人間菩薩を緊密に広げよう

2011年 11月 16日 慈済基金会
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證厳法師のお諭し
人に請われなくとも
災難がどこで起きようとも
苦難に喘ぐ声を聞くと
衆生のもとへ駆けつける
それが慈済設立以来の基本精神
さらに人間菩薩を大召集して
志ある者が城となり
最も堅固な心の堤防を築いてこそ
災難を防ぐ良法となる

旧暦九月十九日は観世音菩薩の成道(じょうどう)された日です。私は日々観世音、人々が常に菩薩の心を持つことを願っています。もしも、人々の心にいつも観世音があり、常に法を聞いて目覚め、人に尽くしていれば、人々は観世音菩薩になることができます。毎日が観世音菩薩の生誕日であり、出家日であり成道日です。

かつて観世音菩薩は、長い年月をかけて功を積み仏になられました。慈母のように温かく衆生に寄り添われ、釈迦が娑婆世界で済度なさる時にこの世にお出になり、大慈悲を以って釈迦を助け衆生を済度されました。

「千手千眼観世音菩薩」とあります。その実、人々は観世音菩薩の両目になって、観世音菩薩の苦難を救うお手伝いをすることができます。だから、あなたたちは「人間(じんかん)菩薩」(この世の菩薩)としてなくてはならない人で、五百人が集まれば一尊の千手千眼観世音菩薩になります。



人間菩薩は必要とする所へ現れます。

インドネシアの西ジャワ州、バンタルグバンは、首都ジャカルタから毎日六千トンのごみが運びこまれるごみ集積所です。収集トラックがごみを下ろすと、大人や子供がたかって食べ物やお金に換えられる物を探します。付近の住民はそれを生活の糧(かて)としています。

ごみの山付近の住民の生活は大変苦しいもので、子供を学校に通わせるのは容易なことでなく、学業に対し関心を持つ余裕もありません。そこで、慈済人は周辺の貧民の生活と健康に関心を寄せるほか、十月から毎週の火、木、土曜日に付近のディナミックス小学校を訪問し、静思語を用いて品格を養う教育を行い、真面目に勉強するよう励ましています。

ある日、慈済人は欠席している子供がいるのに気がつきました。二日前に起きた貧民区の大火事で十数世帯が焼け出され、子供たちの本や制服すべてが無一物になったというのです。慈済人はすぐに見舞いに行き、生活物質を配付して子供たちに学業を続けさせるよう保護者を励ましました。

ごみの山には黒々と蠅が飛び交い衛生環境が劣悪です。それでもインドネシアの慈済ボランティアはそんな中に入って、関心を寄せ、子供たちの進学を勧めて、貧しい子供たちが教育によって未来の希望を見出すことを願っています。

どこにいようとも、どんなときも、苦難の声を聞くとただちに現れ苦難の人を助ける精神は、正に真の「人間菩薩」ではありませんか。


「仏が心にあり、法は行動にある」
この菩薩心を会得して
発心立願し
力を合わせて善事に励む

アフリカでも慈済人は、現地のアフリカ人菩薩を導きました。南アフリカで十数年前に政変が起こった際、現地の台湾人は続々と引き上げましたが、慈済ボランティアだった一部の台湾人は止まりました。事業のためではなく、当地の人々のことが忍びないためです。せっかく芽を出した現地人ボランティアの菩提の芽が、断ち切れることがないように、綿々と愛の種を撒き続き、慈済の根がさらに遠くまで伸び、菩提樹が逞しく成長し林となることを願っています。

南アフリカの隣国レソトは小さな国で、その上常に旱魃などの天災に見舞われ、住民の生活は南アフリカよりもさらに貧しく苦しいものです。慈済委員の陳美娟さんの会社はレソトにあって、毎日二国間を行き来しています。これまでに三人のレソト人慈済委員を勧誘し、その人たちはさらに三十人以上のボランティアを集めました。

こんな貧しい村ではテレビを持っている人は何人もいません。慈済人は資金を集め、五台のテレビを買って現地人ボランティアと酋長五人の家に置いて、衛星放送に接続しました。毎日村人は大愛テレビの番組が始まる時間になると、テレビの置かれた場所に集まって一緒に見ています。そして、「人は誰もがよい人になれる、誰もがよいことをすることができる」ことを知りました。

