愛を用いて菩提の大道を敷き詰め

2011年 7月 27日 慈済基金会
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證厳法師のお諭し

愛を用いて菩提の大道を敷き詰め
覚有情の道を開こう

心の扉を開き
法を聞いて会得する
心の塵を落とし
明らかな自性に戻って
さらに菩提の大道を
愛で敷き詰め
覚有情(かくうじょう)の道を開こう
水の如き正法を
泉のように湧き出させ
世界の人心浄化に尽くそう

五月十九日と二十日の二日間に「法、水のごとく蒼生を潤す、環境保全の実践で人文を広めよう」と題し、経典を解釈する演劇が花蓮の静思堂で上演されました。八月には台湾全土で上演されます。

演じる人たちは奥深い微妙の義を表現していました。鐘の音に始まり、悠揚せまる大千世界に、透徹した仏法をこの世に広めます。続いて希望を象徴する雷のような太鼓の音が、夢にうなされている人人の目を覚まさせます。舞台で演じている大勢の人たちの動作には、法が如実に現われていました。両の手が千手万手に変化する様、一挙手一投足すべての動作が法を体現していました。

これは演じているというよりも、まさに経典の中に入り込んでいます。芸術に留まらない真の修行であり、互いに和、協力、忘我の境地に浸り、観衆と一体になっていました。私はその時、《法華経》に出てくる常不軽菩薩を思い起こしました。常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)は万人に向かって「あなたは仏となる方。あなたを決して軽んじません」と言って人人を礼拝し続けました。舞台を観ながら、なぜ常不軽菩薩が人人を菩薩のように見て敬虔な心を起こし礼拝をしたのかを会得し、私も舞台で演じている人たちが菩薩に見えました。舞台の上のすべての人に限りない敬愛と感謝の念を感じました。そこは正に人間(じんかん)浄土でありました。

その人たちがあってこそ、この美しい場面があることに、私は身震いするほどの大きな感動と感謝の念を覚えました。



慈済設立から四十六年目に入ります。もし理想を掲げるのみで行動が伴っていなかったら今日の慈済はありません。私の理想に人人の応えがなかったら今日という日はありません。今日ある慈済は、彼我みなで造り上げてきたものです。皆さんが力を合わせたからこそ、この美しい世界を織りなすことができたのです。一滴の水など微微たるものだと、自分を軽く見てはなりません。

四十五年間、一秒一秒を細心に慈済のため尽くした人人に感謝します。私が皆さんの恩に報いられる唯一つのことは、皆さんが慧命を増し、経典に入るために「心の工事」を起こすことです。

天災や人禍は、どれも人心の現われです。なぜなら人心の不調により心の塵が積もって大地を傷つけたのです。仏陀が、この世にこられた最たる因縁は、人人の心を法に導くためでした。

「法」は永劫に不変で、昔も今も違いはありません。二千年前に仏陀が行われた説法は現在でも適用できるものです。ただし、仏法を広めるには、現在の衆生の根に応じ折を見て教えなければなりません。

仏法はこの世においては普遍であるべきで、口先だけで言うものではありません。仏法を講釈する上で、あまりにも難しい道理を言うのでは分かりにくく、居眠りをする人が出るかもしれません。その上長くなると興味がなくなり、こちらから聞いてそちらから抜け、半分も理解できません。

慈済は経蔵演劇を通して法を広めることにしました。奥深い微妙な法を簡単で分かりやすい詞に直し、メロディーをつけさらに手話を加え身ぶりで表現しています。人は目で見て耳で聞いて心に刻み込み、「心の環境保全」になります。

慈済四十五周年を推進するため「法、水のごとく蒼生を潤す、環境保全の実践で人文を広めよう」の経蔵演劇を催そうと、台湾全土の慈済人が立ち上がりました。この数カ月、各地で私の著作『法譬如水――慈悲三昧水懺講記』の勉強会が行われ、人人は斎戒し心を清め悪習を取り除き、練習に励んで心身を「経蔵」に集中させていました。台湾で「大懺悔」の道場を開くことが叶い、さらに進んで世界に推し進めることを期待しています。

我を忘れ、大衆と共に――
彼が私を教え
私は彼を教え
手と身は意のままに
妙法となる

五月十六日から五百人以上の人が経蔵演劇の公演に向けた五日間に亙る訓練に参加するため、花蓮に集合しました。この人たちは各地区の「種子」(慈済委員)で、数カ月間各自の地域で出演者のみんなに経蔵演劇の手話を指導しています。そして今度は花蓮の静思堂へ集合して、ほかのグループと合同練習をすることになったのです。

