四方八方の愛が大地の裂け目を繕う

2009年 12月 01日 慈済基金会
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飛行機はパダンの上空でゆっくりと着陸地点をさがしていました。飛行機の窓から見下ろした夜景からは、これが西スマトラ州の州政府所在地で、そして貿易の中心地だったとはとても想像できません。政府の建物とわずかな所に明かりが見えるほかは、街全体が停電状態でした。車の往来がなく、今まで繁華を極め忙しく動いていた都市は、廃墟のようでした。

九月三十日午後五時十六分、M七・六の強震がスマトラ島西部を襲い、二十三万棟を越える建物を壊し、千百名を超える命を奪い去りました。被害のひどい被災地は、パダン市とパダンパリアマン県で、海辺の大都市パダン市は一夕の間に廃墟と化しました。

その一カ月足らず前の九月二日に、西ジャワ州のタシクマラヤでM七・三の強震が発生し、一千名余りの人がなくなったばかりでした。崩れた垣根や壁のシーンがニュース映像で流れたのは、まだ人々の記憶に新しい所です。インドネシアの社会全体がまだあの震災の痛みから脱けきれていない時、パダンに起こった強震はまた人々の心を無惨に打ち砕きました。

慈済救災チームはジャカルタから航空機を貸し切って被災地にかけつけました。三十数名のボランティアが乗り込み、機内の空間にはテント、発電機、薬品類、食用油などの救災物資がぎっしり積み込まれ、一刻も早く救援物資を被災者の手に渡したい気持ちで焦っていました。

十五秒の強震が変えた人生
二〇〇六年のジャワ島中部地震よりもさらに強烈なこの度の震動は、わずか十五秒間のうちに無数の人の暮らしを打ちこわしました。

震央はパダンパリアマン県の沖合五十七キロメートルの所でした。経済貿易で繁栄するパダン市は震央に近く、百棟を越えるオフィスビルが倒壊し、病院はにわかに負傷者で溢れ、その多くは足に怪我を負った人々でした。

慈済人医会(慈済の医療ボランティア団体)のボランティアは被災地で医療ステーションを設立、パダン陸軍病院とカトリック病院に手術室を借り、負傷者の救援に力を合わせました。

「がまんして! 傷口を消毒しますが痛まないように今麻酔を打ちますから」と、人医会の看護スタッフは優しい口調で話しました。病床に横たわるラターナーはうなずきながら微笑をたたえて、うめくことはありませんでした。

しかし、体を起して、自分の足が黒ずんでいるのを見たラターナーは、「神よ! 私の足はどうしたのですか?」と悲嘆に暮れました。四十三時間もの間、倒壊した家屋に閉じ込められたラターナーは初めて自分の足を見ました。

パダンのプラユーヤ外国語学院で勉強しているラターナーは、地震が襲った時の状況を回想して言いました。「私は急いで教室から逃げ出そうとしました。その時屋根と壁が突然崩れおち、私は生き埋めの状態になりました」。両の足は二人の同級生の遺体の下敷きになって全く動くことができませんでした。真っ暗闇の中で、生きることをあきらめてはいけないと自分を励ましたといいます。

地震の後、大雨が降りました。父のソーフィヤンは学校にかけつけ、雨の中で夜おそくまで掘り探し、夜が明けるや家族をひきつれて学校に行き、救援部隊と付近の民衆などと共に救出作業を続けて終にラターナーを救い出しました。

同じ教室にいた十五名の中、ラターナーと英語教師の二人だけが助かりました。娘を救出するため不眠不休で捜索し続けた父は、「娘はもともと情熱に溢れた子で、必ずや生きのびるはずと決してあきらめなかった。私は娘が助かるとかたく信じていました」と語りました。

救済に力を尽くす救援チーム
朝の太陽が地平線から上り、傷つけられたパダンの土地に照りかけようとしている頃、各国からかけつけた救災チームは、救援活動を展開しました。

十月一日の朝まだきから、ジャカルタ、メダン、プカンバルー、シンカワン、ランプンなどの各地より、十回にわたって慈済ボランティアがリレー式で次から次へとパダンに救援にやってきました。被災地の断水、停電、通信不通を考慮して発電機、テント、薬品及び被災者が必要な各種の物資を携えてきました。

人口九十万を擁するパダン市は、建物や家屋などが倒壊しました。倒れた建物の前には親族をさがす人、ショックで呆然と立ちつくす人が集まり、その誰もが突然訪れたこの悲劇を受け入れることができないようでした。

慈済ボランティアと一緒に来た日本の救助犬訓練士は警察官と半倒壊のホテルで救出活動に協力していましたが、正午を過ぎてもまだ生還者の消息がありません。消防隊員が失望の表情で廃墟の中から出てきて、「もう生存者は中にいないようだ」と言うと、別の倒壊した建築にうつりました。

十月のインドネシアは雨季を迎え、いつでも大雨の訪れる可能性があります。各国の救難チームは道端や空地にテントを張り、臨時救災センターを設けました。被災者は縄でビニールシートをしばり、風雨をしのぐ臨時の家としました。

王雄愛さんはボランティアの協力で、ゆっくり足を引きずりながらパダン市中華街にある福徳堂に行きました。慈済は福徳堂と協力して飲み水や食用油、インスタントラーメンなどを被災者に届けました。

