幸福な人生では精進植福により励まなければならない

2010年 7月 01日 慈済基金会
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證厳上人のお諭し
平穏無事な人生は幸い
無難息災は福というもの
一分一秒を
平穏に過ごせることが幸福であり
幸福な人生を送っていることに
常に感謝し
発心立願し
無量の慈悲と智慧を以って
人間で植福すべき

国連では毎年の六月二十日を「世界難民の日」と定めています。国連難民高等弁務官事務所の統計によると、昨年における世界の難民は四千三百万人以上で、この二十年来の最高記録を更新しました。

なぜ難民がいるのでしょうか? 「難」とは成り立たないということです。天災または人による禍によって、人が危機に陥り生活が成り立たなくなって、難を逃れるために仕方なくよそへ逃げて行くことです。世界の人禍による難民の数が絶えず増加している状況は、時代の悲劇であり、偏った思想の人心が引き起こした禍でもあります。

中央アジアにあるキルギス共和国は一九九一年、ソ連から離脱し独立国家になってから、貧困者は全人口の三分の一に達しました。今年の四月、政変によって臨時政府が成立したものの、社会は混乱し人民は不安に陥っていました。六月十日の深夜、南部のオシ市でキルギス系住民とウズベク系住民が衝突し、その暴動は急速に拡大して、焼き討ち、闘争が繰り広げられ、僅か十日間に二千人が犠牲になり、四十万人以上が難を逃れるため脱出しました。

これはこの二十年来でこの国で最悪の種族間の争いです。六月下旬に騒動が鎮まると共に、国境近くに逃れていた女性たちは子供を連れておいおい帰ってきたものの、家は壊されている上、追い討ちをかけるような貧困の喘ぎで、人たちはいつになったら立ち直れるのでしょうか? 政府や国際人道救援団体はどれだけ救援できるでしょうか? 遥か遠い復興への道に人民はどこへ行けばよいか分からないでしょう。

人心が不均衡の時、ちょっとした間違いが争いの発端になりかねません。一つの衝突が社会全体の引き金になって国家が動乱すると、無数の人が行き場を失って流浪しなければならず、その塗炭の苦しみは筆舌に尽くせません。

宇宙はすべてが「行蘊(ぎょううん)」の中にあって、絶えず移り変わっています。巡り来る日月は一瞬たりとも留まってはいません。人体が絶えず新陳代謝を繰り返しているように、人の心にも絶えず生、住、異、滅(生じ、とどまり、変化し、消失すること)が回ります。もしも、瞬時でも心が正しくない時、己の損になるばかりでなく他人にも害を及ぼします。心の僅かな歪みは人間の禍のもとになるのです。



世の中ではどれだけの人が貧困と苦難に陥っているでしょうか?人間菩薩は衆生の苦難を見るに忍びず、助けの声を聞き苦しみから救っていくことを発心立願し、どんなに遠くても災害の地に赴き両手を差し伸べ、優しく慈悲と智慧を発揮して衆生を苦難から救い出さねばなりません。

南米パラグアイのシウダー・デル・エステ市の慈済人は、定期的に遠隔地の村落で訪問ケアをしています。今年一月、インディオの人々が暮らす貧しいヒメネス村で物資配布をしていた時、子供たちの教育に問題があることに気がつきました。小学校は四本の木を建てた上にわらで覆った粗末な教室で、木を長方形にくじったのが本棚、雨が降れば地面は泥だらけです。子供たちがこんな環境で勉強しているのを見るに忍びず、慈済人は新しい教室の建築材料を提供しました。

交通不便の山地はちょうど雨季でした。建材運搬車がぬかるみにはまって動けなくなることもありましたが、慈済人は辛抱強く三カ月かけてついに新しい教室を完成させました。

教室と教員室の三間だけの簡単な学校ですが、村では最も豪華な建物です。村人はお祭りの日と同じように、伝統のお祈りと楽器の演奏で感謝と喜びを表し、慈済人も机と椅子、制服、靴、靴下、文房具などを持参して参加しました。

人生の希望は教育にあります。道がどんなに険しく遠くても慈済人の心はくじけません。でこぼこだった教育の道を平にして、子供たちが未来へ向かって歩めるよう尽力します。

「大慈心」を用いて   平坦な路を敷く
「大悲心」を用いて   大きな橋を築く
「大智心」を用いて   安らかな家を建て
「大慧心」を用いて   安楽の生活に

慈済人は無量の慈悲と智慧を以って衆生の苦を取り除かねばなりません。「大慈心」で艱難の路を平らにする以外に、「大悲心」を用いてすかさず受難者を慰め、同時に橋となって苦難の人を平安の境地へと導かねばならないのです。