手術をしたばかりの人、身体が不自由な人、長く病を患っている人、またお年寄りまでが、経蔵劇に参加したいと強く望んで、花蓮までやってきました。練習中は何時間も立っていなくてはならないのです。それでも万難を排して一途に法へ入ろうとしている姿は、苦行さながらです。

修行は単に自分を修めるだけではありません。人との和はさらに大切で、自分を修正してから人に合わせなければなりません。我を取り除き、とらわれなく、お互いが協力してこそ全体美を創造することができるのです。

この劇のために舞台の上や舞台裏で動く全てのスタッフは、己の我を押さえ、皆に合わせようと努力していました。人人の身、口、意は法の中にあり、その立ち居振る舞いは、手足が意のままに動き妙法を醸し出していました。その上、人人の懺悔、斎戒は無明雑念をなくし、清浄な心で妙法に入る境地は真の大修行でした。

勉強会の中でひたすら聞き、思考し、修め、さらに会得します。演劇の中に、経文は歌詞となって心にしみこみ、人の心にも響いて人人を啓発しました。皆が心を一つにして仏陀の正法を世界に伝えることは、真の功徳無量です。

慈悲と智慧を修め――
この世に真理を推し進め
衆生の水先案内になって導こう

人類が長い間共業(ぐうごう)を積み重ねてきたために、人禍天災が起きています。世の中が平穏になるには、人人が己の心を調節し、本性の愛を発揮することです。心が調和すれば天地の四大(水、土、火、風)が調和することができます。

人の心にある欲の扉が開くと、欲望は収拾がつかなくなり身、口、意は十悪業を造ります。身が「殺、盗、淫」を働き、口は「妄語、二枚舌、綺語、悪口」を吐き、意(心)は「貪、瞋、痴(とん、じん、ち)」であるなら、この世の禍になります。

修行は簡単なことではありませんが、欲念を断てば誘惑に負けません。道場の力、人の力を借りて相互に成し遂げると、悪習を絶つことができ、法を心に引き入れることができます。常に懺悔し己を戒め、心の雑草を取り除いて人生の正しい軌道を歩みましょう。そしてさらに衆生の心をも耕して、菩提大道へ導き、共に前進しましょう。

修行はジャングル、道場だけにとどまらず、人人の間に入るべきで、至る所が道場です。仏陀は慈悲と智慧を「両足尊」と譬えられました。両足で平衡を保って踏み出せば自由に行動ができると譬えられたのです。それで私たちは、慈悲、智慧を具えることが重要です。慈悲と智慧が具わってこそ、水先案内人のようにこの世で真理を広め、衆生の心を安らげます。衆生の心が安らげば、四大は調和し宇宙は安定します。

経蔵演劇を通して人人の心の扉が開かれます。法を聞いた後、さらに愛の菩提大道、覚有情の路も開かねばなりません。
慈悲の船を台湾だけでなく、大愛テレビを通して世界の海に向けて出しましょう。菩提大道と覚有情の路を各国で一段一段つなぎ合わせれば、人の心は感動を受けて動かされ、「自覚覚他、覚行円満」になります。

聞、思、修(もん、し、しゅ)――
敬虔に法を聞き
静かな心で思考し
さらに着実に修行する

仏法は人心を調和させます。人の心にある恨みや怨りを鎮め、社会を争いなく平穏にします。仏の道を学ぶ者は心に仏がなくてはならず、行動の中でも必ず「法」があるべきです。

では法は何処から来るのでしょう。法を聞くことです。法を聞いて心に法を入れます。法が心に入ることとは思うことです。聞、思、修の中で最も大切なのは思、すなわち思うことです。この生涯で如何に教えを受けて行動に移すかをよく思考し、永久に法を修め、片時もそれから離れてはなりません。

仏を学ぶには、心は聞、思、修から離れることなく、よく思考しさらに着実に修行する必要があります。法が心にあると、聞くことができ、思考すれば修行し、使い尽くせない法があります。四十八年前私が帰依した当時、恩師に「為仏教、為衆生」(仏教のため、衆生のため)という六字の言葉を戴きました。たった数秒間の短いお諭しでしたが、私は今ある一刻を無駄にせず刹那を大切にすることを終身奉じて、絶えず慈済を推進させてきました。私は刹那を大切にすれば「方法はあるものだ」と信じています。

