めた。ちょうど同じ頃に婦人警官隊が慰問に来ており、ボランティアにとっても日本人の精神を学ぶ良い機会でもあった。慰問の時間は短かったが、ボランティアの熱意と温かい笑顔によって、老人達の緊張した眉が緩んだ。

二軒目の避難所豊岡小学校体育館は、二百人の被災民を収容し、食物も日用品も足りていた。ペルーから来たマリア女史は、仕事のために三人の娘をつれて日本に来て十五年になった。これだけの大災難に遭ったため、楽観的な彼女も、眉を顰めざるを得なかった。彼女が借りている家は、大雨が来た時に一階は殆ど水に浸かってしまい、水が引いた後も殆ど一階分の高さの泥が積もっており、途方に暮れていた。

ボランティアは、女児スエミが翌日満18歳になることを知り、誕生日の1日前祝いをして、誕生日の歌を歌い、静思産品を彼女に祝いの品として贈った。スエミは感動して大声で泣き出し、「今は避難中だけれども、とても有意義な誕生日会で、慈濟人が気持ちの中の曇りを一掃してくれた。」と述べた。近くで一人休んでいた百合子女史も今日が誕生日だと名乗り出たので、ボランティアもいっぱいの祝福を送った。災難の最中で誰も誕生日を祝ってくれないだろうと思ったら、幸運にも慈濟人に出会えたと、彼女は喜んで語った。

三軒目の避難所水海道あすなろの里は、静かで精緻な建築と空間で、浴室、台所、トイレが全て備わっており、和式の部屋毎に六人の被災民が収容されていた。皆、行動が不便な老人や子どもばかりで、ボランティアは部屋毎に「平安」の飾りを配って祝福した。

天地が協和しない時、愛だけが汚れを洗い流す

避難所に連れて行ってくれた新田市議会議員は、今は非常時であり、現地に関心を示す人が増えることが助力になる、慈濟ボランティアは遠く東京から来て、皆真剣に活動する態度を見て、本当に感動した、と述べた。新田議員は、自分の能力の限り、慈濟ボランティアの愛心が形になる様、慈濟人の暖かい心に報いたいと述べた。

被災民とボランティアらが市役所を出入りする人が多く、泥土が舞い上がっていた。十六日、午前中ボランティアが市役所の入口と階段とトイレを綺麗に清掃し、給水はまだ回復されていなかったので、水を汲んでトイレで使えるようにした。正午近くに、東京から四百個の愛心素食弁当が常総市役所に届けられ、それぞれ指定されたところに届けた。午後には、台湾出身者の森優妃女史を慰問した。

十七日、災害区域で大雨が降り、市役所に来る人は減った。市役所の一階には、被災証明書を申請する多くの人が列をなしていた。ボランティアは、市役所に残り、階段とトイレを清掃し、市議会に設けた避難所の整理や、段ボール箱での暖かい臨時ベッド作りを手伝った。

五日間の被災地援助作業は、とりあえず一段落がついた。災害救助で多忙を極めた高杉徹市長が、特に時間を作ってボランティアに会いに来た。最初の最も緊急を要する時に慈濟人が支援に来て、その後必要があれば喜んで継続的に支援すると述べたことに感謝した。

黄色く濁って激しく流れ続ける鬼怒川を眺め、何時になったら清潔秀麗さが回復するのだろうかと感じた。道沿いの泥水に浸った家や草花は満身の哀しさと怨みを湛えている様であった。天地の不協和、気候の極端な反応は、無常が時間を追い払っている様である。人類は覚醒する時であり、人心が浄化され、社会が祥和して、天下に災難がないことを期待する。

訳/古谷珊伊
文/許麗香