その中の一人の慈琦さんはイスラム教徒ですが、慈済人と親しく付き合ううちに慈済委員になりました。彼女は経営している幼稚園にテレビを置いて、毎朝八時半と九時四十五分に、先生と園児、そして付近の人たちを集めて「静思晨語」と「人間菩提」の番組を見た後、その内容を皆に解説しています。小さなテレビでも非常に大きな効力を発揮します。皆は天下の災難の多いこと、世界中の慈済人が真心で以って奉仕する姿を見て、徐々に慈済精神を理解しました。

もう一人のイスラム教徒の慈済委員もまた、毎朝家を開放して「静思晨語」と「人間菩提」の番組、それに「大愛ドラマ」も皆と見ています。彼女の客間はさながら道場のようです。多くの人は人を助ける者は最も福があることを理解し、ボランティアの仲間に入り奉仕することの喜びを味わっています。その中の一人が、以前は自分のことばかり考えていたが、慈済を知ってから感謝の心と人のために尽すことを知ったと、感想を述べました。

南アフリカとレソトの現地ボランティアは、台湾から遠く離れた土地に生まれ、民族も肌の色も私たちと異なり、生活環境も天地の差です。しかし、苦労に堪え種々の困難を乗り越え、自力更生を遂げただけでなく、人間菩薩の列に投入し自分よりも支援を必要とする人を助けています。この不可能を可能にしたのは、大変な精進があったからです。私はこのことは何とも不思議なことだと思い、また、彼らは真の「人間菩薩」だと感動してやみません。


天災は鎮められるが
人心を鎮めるのは困難なこと
人心の災難は
心理の妨げからくる

古から華人は「勤勉、倹約、克難」の精神で、どの国に足を止めようとも、力を尽してやりぬくという価値観を持っていました。この精神があったからこそ、華僑の多くが世界各地で大変な成功を収めています。

しかしながら、現在では消費を強調する享受型の生活形態が「勤勉、倹約は福に至る」とした従来の観念に取って代わりました。

マスコミによると、米国ではおよそ千五百万人が失業しました。九月の中旬から、職を失った人々はウォール街デモ「ウォール街を占拠せよ」を始めました。このデモの様子はインターネットとメディアを通して全世界に放送されました。

穏やかな社会であってこそ、みんな豊かな生活に恵まれることができるのです。しかし、いつも恨む心で、足るを知らないなら、この社会は争いばかりで、不安定な雰囲気の中で、誰も豊かになりません。 近年、自然災害や人による災いがしきりに起こっています。人の心に起きた災害は貧と富の間に対立や恨みを生じさせ、さらに大きな苦痛をもたらすかもしれません。

台湾の雲林県に精神障害を持つ母と子がいます。息子の義さんは非常に勤勉で、毎日自転車で二十キロの道を通い、心身障害者の雇用施設である「希望工場」でダンボール箱を運搬しています。義さんの母親は工場の社長にここで働きたいと申し出ました。社長は母親の年齢を心配しましたが、「息子が担げるなら私にもできます」と答えました。

母と子の汚れのない純真な心は、先天性の欠陥を補い、自力で生活をしています。そして生活保護を受けていないばかりか、毎月倹約したお金を慈済の慈善基金に収めているのに、私は深く感動しました。

中国大陸に住む片腕の男性は、二十一年間一人で二人の子供を育てています。彼は石炭を採掘する作業員でしたが、事故で片腕を失い、その後華山で運搬夫として働いています。七十キロの物資を二時間かけて、千百キロの階段を上って、山の上の村まで担ぎ上げます。これを毎日、一日に二回も往復するのです。

こんな辛い仕事で得られる日当は台湾元にしてたったの三百元と少しです。他所で仕事をしている息子が帰省した時、運搬に出る父親と一緒に出かけました。父親があまりにも過酷な仕事に従事しているのを見て、息子は何度も泣きながら代わりに担ぐと言いましたが、こんな苦しいことを息子にさせません。そして「お前に志があり人として正しい者であるなら、こんな苦労も価値のあることだよ」と言いました。

環境がどうあろうとも、崇高な心を持って、本分を守り善でいるならば、困難をいかに克服すべきかが分かり、社会は平安になります。人々が一致団結すれば社会に平和と富が訪れます。