修行とは一両日や一年五年ではなく、生涯かけて行なわなければなりません。「修」は心の修養、「行」は端正な行為をいいます。法を聞いて心に、その上日日の暮らしの中では堅い「戒、定、慧(かい、じょう、え)」が必要で、戒から離れると修行はできません。戒があると心は乱れず、心が定まると智慧が生まれます。人人は「聞、思、修」の上に「戒、定、慧」をもって菩薩道を勤め励めば、それこそ真の福と智慧が具わります。

人人が法を心にしっかりと持ち、心の垢を洗いさらに明らかな自性を持つよう期待しています。人人はもともと仏と同等の清浄な覚性を具えています。「一性圓明無増減」とは、たとえ六道に輪廻している中でも、終始「如來真性」という清浄な覚性から離れてはおらず、「如来の本性は永久不滅である」ということです。

しかしながら一念が無明に汚されると、迷の中で堕落します。こうなったとき、速やかに目覚めることが必要です。心の汚れと貪を一つ一つ取り除いて、過去に造った業または今生に犯した過ちを拭い去れば、清浄な本性に帰ることができます。正信、正念、正思を以て、軽安(きょうあん)自在に正道、正法を行うことです。

真の斎戒懺悔とは過去を反省し、その上身を以て行い励んで、再び過ちを犯さないと堅く守ることです。過去の過ちを懺悔すれば、心は清くなり、再び汚染を受けることもありません。これこそが真の修になります。

身、口、意をよく保ち――
心正しく
法が盛んであれば
法は身辺を護る

仏典の中にこんなお話があります。ある一人の居士(在家の修行者)が宿へ入りました。部屋には出家僧がいて食事が運ばれるのを待っていました。僧は、居士が入ってくるのを見て、立ち上がり恭しく両手を合わせました。居士は、自分こそ僧に礼を尽くさなければならないのに、どうしてこの僧は自分にこのような礼を表すのか、と不思議に思いました。僧に自分の疑問を伝えると、僧は「あなたは戒律を堅く守って、修行を積んでいるので、周りには五人の護法神がおいでです。私はそれに及ばない自分が嘆かわしい」と言いました。

それを聞いた居士は傲慢な心が頭をもたげ、食事が運ばれてくると遠慮なく箸を取って食べ始めました。それを見た僧は頭を振りました。居士が「お坊さん、あなたはどうして先ほどと態度が違っているのですか」と聞くと、僧は「あなたは護法神を追い出してしまいましたね。傲慢な心を起こしたために正気が消え失せ、護法神は出て行ってしまわれたのです」と答えました。

ふだんの生活で心を正しく持ち、法を守っていれば、護法神は身の周りでもろもろの妖怪を阻止してくれます。修行で一念を保つのは困難です。人の称賛を受けて、傲慢心が芽生えると護法神は去っていきますから、常に警戒心を怠らないことです。心正しく、法が盛んなら、護法神は周りにいますが、邪な心を起して正気が消え失せれば、代わって鬼が身辺に現われます。



仏陀は菩薩道へ入るようにと常に呼びかけておられます。しかしながら成仏の路は遙遠です。そこで仏陀は一つまた一つと化城をお造りになって目標とし、力を出せば到達すると励まされています。化城とは目標のことです。四十年以上前に慈済が誕生してから、私たちも化城すなわち目標を掲げて実現のため邁進してきました。

初期の頃、慈善志業(しぎょう)が安定した後、私は皆を励まし病院建設を目標に掲げました。病院が建った後、慈善、医療、教育、人文、国際援助、環境保全、骨髄バンク、地域ボランティアの「四大志業、八大法印」と相次いで志業を広げ、生命を救い、慧命を啓発できることを期待しました。

これまで歩んできた長い道のりで、無数の人が次次に合流し、一つまた一つと目標を達成させることができました。今、天地は急を告げ、災難が頻発しています。慈済人はさらなる使命を担わねばなりません。法の修行は休むわけにはいかず、慈済の精神は絶え間なく「大懺悔」の道場へ人人を引導して、如来の真実義を会得しなければなりません。

人人が正法を心に、心の修養に日日努め、常に正しい行為で、正法をこの世に伝えて、水の如く湧き出る泉のように天地人間を浄化しましょう。人人が心に正法を抱き、細心の愛を持って菩提大道を歩み、妙法を日日の暮らしの中で活用することが私の最大の願いです。

慈済月刊五三四期より
訳・慈願/絵・葉錦蓉