戦火の下での支援ー世界難民ケア

2016年 4月 20日 慈済基金会
印刷
世界中の不法移民数は、2015年に史上最悪を記録した。国連難民協会の統計によると、2015年の7ヶ月間の不法移民は30万人を超え、すでに前の年全体の28万人を超えた。貧困と戦乱がもとで祖国を離れざるを得ない実態が不法移民を増加させていると言う。

2010年末、北アフリカのチュニジアで起きたジャスミン革命は、シリア内戦の勃発をも引き起こした。激烈な戦火により国民が各地へ分散、約300万人(うち半数は子供)が海外へ逃亡し、近隣国のトルコだけでも100万を超すシリア人が滞留、更にシリアからギリシャへ一旦渡り、目標とする他の欧州諸国へと向かって行った。

欧州だけでなく、マレーシア、タイでも多くの難民を受け入れており、難民の中には密入国して渡ったり、オーバーステイになっても滞留を続けたり、どんな事をしてでも自由で安定した生活を手に入れようとしていた。それ故、異国で暮らすといっても、社会的身分もなく、仕事もない上、医療保障なども到底なく、生活危機に陥っている難民も少なくない状況であった。

難民の窮状を憐れむ慈済ボランティアは、難民支援の要請を機に、現状視察を行い、現地への適切な援助内容として、物資の提供、医療支援、教育補助、家宅訪問を含めた、長期的な人道支援の道に希望の灯りを燈した。

現在、慈済ボランティアはセルビア、トルコ、ヨルダン、マレーシア、タイ及び欧州諸国にて難民支援を展開している。

セルビア
セルビアはシリア難民が欧州へ向かう際、必ず通る中継国です。欧州へと向かう難民の数が膨大ゆえ、中継国のセルビアに負担がのしかかります。この事実にドイツ慈済ボランティアは、11カ国の慈済地域ボランティアを集め、イギリスとフランスから飛行機に乗り込み、ドイツからは10数時間かけて車で5カ国を跨ぎ、生活物資と細心の配慮をこめたケアとを届けることができた。

欧州
北アフリカのジャスミン革命は拡大を続け、中東のシリア内戦の火花も衰えを見せることなく、やむなく住民らは欧州各地へ逃げ難民擁護を求め始めた。中でも多かったのはギリシャから入り、セルビアへと進み、更には最終目標とする国へと移動を続け、次第にヨーロッパ社会にも負担がのしかかるようになっていた。

ドイツ慈済ボランティアは、不定期ながらも難民キャンプへ支援を展開し、生活物資と冬季の衣料などを届けた。更に、4人の教師を雇い、異なる言葉に合わせ、難民の学生たちが継続的に学業を終えられるよう、ドイツ語学習支援を提供した。

オーストリアの慈済ボランティアも滞ることなく炊き出しを提供し、またケアを通して、故郷を離れた難民たちに、異国で少しでも温かみを感じられるよう配慮を尽くした。

トルコ
2010年、北アフリカで起きたジャスミン革命を機に勃発したシリアの内戦により国民が各地へ分散し、約200万から300万人はトルコへ逃亡したと言われている。

トルコ慈済ボランティアは、シリア難民の子供達が街頭で物乞いする光景を目の当たりにしてから、「この子供達を物乞いから学校へ通う子供達へ変えて見せる」と心に誓い、2014年9月、トルコでの難民援助活動を開始した。

物資の提供、家宅訪問、生活補助のほか、シリア籍のジュマ教授と慈済の「教育は待った無し」の考えが一致したのに加え、イスタンブールのSultangazi市市政府と教育局の支持もあり、万難を排して、2015年1月、知識が絶えずに湧き出る砂漠の泉のように「MENAHEL」と名付けられた小中学校を設立した。子供達が再び校舎へ戻って学習することができるようになった。

ヨルダン
2003年3月イラク戦争が勃発してから、ヨルダン慈済支部のボランティア陳秋華は直ちに台湾本部と連絡を取り、毛布、食糧、医療用品などの救援物資を求め、国境近くの難民キャンプにて、救援物資から文具用品まで配給し、更にシーソーや滑り台、ブランコといった児童遊園設備も整え、イラクにも食糧と医療用品を提供した。これにとどまらず、パキスタンの難民キャンプへの定期的支援も施している。

2012年、シリア内戦は止まず、それゆえ大量の難民が近隣諸国へと逃げ、うちヨルダンへ助けを求む人は約50万人と見られている。難民の受け入れ援助は乏しく、生活の困窮に希望を失っていることを知ったヨルダンの慈済ボランティアらは、定期的な救援物資の提供を始め、家宅訪問の実施によって知る医療や教育の需要に援助の方向性も定るようになった。今も活動を停止することなく続けられている。

ミャンマー
50年を超える内戦で、多くの国民が故郷を離れ、他の国へと密入国し、内戦の脅威と非人道的な待遇から逃れるも、現実的な社会の目と向き合わ合わねばならず、非合法な身分と仕事、常に取り締まりに合う危機を抱えての生活をしている。

2004年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の代表に案内されて、慈済ボランティアは視察として数カ所の難民キャンプを訪れ、まずはセラヤンのミャンマーイスラム系難民の教育センターの設立に協力し合い、子供達の為の定期健康診断と教育計画を話し合った。

現在マレーシア全土にいる外国人は130万を超した。この数は、人口構成で3番目となる印度族の従来いた人数をはるかに超えている。過多な難民から生じる社会問題も少なくはない。その中でも緊急課題としてHIVがあり、この問題に、国連難民協会と慈済が協力を組み、難民のHIV患者に適切な医療援助を施している。

タイ
かつて中国雲南省には歴史上の無数な戦闘により、犠牲となった人が無数にいた。終戦後に取り残された数万人の孤軍は、何の為に戦ってきたか彷徨うのち、1949年、ここタイ北部国境の高山地域の、荒地だったこの場所で、100に近い難民村を築いた。

1994年、当時台湾僑委会の委員長を務めた蒋孝厳氏は憐れみの心から、慈済に、タイ北部に取り残されたこれら孤軍の遺族達の面倒を見るようにと要請があった。慈済は要請を受け、翌年始めに「タイ北部支援3カ年計画」を立ち上げ、住居として慈済村の整備を始め、農業教育を施して、難民と現地の華人二世の生活の改善に取り組んだ。また、2005年には、子供達が貧困から脱出できるよう教育を通し、タイ北部にも慈済の人文教育が根付くようになった。

孤軍達の遺族だけでなく、2013年の統計によると、タイに来て自由と安定した生活を求め、国連UNHCRに登録した難民の数は、47カ国計8000人に上ることが分かった。現在、タイに駐在する米国大使館によって難民援助と医療サービスが実施されており、2014年8月に慈済米国総会と米国国務院がMOUにて、2015年より、タイ慈済事務所と月一回の「地域医療サービス」活動を展開することが決まった。

訳/鄭文秀