この世での最大の享受とは

2011年 8月 31日 慈済基金会
印刷
證厳法師のお諭し
瞬時にして去り行く人生は
草露(くさつゆ)や夢幻(むげん)の如く
何の貪り
こだわりがあろう
救出した苦難の人々が
苦から逃れ
喜びの笑顔となることが
人生で最大の享受である


東日本大震災が発生して四カ月以上が経った七月中旬、慈済ボランティアは再び被災地へ赴き、三日間で六千四百世帯の被災者に二度目の住宅被害見舞金配付活動を行いました。ボランティアがお年寄りを優しく労わりながら付き添って階段を上る姿は、物資の援助よりも温かく感じられます。被災者が浮べている笑顔を見て、ボランティアの苦労は幸福に代わりました。暑さも厭わず喜んで奉仕している姿、これが人間(じんかん)菩薩(この世の生き仏)の愛です。

慈済人は相手を尊重して奉仕し、奉仕のできることに感謝し、苦難の人が苦から逃れ笑みを浮べたことを最大の享受と感じています。



複合的な災難に遭遇した日本の復興事業は大がかりです。被災地の瓦礫はまだまだ取りはらわれておらず、二万人以上の人が未だ避難所で過ごしています。震災後各種のエネルギー源は緊迫し、政府は節電、節水の措置を施行しています。

今まで冷房のきいた快適な生活に慣れていたのが、災害後は生活が一変して、異常気象の炎天下の真夏でも節電のため冷房を思う存分使えなくなりました。また四万世帯の人たちが正常な供水を受けられず、飲み水や風呂に困難をきたしています。ニュースの報道によると、六月から現在までに熱中症患者が激増し、すでに一万人以上の人がかかり、二十人以上の人が亡くなっています。

首都の東京でも同様に節電を強いられています。駅など多くの公共の場では、空調調節を最小限に押さえ、車内や駅の構内などは明かりを落とし、オフィスでは「節電のため三階を上る時や五階を下りる時はなるべく階段を利用して下さい」と張り紙がしてあります。

足は歩くためにあります。しかし残念ながら、現在多くの人は休日にわざわざ山へ登るのに、毎日の階段の上り下りをしないのでは、体の機能が衰えます。今すぐに健康のためという気持ちですれば、体の良能を恢復させることができます。

電力不足、水不足はつらいものです。苦しんでいる被災者を見て、我々も反省と覚悟をし、その上警戒しなければなりません。生活様式を改善して快適さばかりを求めず、資源を浪費せず、気候が不順にならないよう、災難をなくすよう努めましょう。

報道によりますと、米国では生活習慣を変えて享受を押さえています。食べ物は小量に、使う物は最小限に、飲料水と弁当を持参することを心がけています。これは喜ばしいことで、人々が覚悟し、自分の生活習慣から調整を始めれば、悪化する環境を改善させることができます。 

享受することは容易だが 
苦に耐えることは至難
安らぎは
心の中の愛から湧き出る
平安は己への戒めと
敬虔な心により得られる

最近米国でも熱波の襲来で、気温は四十州にわたって摂氏四十度近くまで上昇しました。政府は家々ではなるべく冷房を使わないように勧告し、低収入家庭には扇風機を補助しています。

かまどのような暑さに農作物や家畜も減りました。しかしながら、世界の人口はウナギ上りに増加し、今年の十月には七十億を突破すると予測されています。これから見ても、人類の生活に危機が迫っていることが分かります。

実際、北朝鮮ではすでに危機的状況が現われています。長期に亙る食糧不足に加え、水害のため僅かな農作物しか収穫できず、百万人が飢餓に陥っています。頑として国際支援を求めなかった北朝鮮も、今では国際NGO団体に支援を求めています。

慈済はカンボジアで一九九四年から一九九七年の間に八回の支援を行いました。ある日、お米を配付していた時、痩せた赤子を抱いた母親が並んでいたのを慈済人が見つけました。うつろな目をしている母親に慈済人が近づいてみると、抱いている赤子はもう息絶えていました。母親に知っているのかと聞くと、「分かっています。でも家にはまだ六人の子供がお腹を空かして待っているので、列を離れることができません」と言うのでした。

