慈済基金会創会者-證厳上人

2011年 4月 21日 慈済基金会
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愛の力を発揮しましょう-時間を無駄にせず、生きている間は苦しんでいる人々のために尽くさなければなりません」。剃髪姿の證厳上人は、ゆっくりと、静かな優しい声で語りかける。

出家を決めた乙女の頃の澄んだ黒い瞳はそのままに、凛とした眼差しの中に世の中の人々を救う使命を担った意思の強さと慈悲深さがにじみだしている。證厳上人は60代後半に入られた。「お堂でただ経を唱えるだけが修行ではありません。世の中に分け入って衆生を救うことが大切で、そうして善行を行うことが最高の修行になるのです。その心さえあれば誰もが生身の『菩薩』となれます。利己を捨てて何も求めずひたすらに人に尽くしなさい。」と證厳上人はおっしゃる。この上人のお導きによって、男女の別も年齢も職業も社会的地位も財産も、それぞれ異なった立場の人々が慈済会の会員として一家族になった。そして、共に同じ目的をもって手を取り合い、上人の発願を実践し成就させるべく日々精進している。

親と離れ、衆生を導く道へ
慈済会の創始者である證厳上人は1937年、台湾中西部の台中県清水鎮に生まれた。当時、子宝に恵まれなかった豊原鎮の叔父夫婦に養女に出され、養夫婦の愛を受けて育った。幼少の頃より利発で、よく父母を手伝う孝行娘でした。15歳の時、母が胃を患い、手術をしなければならなくなる。当時、手術は今ほど一般的ではなく命を懸ける大事で、少女は神様に向って必死に祈った。

「私の命が12年縮まってもかまいません。どうか母を助けてください…」切なる願いが神様に届いたのか、母は奇跡的に手術をせずとも服薬で快癒したのだ。以来、少女は肉食を絶った。

23歳の時、父が脳卒中で急逝するという大きな悲しみが少女を襲った。「父はどこへ行ってしまったのだろう?人は死んだらどこへ行くのだろう?」この果てない疑問が仏門へと少女を導き、台中県豊原鎮にある慈雲寺に尼僧、修道法師に出会った。少女は法師に問おう。「どのような女性がこの世で一番幸せでしょうか?」法師は答えて「買い物かごを提げた女性が一番幸せです」。

「財布の中身を自由にできるということかしら?これが女性の幸せ?女性も男性と同じように社会に参与して社会的な責任を担うべきではないのだろうか?」そして、この思いは、出家して多くの奉仕をしたいとの決意に変わってゆくのでした。修道法師に伴われて、出家を認めない母に内緒で仏門を目指して家出するも、修行の場がなかなか見つからず、台北、台中、台東と流転。そして終に花蓮県秀林郷の小さな廟、普明寺に落ち着き、剃髪の師もなく自分で髪を落として修行を始めた。この時、彼女は25歳でした。

良師と出会い、辛い修行の始まり
普明寺で経を学びながら付近の住民たちに説法を説くなどしていたある日、台北の臨澄寺で受戒(初めて仏門に入る人が戒律を受けること)するため台北に行った。しかし、受戒するには剃髪得度をしてくれた導師がなければならないという。受戒受付の終了まであと一時間。肩を落とし、半ばあきらめ気味で『太虚大師全集』を求めに訪れた慧日講堂で、台湾仏教界きっての名僧である印順導師と出会った。

印順導師は台湾比丘界で初めて日本の大正大学から博士号を取得した学問僧で、『太虚大師全集』を編纂、『中国禅宗史』を著し、仏教界に多大な貢献をしています。そして導師の弟子にしてくれるよう懇願するこの尼僧を、四人しか弟子をとったことのない導師は了承した。「一度出家したならば、四六時中仏教と世の中の人々のために尽くさなければなりません」と印順導師は言い、法名を證厳、号を慧璋と付けてあげたのでした。印順導師は「人間(じんかん)仏教」(世の中で仏教の教えを実践し広めること)を主張している。こうして誕生した證厳上人は無事受戒を済ませ、普明寺に戻り修行にますます精進するのでした。

證厳上人は1964年に花蓮市内の慈善寺で地藏経を講義し、四名の出家弟子と縁を結んだ。その後、法師は「供養を受けない・法会を行わない・弟子をとらない(後に慈済会が設立されると変更する)」を心に決め、弟子たちと共に「一日 作 ( な ) さざれば一日食らわず」(唐代の名僧、百丈襌師の修業精神)という信条を固く守って、自給自足のつましい生活を始める。普明寺の裏の僅かな土地を耕し落花生を植え、買ってきたセメント袋を小さな紙袋に作り変えて飼料店や金物屋に売り、あるいは裁縫店からいらない端切れの布をもらって来てベビー靴を作って生計を立てた。