現在の社会を振り返ってみると、多くの人は苦労を嫌い、少しの苦労にも、天下の人が自分に済まないことをしているかのような「心理の障害」をわずらいます。このような状態は、社会に災難を生み出します。

多くの人が純真な善の心を持つよう期待しています。人々が立志の人生に向かい、勤勉、倹約の中から貪念と怠惰を克服して、分秒惜しんで積極的に社会に奉仕することを期待します。


人心が不調だと
天下は平和になれない
人間菩薩を大召集してこそ
災難防止の良法になる

ここ二カ月もの間、タイの洪水災害は徐々に南の方にまで拡大し、心配でなりません。洪水は二カ月経ってもまだ退いていません。被災者が棒を持って蛇やワニを追い払うシーン、父と娘がごみが漂流する中を、胸まで水に浸かって立って食事をしているシーンがありました。一寸たりとも乾いた所、清潔な空間のない苦しみは、想像をはるかに超えます。タイの保健大臣は、今後は爆発的な疫病の流行が発生するだろうと言っています。

タイは有名な仏教国です。この度の水害で廟の仏像も難を免れることはできず、首まで水に浸かっているのを見ると胸が痛みます。人々はチャオプラヤー川の水が上昇しているのを見て心配し、生活物資を買い求めたり、砂袋を積み重ねて水を防いでいます。しかし、災難は本当に防げるでしょうか。

仏の道を学ぶ者は因縁果報を必ず理解していなければなりません。どんな因を造ってどんな果を得るかと。大地の病態と危機のすべては人心から起きています。人類の心の災難が大地の災難に転化したのです。

人心が不調であると天地は安らかになれません。最良の防災の道は、人々が身を慎んで敬虔になることです。敬虔とは仏にご利益を求めるものではなく、心からの発願、是非を明らかに弁え、情けの心を養い、過ちは徹底的に改め、心を整えて、環境保全することです。その上、「人間菩薩を大召集」するのです。積み重ねた砂袋のように密で堅固に、人間菩薩がますます密集していけば、年月を経て団結した奉仕の力は、城を築き堅固な人心堤防になることができます。それこそが災難を防御する良法です。

しきりに伝わる災難に、貧困者はさらに無力になり心身の拠り所がありません。衆生を救い、守り、苦難の人がいなくなるまで奉仕をやめないのが菩薩です。人間菩薩が多ければ多いほど、世の中の衆生は平安になります。

以前より、慈済人は「是諸衆生、不請之師(請われなくとも衆生の師となる)」の精神を胸に、どこで災難が発生し、助けを必要としていると分れば、呼ばれなくても駆けつけます。苦難の人が飢えているとすばやく食物を差し出します。災難が起きれば関心を寄せ、付き添い、心を落ち着かせ、病には医薬をあげて心身を落ち着かせます。

世界で天災人禍がますます頻繁に発生している現代では、人々の愛を啓発し、さらに密集する多くの人間菩薩が必要です。人の心が恐慌に襲われている時には心の拠り所になり、災難の時には安身安心ができるように力を尽くします。人間菩薩が至る所にいれば、至る所が衆生の安穏の地になります。



広い天地に、同じ時刻に、平穏な中でも忙しく奉仕をする人もいれば、苦難の試練に遭い日々の生活に喘いでいる人もいます。

台湾に身を置く私たちは、奢侈な暮らしとは言えないまでも平安幸福の日々が過ごせることに満足しなければなりません。さらに台湾にいる多くの善の人、大愛を抱いてお互いに励まし合っている人に感謝すべきです。

持てる力を団結して善事を尽くすのは、実のところそんなに困難なことではありません。「仏を心に、法を行動の中に」があれば菩薩の心根を会得することができ、さらに一歩進んで発心立願し、人間菩薩になることができます。善事を尽くす能力のあることを感謝し、人々が福を大切にしていれば、その時が真の精進になります。

«法句譬喩経・篤信品»に書かれてある「信能渡淵、摂為船師、精進除苦、慧到彼岸」とは、世間には苦難が多く、人生は煩悩が多い、信仰は人生航路を導く舵手であると説いています。もしも人々が一念の善を持って感謝し、福を植えれば生命の川で舵手となって航行することができます。気力と勇気を以って自分を度し、他人をも度せば智慧の彼岸に辿り着けるのです。

訳・慈願
(慈済月刊五三九期より)