悪いことばかりではなく良いこともある

2016年 3月 30日 慈済基金会
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洪水は引きましたが、ここは幸運な方です。津波や他の災害に遭った被災者に比べたら、私たちは少しばかり苦しいだけです。
大変であっても、まだ、生きています。これはとてもいいことなのです。順境でも逆境でも必ず良いことがあると信じています。
---アズマンサ


一月下旬灰色の空の下、レビル河畔にあるマネクウライ村で見たのはマレー人の伝統的な高床式住居ではなく、様々な形のテントだった。 五十六歳のアズマンサはマネクウライ村に住んで四十二年になる。一家六人の生活は至って平穏だった。しかし、一カ月余り前の洪水で彼と妻が汗水流して貯めた貯蓄で建てた家が損壊した。村全体が瓦礫となり、皆、テントに住むしかなかった。

空が暗くなってきたが、まだ電気が回復しておらず、村人はテントの前で焚き火をしたり、蝋燭を灯して長い夜を過ごしていた。

汚泥の中から、新たな生活が始まった

二〇一四年十二月下旬、マレーシアで三十年来の大洪水が発生した。その年の除夜にはマレー半島の九つの州が被災し、被災者は二十六万人に達した。中でもジランタンは六割の住民が被災した。マレーシア第二の県、クアラクライはその州の中で最も被害が大きかった地域で、県の半分が水没した。クアラクライ県にあるマネクウライ村は百パーセント被災した。

洪水はマネクウライ村を呑み込み、村全体の四百九棟の家屋の中で、百三十八棟が全壊し、他は全部半壊した。三百人余りが学校に避難したが、水が二階に避難した人たちの膝に達し、再び上の階に移動した。また、流された家屋が絶え間なく学校の建物にぶつかり、皆、緊張した。水が引いて四日後、消防隊と軍隊が空から食糧を補給した。「ヘリコプターからロープでビスケットを降ろしてくれました。食糧は多くなかったので、まず子供たちに与えました」と五十一歳の副村長、ノーティンが言った。

ノーティンが村に戻って目にしたのは、かつて温もりを与えてくれた我が家の無残な姿だった。「成す術はなく、あきらめざるをえませんでした」。住民は流れてきた材木や板を拾い、泥が溜まった劣悪な環境の中、臨時の住いを建てて住んだ。民間団体がテントを配付してからやっとそこで暮らせるようになった。

四十歳のモハマフィズは建築労働者で、二十年の経験がある。彼には九人の子供があり、妻と義理の母を合わせて十二人が同居している。過去にも何回か洪水を経験し、家を高台に移したものの、今回の大洪水で難を逃れることはできなかった。避難する時、彼は大事な書類と三枚の服を持って出るしか余裕がなかった。今、五坪に満たないテントに住んでいる。「食糧と物資は全てもらった物です。家がこんなことになり、私の人生は一瞬にして先が真っ暗になりました」

モハマフィズは丸々一カ月、収入がない。「毎日、家の修理を依頼する電話がかかってくるのですが、出かけるわけにいかないのです。自分の家の仕事が終わっておらず、まず、浴室とトイレをつくらなければなりません」「いつも四、五キロ歩いて姉の家まで行ってシャワーを浴びています。とても不便です」と彼の妻が言った。

雨季はまだ終わっておらず、テントは風と雨は遮断するが、中の熱を放出できない。昼間、中は四十四度にもなるが、夜はとても寒い。その上、衛生環境が悪いので、病気になる人が多い。

テントの中で命の啓示

同じようにテント住まいのアズマンサの家では、以前、妻は電気釜でご飯を炊いていたが、今はガスコンロを使っている。しかし、火力の調整に慣れていないのでご飯を焦がしてしまった。「以前、電気があった時は、それが当然のように思われ、テレビを朝までつけっ放しにしていた時もあったほどです。今はテレビさえありません」と彼が言った。

農業局を退職したアズマンサは妻と学校の食堂をしていた。毎朝四時に起床し、夜の七時まで働いた。疲れてはいても、彼は楽しかった。「私たちは生活を楽しく過ごすことができ、娯楽も車もありました。しかし、今は何もありません。被災する前、自分は他の人よりも多少良い生活ができていたと感じていましたが、今、災害が起きれば、誰しも平等だと分かりました」

洪水で仕事用の道具が壊れ、約七千リンギッドの損失を出した。アズマンサは悲しんだが、二、三日後には神が与えくれた試練なのだと信じた。良くても悪くても一番良い計らいなのだ、と。「津波に比べたら、この村はとても幸運で、肉親が皆、無事であることに感謝しています。もし、今回の洪水で、神が私の妻や子供が天に召されるようなことがあったら、私はもっと悲しんでいたでしょう」

アズマンサは家族の話になると、自然と涙がこぼれた。しかし、一家の主として彼は力強く言った。「倍の力を発揮して家を建て直します。どんな仕事でも、できることは何でもします。家族にこのような生活を続けさせるわけにはいきません」

マネクウライ村のほとんどの住民はゴム園や油ヤシ園で仕事をしていたが、洪水が生計に影響し、全ては一からの出直しである。イスラム教徒が多数を占める住民は、災害はアラーの意思によるもので、一文無しになっても、それを運命と受け止めて生きていくのだ。しかし、まず安心して暮らせる家を持つことが彼らにとって当面の一番の目標である。

簡易型住宅が希望を支える

今年一月、慈済ボランティアはジランタン州五県の七十一の地区で住民による日雇い清掃活動を繰り広げると共に物資の配付と施療を行った。マネクウライ村も含まれており、二回合わせて四日間の清掃活動が行われ、街道や外部に通じる道路の清掃に延べ二千五百人余りが参加した。百リンギッド(約三千三百円)の日当で村民は一時的に生活をしのぐことができる。慈済は続けて中長期的なケア計画を立て、政府と協力して被災者に簡易型住宅を建てることが決まった。

一月二十七日、台湾から簡易型住宅を建設するボランティア隊がマネクウライ村に到着し、まず八坪の見本家屋が建てられた。軽い鋼材の骨組みとPPでできた板で構成された簡易型家屋の周りを住民が取り囲んで見物した。中は二部屋で、シャワーも厨房もあり、福慧ベッド(折りたたみ式多目的ベッド)もついていた。テントと比べたら、その住環境は明らかに改善されている。二月中旬から慈済は住民の日雇い方式で一緒に簡易型家屋の組み立てを始める。

マネクウライ村では番地と戸籍資料が完全でなかったため、ジランタンの慈済ボランティアは総動員でテントを一つ一つ訪ね、簡易型家屋に入居する資格と意思を聞いて回った。うだるような暑さの中、誰もが精一杯力を尽くし、家屋を設置する前の作業を滞りなく進めた。ボランティアは住民と肩を並べ、愛で付き添った。一歩踏み出せば、住民が「家」に住める日も遠くない。

文・翁詩盈
訳・済運
(慈済日本月刊220期より)