清浄の法水に慈悲の船は衆生を渡し 彼岸へと運ぶ

2010年 6月 01日 慈済基金会
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證厳上人のお諭し
太陽が焼けつく旱魃の地には
春風の清涼と雨露の潤いが必要
傷ついた大地に
絶えず法の水が湧き上がり
善の種が芽生え
豊かな畑となる
清浄無垢の水が慈悲の船を運び
苦の衆生を渡し彼岸へ運ぶ

四十四年前の旧暦三月二十四日、仏教克難慈済功徳会が成立したその日に、花蓮普明寺で第一回の薬師法会を催しました。たった六人で「薬師経」を唱え、敬虔な心で天下の苦しむ人のために祈りを捧げ、奉仕する人に祝福を送りました。

慈済が四十五年目に邁進した今年五月、国内外合わせて百三十四カ所の慈済の道場で同時刻に薬師経を唱えました。それぞれの国で人々が整然と並んで敬虔に読経しているのをテレビの画面で見て、各地に時差があっても、人々の敬虔な心と清浄無垢の愛は同じであることに感動させられました。

自性を沐浴させ
無明を清浄に変える――
心の鏡を磨き
事理をわきまえる
心と行いが一致した
真心の善を行い
心身共に清浄なれば
この世は安寧になる


五月の第二日曜日は仏陀生誕の日、母の日、世界慈済の日の三つのお祝いが重なったおめでたい日で、世界各地の慈済支部では潅仏会(かんぶつえ)を挙行しました。それぞれの場所で慈済人たちが一列に並んで、敬虔に「南無阿弥陀仏」の法号を唱えながらお堂の中を廻る「繞仏繞法(注1)」の儀式を行っていました。参加しに来た人々が蓮の花と菩提の葉の模様を表現し、上から見ると無数の花と葉が揺れ動いて、まるでそよ風に吹かれて生き生きとしているようです。皆は「仏陀がこの世に生誕された一大事」の喜びに浸っていました。

この荘厳盛大な式典は、何カ月にも亘って団結して準備してきた有志ボランティアがあってこそ成功したのです。お互いが自分の身分を気にかけず、心を一つにして、この類まれなる全体美を作り出したのでした。

今年の潅仏会のテーマは「菩提の大道」で、菩提とは「覚(悟り)」ということで、菩薩は悟りを求めて修行する人が迷いの夢の覚めた有情だから、「覚有情(かくうじょう)」といいます。慈済は四十四年来、正に無数の「覚有情」の人が「静寂清澄」の心を抱いて投入し、目標に向かって万難を克服し、堅い志で菩提の道を広く広く歩んでいます。

静寂清澄とは清浄で煩悩なく、雑事にも染まらない心霊の境地で、くもり一つない鏡のように万物を詳らかに映し出します。もしも、人の心が塵に覆われていれば、清浄の本性を映し出せず道徳は徐々に衰退してしまいます。いつも心の鏡をきれいに磨いていれば、すべてが明瞭に見えます。

人心が清浄でなければこの世の安寧は保たれません。潅仏会で仏陀に甘茶をかける時、仏陀の徳と法の中に自性を沐浴させます。無明をはらい、傲慢な心を抑え、煩悩やこだわりのない少欲知足の人になることを願うのです。

潅仏会の式典で国籍や民族、信仰の異なる人々が、お互いを尊重し宗教の真善美をかもし出す光景は感動的で、最も美しい浄土です。

世の中のすべてのことは
一人ひとりに責任がある――
それぞれの職務に
善を尽くす責任がある
人々が使命を堅く守れば
社会に希望が現れる


慈済四大志業(しぎょう)である慈善、医療、教育、人文のすべては社会の需要に応えて行ってきました。四十四年間歩む中で様々な困難もありましたが、慈済人の堅い使命感と、発心立願した奉仕は社会に希望をもたらしました。