なんと痛ましいことでしょうか。世の中で病苦の多い時、平安で福のある人は苦を見て己の福を知り善の心と愛を発揮します。愛と善の力量で、速やかに苦難の人を助ければ、世の中の苦しみを和らげることができます。各地で頻繁に発生する災難に多くの人が苦しんでいます。もし人々が節度を持って欲望を押さえ災害地へ支援に赴けば、速やかに復興ができると信じています。ただ残念に思うのは、多くの人が独り善がりで、遊びと享受のためにお金も労力も消費していることです。

享受することは容易なことですが、苦に耐えるのは至難です。以前の華人は倹約し苦に耐えて家を興していました。これこそが社会を安定させ家庭倫理を堅く守る礎(いしずえ)でした。しかし、現在の人は娯楽を好み、苦労を嫌い、少しでも多く仕事をすれば時間超過だと怨み、「過労」になります。

愛の奉仕をしている時、安らぎが心に湧き出ます。愛の心のない人は、たとえ遊び呆けている時も、真の楽しみが得られません。ただ人々が懺悔の心を起こし、享楽、消費を押さえ、天、地、人に対して真摯な態度でいるならば、この世は平穏になります。

人心が穏やかでなければ
天下は穏やかになれない
気候の調和を望むなら
まず人心を
鎮めなければならない

七月中旬、インドのムンバイでは十五分の間に三回の悲惨な大爆発事件が発生して多くの死傷者を出しました。また、北アフリカではリビア人民の反政府行動がますます激烈になり、独裁者のカダフィ大佐は情勢を抑圧できなければ、武器をもって首都を消滅させることも厭わないと言っています。

なんと恐ろしい人心でしょう。どんなに大きな天災も愛で以て鎮められます。しかし、人心が不調の時、心霊から起こる災難は、互いに侵略し争奪し合う争いの難で、鎮まる日は永遠にやってきません。

「刀兵災」は人類における災難の始まりで、戦争があるから「飢饉災」「疫病災」が生じます。仏法ではこれを「小三災」と称し、人によって起きた災難と見做します。もしもさらなる「大三災」つまり四大不調によって起きる火災、風災、水災、地震などの天災なら、人類が生存していく上で難しいものです。

天災は地球上すべての物に成住壊空(じょうじゅうえくう)に危機を及ぼし、人心の悪念は人類に生住異滅(しょうじゅういめつ)の危機を及ぼします。

人々はよくよく反省をしなくてはなりません。人の力は天に勝るのでしょうか? いいえ、それはあり得ないことです。人間は実に微少なものです。こんな微少な人間が強がり、強人、強国と称し種々の破壊力を持った武器を発明しています。人心は反省せず天災に加えて人災に収拾がつきません。


ロシアでは最近、何カ月も森林火事が燃え広がり、消防隊員は高い山へ登り消火しなければなりませんでした。車の入れない所では這ってでも登らなければならず、一人の隊員は「辛いなあ。まるで天が人類に罰を与えているようだ」「人類は懺悔をすべきだ」と言いました。

最近慈済人はよく「懺悔」と言っていますが、思いもよらず遥か遠くのロシアの消防隊員も同じことを口にしていました。

気候の不調を鎮めるなら、まず人心を鎮める必要があります。人々は反省、懺悔をして自分の心を護らねばなりません。日常生活では努力して励み、倹約してこそ、天地の大小を調和させます。人々が無明(むみょう)煩悩を除去し、心に慈悲と愛があれば世界に希望が満ちてきます。

人生で二つのことは
留めることができない
時は流れ去り
留めることができない
無常は警告なしに
訪れてくる

なかなか改められない性癖をどうしたら改められるのでしょうか? ただお経を聴いているだけで、右の耳から入って左の耳から抜ければ、性癖はやはり癖になったままです。ただ真の「法」を心に持って発露し懺悔してこそ、徹底的に性癖を改めることができます。

最近の何カ月間、慈済人は経蔵劇「法、水のごとく蒼生を潤す、環境保全を実践し人文を広めよう」の練習に励んでいます。練習中は何時間も立ちっぱなしで、歌と手話の反復練習を通して経文が心に浸透し、「心」は「法」と一つになっています。

