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10月15日
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ホーム ドキュメンタリー 台風八号・台湾大水害の後 故郷に帰る苦花魚のように 余文清は逆流を溯る

故郷に帰る苦花魚のように 余文清は逆流を溯る

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高雄県桃源郷にあるタロリュー渓に
生息する苦花魚は
生存に適した環境を探し
寒さに耐え、逆流を溯る
原住民のツォウ族はこの魚を
「まことの魚」と呼ぶ
昨年八月八日台湾を襲った台風八号の
大災害に遭ったツォウ族の余文清は
かつて当てもなくさまよっていたが
今は生活が安定している
一歩ずつ前に向かって努力し
逆流を溯る苦花魚のように
安心立命のできる場所を探している

桃源郷高中村の美蘭集落に住むツォウ族の青年たちは、集落の祭典を催していた。台風の来る前兆で小雨が降りしきり、皆は水不足から救われると喜んでいた。夜に入ると風雨がだんだん強くなったので、余文清は父親から、「今夜、お前と子供たちはここに泊まっていきなさい。山の小屋は危険だ」と言われた。

二年前の台風の時、山の中腹に建てたブリキ造りの小屋が土石流に流されたので、親子は資金を投じて修理をした。家の後方の斜面は危険そうである。台風が来る毎に、余文清は子供を連れて父の家に避難した。

深夜、大雨が屋根を強く打ち、門や窓も強風で振動していた。みんなはテレビニュースを見ていた。突然、戸を強く叩く音がした。外から「川の水が美蘭橋を超えたぞ!」と叫ぶ声がする。

親子二人は家から飛び出し、村の青年とともに暗闇の中を川の方向に駆けて行った。荖濃渓が濁流と化していた。流れてきた巨大な岩も雷のような音をたてて落ちていく。皆の叫び声の中、橋が洪水に呑み込まれた。美蘭集落は一瞬の中に陸の孤島と化した。

この後、暴風雨により電気が寸断され、村は暗闇に陥った。余文清は携帯電話で外と連絡しようと思ったが、通じなかった。

翌早朝、風雨が少し弱くなった時、余文清は急いで二人の兄の家へ行き安否を確かめた。村の至る所が土石流に破壊された。道はさえぎられ、山の中腹が崩れて昨日まで住んでいた山小屋は崩れ落ち、ブリキの板と鉄骨の柱だけがかすかに見えた。

台風が去った後、美蘭集落の住民たちは水も電気も通信もない原始的な生活を送ることになった。救援ヘリに気づいてもらうために、焚き火を燃やした。食糧は切れ、薬品も欠乏していたので、余文清は若者と一緒に丸一日かかって二つの山を越え町に辿りついた。

一週間後の八月十五日、ヘリコプターが住民たちを助けに来た。ヘリで山谷を越える時、古里の山河をふり返った余文清の目から涙があふれ出た。山は斧で切られたように山肌を露にし、川の水は怒濤の如く流れていた。胸に抱いていた娘が、「パパ、私たちはどこへ行くの?」と聞いた。余文清は返事に困った。ただ早くここから逃げ出せればどこでもよいと思った。

ヘリコプターが旗山中学校の運動場に着陸し、救難人員が恐怖におののく被災者を救急車に乗せ避難所へ向かった。余文清は疲れきっていたが、頭ははっきりしていた。そばで誰かが「小林村は埋まったそうだ」とか「那瑪夏(ナマシャ)郷はひどい被害だ。道路は寸断され、学校も土石流で埋ったそうだ」などと話す声が聞こえてきた。夜、暗闇の中ですすり泣きや溜め息が聞こえてきた。

生命の活路を開
八月の末、余文清と兄の余文明の二家族は、高雄県燕巣郷にある軍の鳳雄営地内に設けられた避難所に入ることになった。三人の子供たちは旗山にある小学校に通うことになった。