五月八日、台北慈済病院開業五周年目にあたって、趙有誠院長は病院の前から広場を通って病院のロビーまで一同を統率して朝山(注2)を行いました。敬虔に「南無阿弥陀仏」の仏号を唱えながら、三歩歩いては跪いて礼拝をするのです。前後左右お互いが気をつけて協力し合わねばなりません。整然と歩調を合わせている人たちは実に和やかでした。

台北慈済病院は十年の建設期間を費やし、ついに五年前のこの日に開院しました。それから五年間、ボランティアは父母のような心を持って他人の痛みを我が身に感じて患者に接し、医師と看護師は「生命を守る、健康を守る、愛を守る」という精神理念を心に刻んで輝かしい成果を上げました。万難を克服して初心を守り通しています。

人は「世の中のすべてのことは一人ひとりに責任がある」という使命感を持つべきです。どんな職業に従事しても責任を負うことを肝に銘じていなければなりません。

「病」は人生最大の苦しみです。言葉では言い表せない病苦を直ちに癒してくれる人は、命を救い再生させてくれる恩人です。そのため医療は不可欠の職業で、従事する人は使命感を持たねばなりません。

教育に携わる人もまた一種の使命を帯びています。ただ知識があってもよい仕事ができるとは限りません。智慧があって、無明に覆われなければ、なすことすべては他人を利することができます。教育の使命とは、知識から智慧へ導いていくことです。

信解は重要、精進も重要――
信じて体得して
さらに発心立願する
困難を克服して精進に励む


仏陀は心、仏、衆生に分け隔てはなく、人種や民族、肌の色にかかわらず皆清浄な本性を具えていると言われました。南アフリカの貧しいズール族の慈済ボランティアは、発心立願して自分よりも貧しい人々のため奉仕に行っています。

そのうち、法名慈布のブレンダさんは自分よりも貧しい病苦を抱える家庭や孤児の世話をして、「私はまだ奉仕することができるから、その人たちよりも幸せです」と言っています。

今年の四月、慈布さんは突然体調を悪くしました。ボランティアたちが見舞いに行った時「まだ多くの人たちが私の助けを待っているから倒れるわけにはいかないわ。あなた達と一緒にいかなくては」と、なおも奉仕に行こうとするのです。ボランティアたちに連れられて病院で検査したところ、結核菌に侵されていることが分かりました。薬をもらって一月足らずで皆と海岸の清掃に行けるようになりました。

その日、皆がにこにこしながらゴミを拾っていると、三人の若者が近寄ってきました。年寄りたちが貧しいながらも、自分たちより貧しい人の世話をしたり、また清掃していることを知って恥ずかしくなりました。「五体満足の私たちは今まで盗みをしていたが、これからは心を入れ替えて絶対盗みはしません」と誓いました。

慈布さんたちは勇敢に逆境を受け止め、信解(注3)に精進して困難をものともしません。どんなに苦しくつらくても、堅い心で奉仕を続ける忍耐力と気力は実に尊いものです。仏教信者ではないが因果を信じ、布施、持戒、忍辱、精進をやり遂げている人生は貴いものです。

菩薩は善の種を蒔く
菩提はあたり一面に現れる――
焼けつく炎天下は
言い尽くせない苦しみ
それでも優しいそよ風と
雨露に希望が湧く
人々に涼を与え
大地を潤おす


二年前の五月十二日、四川では大地を揺るがす大地震に八万人以上の死傷者と行方不明者を出しました。家を失った人、一瞬にして家族を失った人々の悲しみは筆舌に尽くし難いものです。慈済人は直ちに被災地へ赴き、食事、医療、生活物資などを提供し、その後も長期に亘って被災者を家族のように見做して真心でお世話してきました。すべてを失った人の心の痛みを和らげ、身寄りのないお年寄りを励ましてきました。二年間に亘る支援の間に当地のボランティアを養成し、その人たちは奉仕する中で他人の苦を見て自分の福を知り、段々と悲痛から抜け出すことができました。

絶え間ない愛の奉仕は、子供の心にも焼きついています。ボランティアのケアで地震の恐怖がうすれ、勉強に精を出し、父母に孝行し、人に尽くさなければならないことも教わりました。長期に亘った慈済の奉仕に、今では「善行、孝行は直ちに」の観念が、被災地の什邡市洛水鎮では風紀となっています。