屏東県の七十二歳のボランティア許美雪さんは、字が読めないので経文を暗記するのは難しいことです。しかしこの世でこの劇に出会う機会は滅多にないことと思い、決心して出演に申し込みました。でも字が分からないのに、どうやって歌詞と手つきを覚えるのかと聞かれると、彼女は「一字一句努力して覚えれば、必ずできます」と答えました。

毎週の勉強会では、包淑燕さんが傍で経文を台湾語に訳して教えてあげました。許さんは感謝して、「世の中に難しいことはありません。やろうと決心すれば恩人が現われて教えてくれます」と言いました。

字を知らなくても、万難を克服して劇に出た心はまさに発心立願の賜物でした。

仏陀は宇宙の大覚者です。二千年以上前に悟られた真理は、現代で一つひとつ実証されています。私たちは仏陀の言われた真理を拳拳服膺(けんけんふくよう)して信じ、なおかつ敬虔な心を以て発心立願して、「信、願、行」を奉じ、着実に根づかせるのです。

こういう人もいます。「私は信じ、発願して実行しようと思うが、まだその時期ではない」と。

知らなければならないのは、人生で二つの留められないことがあるということです。その一つとは時間で、一秒たりとも留められず過ぎ去ります。そしてもう一つ、無常も留めることはできません。人生の因縁果報は来るべき時にきて、少しの予告もありません。

高雄のボランティア董さんの父親は昨年、理由もなく酔っ払いに殴り殺されました。悲しみと怨みに一時父親の後を追って死のうとさえ思いましたが、身体障害者の弟と妹を見捨てることはできず、胸の中は怨みに満ちていました。

縁があって経蔵劇の中の一句、「果報不同因業力(果報は異なる業により)、如影随形不相離(影のように身を離れず)」が彼女を目覚めさせました。すべては因縁果報で「恨み」では救われません。彼女は心を解き放ち、広々とした大空のように苦から解脱しました。

多くの人は仏の道を学ぶことによって解脱を求めます。しかし、心が貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)、慢(まん)、疑(ぎ)に取りつかれていたらどうして解脱できるでしょうか? 他人は自分を解脱させることはできません。ただ自分で無明を洗い落とし、心を開放すれば、すぐにも苦から解脱することができるのです。

知識だけの生活ではいけない
智慧のある生活が必要
悟りの光で
人生を明るく照らそう

価値観の混沌としたこの時代に生を受けた私たちは、大是大非を見分ける必要があります。大是とは真理で、細心に学ぶこと。大非とは混乱、錯誤を引き起こすもので、それに従って行動を共にしてはならないのです。

現代社会では、知識だけを持って生活する人は容易に迷い、障碍は多く、無明の中に陥ります。もともと人には仏性が具わっています。無明に覆われているだけで、仏性はなくなってはいません。この無明に覆われた社会では、知識を智慧に転じて、智慧のある生活をし、円滑な悟りを輝かせましょう。

大時代には大是非をわきまえる必要があり、大劫難には大慈悲を必要とし、大無明は大智慧を必要とし、大動乱は大懺悔を必要とします。仏法は大時代の動乱を収める霊方妙薬です。人々が大懺悔を通して心を清め、ただ知識による生活でなく、さらに智慧のある生活を送ることを期待します。

やるべきことをやるのが智慧です。してはならないことをしないのも智慧です。《三十七道品、四正勤(ししょうごん)》で「悪念生ずれば速やかに絶ち、未だ善念生じなければ速やかに生じ、生じた善念を増長させる」とあります。よいことは即時に実行し、間違いはすぐに断ち切らねばなりません。これが、「諸悪を作るなかれ、衆生は善を奉行する」ということです。



一日に八万六千四百秒あります。どの一秒も関所であり、これを無事に越せたことを感謝しなければなりません。人生では時々刻々感謝の念を抱かねばなりません。

仏陀が「草露の風景」「夢幻とは泡の影」と言われたことは、まさに人生を描写しています。人生は草の上に浮かぶ一滴の露のようで、太陽が顔を出すと消えます。このように一瞬にして去りゆく人生に、何のこだわりがありましょうか?

人々が警戒心を高め、最も真摯な心で祈り、奉仕することを期待しています。慈悲と智慧を以て発心立願し、広く人々の心に善の種子を植えて努めて耕し、天下の四大が調和すれば人々は平穏で福に恵まれます。


◎訳・慈願
(慈済月刊五三六期より)