災害から一カ月、余文清は古里に戻って災害の情況を見て回った。道路はでこぼこに寸断され、美蘭集落に通じる荖濃渓の川床も洪水で流れ、数十メートル幅の渓谷と化していた。住民は吊りかごで山と谷の間を行き来している。

余文清は中学校の時から古里を離れ、町の中学校に行き、卒業後は台北に出て働いた。その後、舞台設計の会社で働いたが会社が倒産し、工事現場でアルバイトしていた。仕事はあったりなかったりで経済的に苦境に陥り、やむなく離婚して子供たちを連れて古里に帰ったのである。

余文清は梅を栽培するかたわら近所の農家を手伝ったりして家計の足しにした。畑で取れたものを食べ、兄弟とも互いに助け合い、質素ながらも生活は安定していた。

台風の後、彼は家も田畑も失くしてしまった。兄弟たちは自分の家を守るだけで精一杯、余文清は未来はどこにあるのか茫然とした。父親と相談して、三番目の兄、余文明一家と共に慈済が建設する杉林大愛団地に入居することに決め、申請した。

余文清が入居希望申請を出した時、「杉林村の建設作業に参加しませんか?」と慈済ボランティアに聞かれた。「どんな仕事でしょうか」と聞いたら、「家屋建設を手伝う仕事です。収入になりますし、自分たちが住むことになる家の建築に携わるうち、あれこれと心配しなくて済むようになりますよ」。

十月中旬、余文清は大愛団地の建設現場で働き始めた。残暑厳しい中、木の枝葉を剪定し、移植の準備をした。体力を使い尽くして大変疲れていたので、思わず「なんでこんな面倒なことをするのだろう。いっそのこと鋸で切ってしまえばよいのに」とつい愚痴をこぼした。それを聞いて、ボランティアは、「切ってしまったら、木は死んでしまいます。樹木にも命があります。まず移植した後、家ができあがったらまたここに移すのです。木々の下に小蔭ができて皆さん集まって涼をとれますよ」とやさしく答えた。

彼はそれを聞いて感動し、「私は今、自分が生きる路を模索している。この木にも生きていく権利があるのだ」と思った。

生活が苦しくても楽しい
天気が熱い上、仕事が忙しいので、余文清は食欲がなかった。弁当の食べ残しを生ゴミ箱に捨てようとした時、二人の老人の会話が耳に入った。「あなた方は昨日何時まで弁当を作っていたの?」「早朝の三、四時頃から午後の四、五時頃までだよ」。

余文清は弁当箱の中身を見て、急いで席に戻り残りのめしを全部平らげた。あの日から、食べ物を無駄にせず、奉仕している人達への感謝を忘れないようになった。

慈済ボランティアの傅玉女さんは、いつも作業員たちに、仕事中に煙草や酒を飲まないように、そして「皆さんの貰った工賃は汗水を流した苦労の賜物ですから、子供たちのために蓄えてくださいね」と念を入れて注意する。

不思議なことに煙草や酒、ビンロウは知らぬ間に余文清の生活から消えていってしまった。毎日の労働で体力を使い果たし、夜帰れば子供の勉強を見るか、早々と床について休む。人との付き合いが減ったので支出も減る。

村の道路が修復された後、三人の子供たちは村の学校に戻った。両親に世話を頼み、余文清は避難所に残って大愛団地の建設に勤しんでいる。自分たちが将来住む家を造っているのだと思えば苦労も感じず、また、ここでの仕事を通して人と人との間の愛を深く感じると言う。

愛があるからあきらめない
長年一人で子供たちを養育してきた余文清は、片親家庭への手当てを政府に申請できることを知らなかった。慈済は彼の家庭の状況を実地に訪問して調査することにした。ボランティアは二時間の車程を経て、桃源郷の高中村に辿りついた。余文清の父親の案内で集落に入った。何本かの綱で繋いだ吊りカゴのゴンドラがある。その下を荖濃渓が荒々しく流れていた。父親は向こう側に見える仮設道路を指して、「大雨が来たらあの道は流されてしまうので、このゴンドラに頼るしかありません」と説明する。