慈済が四川に十三カ所支援して建設した希望工程の学校は、安全と美しさを重視した学びの殿堂で、代々に亘って安心して学べるようにと細心に注意をはらって設計しました。今年の四月、子供たちは板張りの仮設教室から新しく建てた学校に移る時、二年間世話になった臨時教室に感謝の手を振り、嬉しそうに新校舎に入りました。

ボランティアも学校側の要請を受けて人文教育の理念を伝えました。洛水慈済小学校の権少強校長先生は全校禁煙化を目指し、子供たちが花の香り、書の香り、読書の声に満ちた学校にすることを誓いました。こんな教育がもたらす将来は必ずや素晴らしいものになるに違いありません。

共に歩んできた中で、この地方の人々が奉仕に励み、菩薩の愛が日々成長してきました。教師や先輩が模範を示して、子供たちが礼儀正しく勉強に励んでいます。傷ついた大地に希望が芽生え、菩薩がこの地に種を蒔き、菩提があたり一面に生まれたかのようです。

人生の無常において
貴いことは助け合い――
心を合わせれば
「大きな心」に成就する
毎秒毎秒力量は倍増して
この時代に大願が成就する


「無量義経」に「智慧日月、方便時節、扶疏増長、大乗事業」とあります。慈済志業の慈善、医療、教育と人文は言うまでもなく、すべてが春雨の甘露のように衆生を潤します。大地に春が訪れれば、乾燥の地、灼熱の土地は万物を育む緑豊かな地と化します。

貧や病に襲われた人を見たら、すぐに必要なものを与え、すかさず手を伸ばすこと。災難の時に、優しく慰め労ることが即ち「智慧日月、方便時節」の善用です。すべての衆生が菩提を芽ばえさせ、地下に根を下ろし地上で茂っている状態が「扶疏増長、大乗事業」ということで、この世の苦難にある衆生をただちに救わねばならないのです。

所謂「発大心」とは無数の人の心を一つにしてこそ、成就できるということです。かりに自分一人だけの発心では、どんな大願でもただの一つに過ぎません。無数の人の心が合わさってこそ「大きな心」になるのです。

「一念(一瞬)」はごく短いが、積もれば「一劫(いちこう)(長い時間)」になります。人々が同じ一刻に同じ信念を発揮して同じことをすれば、心は呼応して力量は何倍にもなります。こうした瞬間が連続して千古の歴史を織り成します。

一刻一刻を把握して無数の人の心を結合して、あなたの一秒と私の一秒、同じ考えで、分秒を善用して手を携え、正しい方向に向かって前進すれば、一秒は無限の長さになってこの時代に大願は成就します。



月日は水のように滔々と流れていきます。水は船を浮かべさせるが、転覆させることもあります。時を善用すれば諸々の法に通じます。かりに、留まっていれば大波が襲ってきた時、船は転覆します。

長い時の流れの中で、どんな短い間に発生した事柄も生命の歴史を創造します。この短い秒間において「越せない」ことがあれば、一生消えない痛みになります。

苦難や無常に遭った時、必要なのは慈悲の船と法(のり)の水です。慈悲の船に乗って苦の岸から楽の彼岸を目指します。しかし、船があっても水がなければ動けないし、あるいは座礁してしまうでしょう。

「法は水に譬えられる」とは智慧を運用して、絶えず心霊の法水(ほうすい)を湧き出させ、その流れが静かに波立たないよう穏やかなことを示しています。私たちは大悲と智慧を同時に働かせ、常に法水を蓄積して、衆生を運ぶ慈悲の船となるよう努めましょう。

(注1)繞仏繞法:一列になってお経を唱えながらお堂を回る作法
(注2)朝山:人数によって三列か四列に並び、一定の場所から仏号を唱えながら三歩歩き、跪いて礼拝を続けて目的地に向かう礼拝の仕方
(注3)信解:(仏語)仏教を信じることによって教理を会得すること

訳・慈願