慈済基金会を設立するきっかけ
こうして4名の弟子たちと単純な修行生活を送っていた證厳上人の心を激しく揺り動かすある事件に、1966年遭遇した。

弟子の父親が胃出血の手術をしたので、病院へ見舞いに訪れた時のことです。病院の廊下に滴りおちた血溜りを見て不審に思った。この血の主は一体どこへ?すると、そこに居合わせた人が説明してくれた。「担がれて帰って行ったよ!山地の婦人でね、早産だったらしくて、四人の山地の若者に豊浜から担がれて、7、8時間もの山道をやってきたけど、お金が足りないからって、また担がれて帰って行ってしまった。」当時、お金が足りないなら、治療を受けることができなかった。花蓮の海岸沿いにある原住民族の住む豊浜村から病院のある町までは、険しい山道で交通も不便でした。

この痛ましい出来事は若い證厳上人の心を強く痛めた。お金がなければ治療も受けられず、生死の境をさまよわなくてはならないのか?これが人の世なのか?苦しんでいる人々を救ってあげたい。しかし、どうやって?本来、僧は名利から遠ざかっているべきと固く信じてきた法師の中に、「お金は使い方次第で人を救うことができる」という新しい解釈が生まれた。もし500人の人間が観音菩薩と同じ慈悲の心を持って、苦しんでいる人々に救いの手を差し伸べることができたら...。

法師は500人の「観音菩薩」から成る慈善団体を作ることを決意した。

ほぼ時を同じく、3名のカトリックの修道女が法師の元を訪れ、キリストの博愛と仏陀の慈悲、それぞれの宗教の教義や解釈について語り合うという機会に恵まれた。帰り際、修道女たちが法師に問いかけた。「今日、私たちは初めて、仏陀の生きとし生けるもの全てにわたる慈悲の心について理解しました。私たちキリスト教の博愛は人間の上に限られているけれども、教会や病院や養老院を建てて人々を救済しています。あなた方の仏教では何をされているでしょうか?」謙虚を是とし、名を出して事を行うことがなく、各々が各々の事だけをやっている向きが多い仏教徒たちは、確かに組織化して何かをするということがない。皆、その心はあるのに組織がないのは残念なこと。修道女たちのこの言葉も、組織づくりへと法師をおおいに触発した。

こうして1966年に誕生したのが今日の慈済会の前身、「仏教克難慈済功徳会」です。後に400万人もの会員が参加するようになる組織も、初めは4人の出家弟子と30名の信徒たち(大部分が主婦であった)から成るささやかなものでした。

弟子たちはベビー用の靴作りで少しずつお金を貯めた。法師は会員となった信徒たち一人一人に竹の筒を手渡し、毎日5毛(5毛は一元の半分の単位)をおかず代から節約して、この竹筒に貯めるように言った。当時の5毛というと、現在の50元くらいの価値があった。(現在の日本円で1500円程度)「それなら毎月まとめて15元を献金すればよいことではないですか?」とある信徒が問うと、法師は答えて言った。「毎日、買い物に出かけるあなた方が5毛を筒に入れる度に、人を救済するという気持ちを持ってほしいのです。5毛を節約する時、同時に人を愛し救済する心をも貯金して頂きたいのです。そうして貯められた力は偉大です」

毎日5毛を節約して人助けする――晴れ晴れしい誇りを持って市場に買い物に出かけた信徒たちの口から、その善意の目標を目指す行為が次第に人から人へと伝わり、我も参加したしと続々と会員が増えていった。同時に法師に帰依(教えを受ける)を願う者も増え、法師は帰依に当って二つの条件を定めることにした。1、帰依者は「慈済功徳会」の会員となること、2、帰依した会員は「慈済功徳会」の社会救済の任務を担い実際に行わなければならない。その活動内容は、身寄りのない一人暮らしのお年寄りの世話、貧しい家庭への物資の支給、水害にあった村への援助・など...。こうして一人一人の愛の心から始まった慈済会の慈善活動の輪はどんどんと急速に広がり、この島の内に外に愛の種をまいていった。

富める者を啓発し、貧しき者を救済する
「富める者を啓発し、貧しき者を救済する」という発想のもと、法師は裕福な人々には貧しい人々のために持てるものを差し出して助けること、人を助ける機会、すなわち善行の機会を与えられたことに感謝をすべきこと、また、助けられた人々もこの施しをいつか他の人々にしてあげることを期待しています。

「愛の循環」がこの世に行き渡ることを願っているのです。

愛の島・台湾から世界に向けて...。