中風を患う独居老人の王雄愛さんは自分の家が地震で倒れなかったのを喜び、救災物資を手にした後ほっとして涙を浮べてボランティアたちに礼を述べました。「家には水も食糧もありません。幸いに皆様はちょうどよい時に助けてくれました」と。

道路を平坦にならして
山地の救援へと

災害発生から二日目、慈済のボランティアたちは、パダン市から三十キロメートル離れたパダンパリアマン県の災害状況視察に行きました。インドネシア軍の兵舎の前方に見なれた蓮の花のマークが見えました。これは軍が慈済のために特別に準備した慈済救災協議センターでした。

農業が主な産業のパダンパリアマン県は、この度の地震で住民の暮らしがすっかり変わってしまいました。夜は冷えますが余震が怖いので家に住めず、ほとんどの人は寝られなくて、食欲もない状態でした。

慈済人医会ボランティアは医療ステーションを設けた上に、さらに辺鄙な山の中にも入り、下山して治療を受けられない人々に無料診療を行いました。

パダンパリアマン県に隣接するアガム県は山地に属し、地震が引き起こした土石流が道路を中断し、重傷患者を山の下に送り出すことができません。十月四日、人医会の医者が村長からこの消息を聞いた後、ただちに徒歩で山地に入り、西マララク区の住民を訪ねました。

「飲水は不潔で、子供たちは皆腹をこわしています。山では医療が乏しく、住民は民間療法に頼っています。明日には必ずまた参ります」と慈済人医会の王潤金医師は言いました。

翌朝早く、医師たちは十分に薬品を整えて再び山地を訪れました。軍隊も同行して行く先々の山道の整理を手伝いました。

医者が山にやってくると聞いた村人は、老いも若きも相伴って診察にきました。若者は皆都市に出稼ぎに出ており、村の中はほとんどが老人と子供でした。ある人などはこれまで一度も医者にかかったことがないとのことでした。生れながらにして楽天的ですべてが運命に任せることが、村人たちの善良な顔つきからうかがわれました。

住民の多くはマレー語しか通じないので、医師たちは急いで軍人たちに通訳の協力を求めました。レイオン医師は「大多数の症状は目まいと気分が悪いというものです。恐怖のため、家に入って寝ることができないので風邪をひいてしまいました」と言っていました。

当地の四村、七百所帯の中で七名が犠牲になりました。道路が寸断されたので、下山して買い物に行くことができません。田畑は土砂で埋まり農作物は全て台無しになりました。住民は「さらに半月も道路が寸断されたら、家にある食糧が底をつきます……」と如何ともしがたい表情で訴えました。

「今日になってやっと軍人と医療スタッフが村に来てくれました」と西マララク区で代表をしているダルミントが、あらゆる困難を冒して山地を訪れた慈済人に再三感謝の意を表しました。

慈済人医会のボランティアはアガム県の西マララク、パダンハレイ、フルバンダなどの辺鄙な地域に入って無料診療を行い、さらにカンポンダラム県の兵営に収容されている被災者を慰問しました。

ボランティアはカンポンダラム県で救災ステーションを設け、三千五百セットの救援物資(飲み水、インスタントラーメン、食用油、菓子類、洗剤)を配布し、身心ともにショックを受けた住民を安心させました。

人医会の王潤金医師は「現在彼らが最も必要とするのは心のケアです。慈済人が物資を被災者に手渡して慰めることは役に立ちます」と言いました。



アガム県のティゴン谷には三つの村があり、百戸あまりの世帯が住んでいます。地震当時、村では結婚披露宴が行われており、村全体が喜びの気分に満ちていました。それが、突然の地震で大量の土石が落下、一瞬にして村はおしつぶされ、三百以上の命が奪われました。

被災から二十日余りを経た現在、救災物資の搬送車輌や航空機は頻繁に行きかい、街に屋台も立ち始めました。住民たちは苦難から起ちあがって再建に努力しています。

パダンパリアマン県のタンジュウ村に住むザイデンは地震の後、ずっと被災者避難センターで暮していますが、オートバイの修理と理髪の商売を始めました。「そろそろ商売を始めないと。いつまでも救済に頼っていてはいけませんよね」と。

故郷は深刻な災害を受けました。復興への道はスタートしたばかりです。でも住民はお互いに助けあい、四方八方から寄せられた愛と、おしつぶされた大地で世話をしてくれた人々に感謝しながら、起ち上がろうとしています。


インドネシア・パダン大地震 救助活動の状況

◆無料診療:延2301人
◆往診:延1497人
◆物資援助世帯:7426世帯
◆救援物資の内容:白米、インスタントラーメン、菓子類、ナツメヤシ、食用油、布団、テント、ミネラルウォーター、洗剤、衛生用品。また、避難センターに食糧、野菜、果物、発電機、テントを提供。
◆救災慰問金:122世帯
(2009年10月11日までに)


慈済月刊五一五期より
文: 洪江偉、張沾甯、Veronika Usha、Anand Yahya、Hadi Pranoto、Sutar Soemithra、Apriyanto、Himawan Susanto
訳: 王得和
撮影: Anand Yahya