去年の九月、フィリピンが台風十六号に襲われた時、慈済はマリキナ市で被災者雇用計画を実施し、災害後の片付けに協力した被災者に賃金を支払い、復興の心の支えとなりました。その時に参加した人たちは、見習いボランティアになって、その後研修を受け正式に慈済ボランティアになっています。今では、タバコ、飲酒、悪い言葉使いといった悪習を改め、慈済人と生活保護世帯の訪問ケアや環境保全活動に参加しています。

心を転換させれば同じ人生でも、異なる感じを得ます。知らず知らずの中に感化の作用を起こす慈済文化の影響を受けて、無力感に陥らず、人に助けてもらう側から人を助ける側になっているのは愛の循環の始まりで、智慧を用いて橋をかけ、苦痛の人を安楽の彼岸へと導いています。

大慈心で路を敷くだけでなく、大悲心で橋もかけるのです。慈済人はまた大智心を用いて苦難の人に安らぎの家を建て、大慧心を用いて人々が職を得て楽しい生活ができる手助けをしました。

中米のホンジュラスでは今年の五月二十九日、熱帯暴風雨「アガサ」の来襲を受けて、十八省のうち十省が被災し、二十名が犠牲となり、一万六千人以上が避難所に収容されました。
近年のホンジュラスは経済不振や昨年六月の政変などで多くの中産階級は貧民となり、台湾商人もほとんどが引き上げるはめになりました。慈済人の張さんも最近失業しましたが、智慧を働かせて奉仕しました。

避難所へ慰問に行った時、子供たちが栄養失調に陥っているのを見て忍びず靴を贈りました。さらに十四ポンドの大豆を買って、避難所の女の人たちに呼びかけて豆乳の製造法を教え、おからにトウモロコシ粉をまぜて練ってパンのように焼くことを教えて、二百人以上の被災者が栄養補給をすることができました。長い間飢えていた子供たちは喜んで飛び跳ね、病気の子供までが嬉しそうに張さんに抱きつきました。

慈済人は全世界で愛を貢献し、人の群の中で慈悲と喜捨を行ってきて、もっと多くの人を苦しみから楽に導くように努力しています。

毎日が唯一の一日
毎一秒もまた唯一の一秒
どんなに短い瞬間、秒間でも
慎重に真剣に
運用すべきである

時、分、秒は刻々と過ぎ去ります。人生では毎日が唯一の一日です。どの一秒もまた唯一の一秒で、その一秒の過程の中には事の起きる因縁があるのです。それ故、どんな短い瞬間または秒間でも慎重に真剣に役立てなければならず、ぼんやりと知らぬ間に時を過ごしてはなりません。

人生における難というのは自分の心にある障害です。これが困難から踏み出せずに困難にさせているのです。その実、人は誰も無限の力が備わっていて、心の中のもろもろの悪を克服し、発心、立願すれば、どんな困難も通り抜けて種々の困難は自然に克服できます。反対に心の悪を克服できなければ、どんな簡単なことも心の障害になって事はますます困難になります。

「法」は船のように、凡夫をこの岸から聖人の彼岸まで度していくことができます。人々には清浄の本心があるから、覚悟することができます。しかし、座して法を聴くだけで衆生の中に入らなければ体得することはできません。もしも、単純な心で奉仕し法悦を体得すれば、自分を度するだけでなく人をも度することができます。

人と人が互いに関わり合って共業(ぐうごう)がつくられます。たとえ世の中に対して何も捧げられないと思っていても、少なくとも自分の心を整えることができるのです。どんな点、線、面も始めの一点から始まり、その最初の小さい点は、無数のあなたたちと私の心から始まります。それで人々は心の動きに慎重でなければなりません。

人生で阻害のない平穏は幸いで、順調無難は福というものです。幸福な人生を送れることについてすべてに感謝し、一刻一刻に感謝しなければなりません。

福のある平穏な地に生を受けている人々の発心を期待し、常に戒に慎み敬虔な心を固くしてこの世で福を植えることを願ってやみません。

慈済月刊五二三期より
訳・慈願/絵・林淑女