今年は慈済創立から四十五年目に当たる
大愛の足跡は七十の国と地域に及び
「菩提の大道を一筋に」を
スローガンとして
まっすぐに歩いて来た
静寂清澄の心をもって
慈悲と喜捨に尽くしてきた
菩薩の道は
行けば行くほど広くなる
今年五月九日
潅仏会、母の日、
そして世界慈済の日を祝って
世界各地に
合計二十六万人の人が集った
心を込めて
うやうやしく仏様の御足を洗い
法の水で自らの心を清め
さらにたくさんの同じ心を
持つ人達を導きたいと願う
煩悩にとらわれた心を洗い清め
けがれのない本性にもどろう
そしてこの世に
災難がなくなるよう祈ろう
午後になり、空を覆っていた雲の中から光がさし、台北市中正紀念堂のメインストリートを明るく照らした。夕方近く、幅十メートル、長さ十五メートルの巨大な仏画が門の上に広げられた。二人の飛天が両側に侍る姿がレーザー光線で映し出されると、人々は思わず息をのんで敬虔な心でこの時を迎えた。
菩提の大道を一筋に
覚悟すると智慧が生じる
会場では参加した人達が列を組み、菩提樹の葉と蓮の花を形作った。「菩提の大道を一筋に」をコンセプトに、菩提樹の葉の先端には三百二名の寺の住持や法師達が信者を引き連れて潅仏会に参加している。
「菩提は悟る、目覚めることであり、徹底することをいう。すべての宇宙、人生、道理の真相を知ることである」と、法会に参加した福厳仏学院院長の浄照法師が言った。
「菩提の大道」とは慈済が四十四年来、創立の始より一路前進して来た道で、この菩薩の道がどんどん広がり、この世に愛をふりそそぐこと。より多くの縁ある人々を導くために、四年続けて中正紀念堂で潅仏会を催してきた。そして、心の中の煩悩や迷いを洗い落として本来の清らかな心に返るよう、泥の中に咲く美しく清らかな蓮の花のように、お互いに助け合って世の中の災難をなくしたいと願っている。
宗教の違いを尊重し
我が心を仏の心に近づける
今年慈済は世界三十二カ国で、二百八十八回に上る潅仏会を催し、二十六万二千人を超える人達が参加した。参加者の中には仏教徒だけでなく、カソリック教徒やイスラム教徒、ヒンドゥー教徒などさまざまな宗教を信仰する人たちもいた。お互いを尊重し、力を合せて世の人々の心を清めるため努力している。
「私と妻はあなた方のお招きを待っていました」。これまでに二回慈済の潅仏会に参加したことがある駐台ハイチ公使のMario Chouloute氏は、招待状を受け取りながら言った。故郷のことをいつも心配している彼は、人々が環境保全を大切に考えず、大地を破壊したために天災や人禍の絶えないことを悲しく思っている。「今世界中の人達を心を正しくするよう導く必要があります。心をこめて祈れば災難は避けることはできます。信仰は違っていても、潅仏会に参加することにより、感じるところが多々ありました。それに心もとても落ち着きます」と言った。
マレーシアの憲法では「イスラム教徒に対してイスラム教以外の宗教を伝教してはいけない」と規定されている。しかし、長年に亘って宗教や人種を越えて無私の奉仕を続けて来た慈済の活動は当地でも認められている。イスラム教の熱心な信者であるマラッカ州首席部長(知事に相当)夫人は、「慈済の潅仏会に参加することができて本当に光栄に思います。私の一生の中で初めてこのような仏教徒のおごそかな宗教儀式を見ることができました」と言った。カソリック修道女のクララも、「私も慈済がたくさんのよいことをしているのは知っていました。今日この式典に参加して、慈済の団体がどんな使命を持っているかがよく分りました。本当に立派なものです」と言った。
ドミニカの慈済ボランティアは今年初めて潅仏会をラ・ロマーナ慈済小中学校で行い、大愛村の人達にも参加を呼びかけた。フリアンナはハイチ移民で七人の子供がいる。今年一月初め、上の三人の子供達をポルトープランスの母の所に連れ帰り、母に世話をしてもらうことにした。ところが不幸なことに子供達は地震のため亡くなってしまい、彼女は悲しみにうちひしがれた。フリアンナはキリスト教徒だが、慈済ボランティアが深い関心を持ち、慰め励ましてくれたことに心から感謝している。そして潅仏会に参加できたことをとても喜んでいる。こんなによい機会にめぐり合え、大勢の人達と一緒に心から祈りを捧げ、子供を亡くした悲しみも癒されたことを嬉しく思っている。
グアテマラにいる九十歳のマリアは「私は仏教徒ではないけれど、すべての宗教はみな愛と尊敬の心をもってそれぞれの教主をうやまっていると思います。潅仏会のお祭りで私は自分と仏の心がとても近づいていると思いました。仏は遥か遠い所におられるのではなく、心を込めて祈れば私達のすぐそばにおられるとよく分りました」と言いました。
清らかな蓮の花のような心を
開いていこう
それぞれ色の違った服を身につけた人々が並んで蓮の花と菩提樹の葉を造り出した。それは、人はみな蓮の花のように、泥の中から生まれても泥に染まらぬ清い心を持っているということを表している。そして誰もが自ら修め、人も修めるよう導き、菩提の大道を歩いていこうとの決意が込められている。
◎文・邱蘭嵐、鄭凱文/訳・張美芳
(資料提供・黄鳳框、陳怡伶、呉慈恬、羅秀娟、羅秀蓮、陳行發、江新慧;撮影・蕭嘉明、王賢煌、陳李少民、王志充、黄延録、廖世淙)