両親の家に入ると、孫たちの賞状が壁一面に貼ってあった。ボランティアは片親家庭の手当て申請の方法を教えてあげた。これにより、彼らはしばらく経済的な困窮をしのぐことができる。父親は末っ子の文清を一番可愛がっていた。「私は文清がよい性格に変わったことを喜んでいます。慈済はあなたを愛しているので絶対にあきらめないでと、よく文清に言っています」。

事情がどうあれ、私は幸福です
余文清は避難所を離れ、工事現場近くの旗山の町に家を借りて住んだ。建物が一棟一棟完成していくのを見ると複雑な気持ちになってきて、不安になる。果たして自分が出した大愛団地への入居申請が政府の審査に合格するだろうか。余文清だけでなく、他の被災者たちも同様に不安であった。

二月初め、県政府は第一回審査の合格者リストを発表した。そこには余文清の名前はなかった。彼は元気なく工事現場に行き、慈済ボランティアに心の苦悶を訴えた。「文清、あきらめてはいけません。おそらくまだ審査中かもしれませんよ」と慰めると、彼は「入居できるかどうかわからないけれど、私と慈済は永遠の友です」と嗚咽して答えた。ボランティアも涙を浮べて彼の手を強く握って慰め、励ました。

余文清は相変らず毎日定時に工事現場に出勤する。「私には少なくとも仕事があります。一家を支えることができます。台風で家を失った人たちに比べればずっと幸せです」。家を分配された人たちが入居の手続きを済ませ新しい家を清掃しているのを見て、彼はその人たちを祝福した。

二月十一日(旧暦正月の二日前)、大愛団地では入居祝いの食事会が催された。余文清は子供たちを連れて団地の入口から遠方の式典の盛況を眺めていた。過去四カ月の長い間、余文清に付き添ってきたボランティアは彼の努力と失望を見て彼よりも辛い思いであった。それでも余文清は、「年が明けたら、また工事現場で会いましょう」と、ボランティアと約束した。

はからずも次の日に朗報が届いた。入居の許可が出たのだ。ボランティアは急いでこのニュースを彼に知らせた。余文清はすぐには信じられなかった。ボランティアは彼より興奮し、「早く鍵を受け取りに行きましょう」と促した。

新しい家に入居して一カ月、余文清は工事現場の班長に任命され、生活が一層忙しくなった。半年前に山から下りて前途茫然としていた時と今の自分の大きな変化を顧みる時、彼は過去を忘れてはいないが、過去にこだわらず放念することができた。最も気がかりだったのは、山に残した子供たちのことだった。あの台風による災害の後、彼はついに人生で大切なものは何であるかを悟った。



三月のある日曜日、余文清の両親が孫を連れて山から下りてきて、新居を訪れた。母親は畑でとれた野菜を料理した。

甘えん坊の娘が余文清に走り寄ってしがみついてきた。余文清は左に一人、右に一人、子供を抱いて微笑む。三人の子供はかけがえのない宝である。団地の建築工事が一段落し、子供たちも近隣の学校へ勉強に行けるようになったら、この小さな家庭は一家団欒できるのだ。

原住民の集落を流れる川の至る所で苦花魚が見られる。ツォウ族の人は「まことの魚」と呼ぶ。寒さに耐え逆流を遡る苦花魚は時には二メートルもある滝を飛び上ることができる。大雨の去った後に川の水がきれいになった時、逆流を遡る苦花魚の姿が見られる。

麗らかな春日和、三人の子供たちが青々とした芝生の上を駆けずり回っている。余文清は心から自分の幸福が身にしみた。過去、茨の道を歩んできたが、彼は苦難にたじろがず、強い決意と努力で、安心立命のわが家を見つけた。


◎文・胡青青/訳・重安
(慈済月刊五二一期より)