屋根の下で幸せな人生が始まる

2016年 3月 24日 慈済基金会
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泥を取り除いてセメントを敷き、鉄骨をしっかり組み立てる。
洪水の後、マネク・ウライ村の住民は自分たちの手で幸せを建設した。
アブドラは慈済の「被災者雇用制度」に参加し、
まず男手のない家庭のために家を建てた後、次に自分の家を建てて、一家で四カ月間のテント生活に別れを告げた。
安心して住める仮設住宅は風雨を遮ってくれる。
心のこもった家には愛が宿り、しっかりした足取りで人生を歩むことができる。


朝早く娘のアシラを学校に送った後、四十四歳のアブドラの一日が始まる。魚介類売りとゴムの木から樹液を採取する仕事に就いていたアブドラは今まで安定した生活を送ってきた。しかし、「洪水の後、仕事ができなくなり、機械もトラックも壊れてしまいました」と彼が言った。

二〇一四年十二月二十三日、マレー半島のマレーシアで三十年に一度の洪水が発生し、二十六万人が被災した。中でもクランタン州がその六割を占めている。国内で二番目に大きいクアラクライ県の被害は大きく、中でもマネク・ウライ村が最も深刻である。例年、雨季になると村は冠水するが、今回の洪水は内陸に発生した津波のようになり、村の四百世帯余りの家屋が全壊した。

「私は家が流されるのを見た時、とても悲しく、これからどこに住めばいいのか途方に暮れました」。洪水の情景を思い出したアブドラの妻、ザズナイナは今でも恐怖に怯えている。温かかった家は廃墟となり、アブドラは泥に埋まった劣悪な環境の中で漂流して来た材木を拾い集めて仮住まいの家を建てたが、民間団体が来てテントを張ってくれたおかげで、生活できるようになった。

今年二月からクランタンの慈済ボランティアは「被災者雇用制度」によって村人が仮設住宅の建設に参加できるようにした。一棟完成するごとに一人当たり八百リンギット(約二万五千円)が支払われる。一時的に失業したアブドラも二月中旬から仮設住宅の組み立て方を学び、友人と二人一組で五棟を完成させた。村人は順次入居したが、アブドラ一家はまだテント住まいだった。

「洪水の後、お年寄りやシングルマザーが日中のテントの高温を避けて木の下に座り、夜は冷えるテントで寝ているのを見てきました。慈済が住宅を建ててくれるようになってから、私は彼らの役に立ちたいと思い始めました」。まず必要に迫られている人々を入居させた。自分の三人の子供はテントで勉強させ、人への奉仕を優先したのだ。

「他の人が苦しんでいる時、心が傷つくのは私たちです。お婆さんやシングルマザーの境遇を見ていると、私たちは心の中で涙を流しています」。アブドラは敬虔に布施する心で建設に参加してきた。「愛を携えて仕事すれば、他人のためではなく、自分のために建てているのだと思うことができるのです」と言った。

四月半ば、アブドラはやっと自分の家を建てることができた。一心にセメントをこねて流し込む動作は慣れたもので、夕食を済ませて少し休憩すると、再び仕事を続けた。彼は夜通し仕事を続け、夜が明ける前に完成させた。「翌日から家族にテントよりも安心して眠れる家を提供したかったからです」と彼は言った。それは彼が自分の手で家族に与えてあげられる最も純粋な幸福なのだ。

寄付金による仮設住宅は 自分の家を建てるようなもの

マネク・ウライ村はレビル河畔にあり、ほとんどの住民はゴム園やアブラヤシ園で働いているが、被災後家に戻って傷ついた村を立て直し、平常な生活を取り戻した。クランタン慈済ボランティアは緊急支援の後に中長期的な支援計画を実施している。支援建設している仮設住宅は被災者が政府の恒久住宅を待つ間の落ち着き先である。そして、「被災者雇用制度」に参加することで、被災した村人は家計を維持すると共に復旧を加速させることができる。今年六月までに慈済はマネク・ウライ村と周辺の村ですでに二百十五棟の仮設住宅を完成させている。

仮設住宅の建材は二月に台湾から船積みされる予定だったが、ちょうど旧正月に当たったため予定が立たなくなった。村人に長く待たせず、良好な環境に住めるようにするため、 ボランティアは現地で建材を調達することにした。現地の実業家ボランティアは二月からペナン市のノースシー地区に仮設住宅用建材の生産ラインを稼働し、各方面からのボランティアがリレー式に生産に投入し、旧正月中も休むことはなかった。 クランタンのボランティアは支援建設の進度を気にし、家族と正月の団欒を取ると、すぐにマレー人が大多数を占めるマネク・ウライ村に取って返した。「村人は皆、感動していました。今日は華僑にとって大事な旧暦の正月ではないのですかと彼らは聞きました。私たちが正月の間も村に来て建設を続けていたからです」。建築業に従事する王湧式は災害発生後からマネク・ウライ村に常駐し、村人に仮設住宅の組み立て方を教えてきた。どんなに忙しくても、時間を作って現場へ工程の進み具合や品質のチェックに行く。

軽量鋼と強化PPパネルで組み立てられた仮設住宅は広さが約八坪で二Lになっている。台湾での仮設住宅を基本にしているが、ボランティアは現地の生活習慣に合うよう細心に設計した。「村人によると、仮設住宅にはトイレとキッチンは必要ないとのことです。以前に建てたものはコンクリート製で、屋外に設置されていて、洪水でも流されなかったからです」と王湧式が説明した。

多くの被災者は住み慣れた場所を離れようとせず、仮設住宅は元の場所に建てることとなり、ボランティアにとって智慧の使いどころである。「私たちが建てようとしている場所は平地ではありません。建設する前に各家の土台となる地面をならしてからセメントを流します。そして、雨水が入るのを防ぐために、ブロックを敷きつめて土台を高くしています」

この半年間、マネク・ウライ村では四六時中、慈済ボランティアの姿が見られる。食品加工業に従事するクランタンのボランティア、曾玉時は仮設住宅の支援建設で、リスト作成と住民との調整を担当し、全てのテントを一つひとつ訪問した。彼が住んでいるコタバルからマネク・ウライ村まで車で二時間を要する。この数カ月間、往復した回数は数えきれない。六十五歳の彼女は腰痛の持病を持っているが、それでも奉仕に来ている。「菩薩の縁で苦しんでいる衆生と縁を結んでいるのです。テント暮らしをしている子供を見ると、心が痛みます。最近は雨が多く、テントは雨漏りし始めています。できるだけ早く仮設住宅を完成させて、彼らに安心して生活してもらいたいのです」

富裕層の曾玉時は、率直に今回の災害支援で多くのことを学んだ。「普段はとても良い環境の中で生活していますが、今は毎日苦を目の当たりにして、『苦を見て福を知る』ようになり、自分は非常に幸福だと悟りました。そして、災害の中で人生の無常を見てきました」

彼女はマレーシア全国からの愛が被災地を支援していることに感謝すると共に、被災者が立ち上がった後に発揮している大愛精神には一層感謝している。この五カ月あまり、「感謝」という力が正に彼女を突き動かして来た原動力なのである。

仕事があれば、辛い日々は過ぎ去る

その日、ボランティアはマネク・ウライ村で仮設住宅に入居する住民に折りたたみ式簡易ベッドを届けると共に、村人を家庭訪問に誘った。曾玉時がアジザの仮設住宅を訪問し、彼女に新品のミシンをプレゼントした。四十六歳のアジザは夫のユソフとの間に五人の子供を設けているが、洪水が家を押し流した時、二十年間、生計を立ててきた道具であるミシンが壊れてしまい、一瞬にして収入が途絶えてしまった。

「雨季であるため、夫はゴム園での仕事がありません。ミシンは高価なため、買うお金はありません。今日、あなた方がミシンを届けてくれたおかげで、苦しい生活は過去のものとなります」。二十年間、衣服の仕立てをしてきたアジザはやっと収入を得て家計の足しにすることができるのだ。最も困難な時に慈済が温かさを届けたことが、アジザ一家を立ち上がらせる力となった。

アジザは、三月にペナンから来たIT関係の人たちと一緒に住宅の組み立てをした時のことを思い出すと、今でも感動する。「慈済の仮設住宅は一時的なものに過ぎませんが、住んでみるととても安心感を覚えます。子供たちが勉強するにしても、テントでは暑かったり寒かったりで、時には夜遅くならないと寝られませんでした。このような慈済の支援にとても感動しています」

四十八歳のママットは、以前はゴム園でゴムの樹液を採取する仕事で生計を立てていたが、一年あまり前、出勤途中で交通事故に遭って下半身不随になり、寝たきりになってしまった。慈済ボランティアは査定した後、毎月、生活補助金を出すようになった。彼女はマネク・ウライ村で初めての長期生活支援対象である。彼が申請した仮設住宅は、今、建設中である。

その日、慈済ボランティアはママットには必要な手動式病床用ベッドを買って届けた。「私の喜びはあなたの笑顔がもたらしたもの。もし、あなたが涙を流したなら、私はあなたよりも心が痛む。私の夢はあなたの付き添いで実現する。あなたがくれた愛は私を何倍も勇気づけてくれた……」。同行したアブドラはボランティアと一緒に「みんな家族」という歌を歌い始め、ママット一家に感動と温かみを与えた。

アブドラはボランティアと共に家庭訪問することで、慈善活動に対してより深く理解するようになった。「私は仮設住宅があるだけで満足でしたが、今日は心から感動しました。慈済の真心を込めた支援はただ単に素晴しいというだけでなく、ここまで掘り下げた支援ができているのです」

慈済ボランティアは村人に家庭訪問への参加を呼びかけた。それは始まったばかりであるが、愛の種が現地で芽を出すことに期待している。真っ先に駆けつけ、最後までやり遂げることをモットーに、ボランティアは引き続き付き添っている。愛のエネルギーが温かい日光のようにマネク・ウライ村の人たちに温かみと幸せをもたらしてくれることを願っている。落ち着いて生活できる家は風雨を遮ってくれる。真心の家に愛があれば、人生の道は確かなものになるだろう。

文・翁詩盈
訳・済運
(慈済日本月刊二二四期より)