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10月14日
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雨季の訪れる前に 救援に駆けつける

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二月二十七日午前三時二十四分、チリでマグニチュード八・八の強震が発生。震央はコンセプシオンの北東に位置する首都サンティアゴ・デ・チレから約三百キロ離れた海域でした。

地震後まもなく高さ二メートルを越える津波が発生し、中南部沿岸一帯を襲いました。約七百人の命を奪い、百万戸を越える住宅が破壊され、被災者が二百万人に達する深刻な被害をもたらしました。チリ政府は、国全体が「災難状態」に陥ったことを宣布しました。

第一波救援行動:
援助物資の配布

チリではこの半世紀でマグニチュード七規模の大地震が七回発生しました。そのため政府は厳格な建築法規を定めています。震度マグニチュード九・〇に耐えうると定める一方、積極的に防災教育を広め、頻繁に来襲する地震の被害を最小限に食いとめようと努力してきました。

この度の地震はマグニチュード八・八という規模に達し、チリ政府は速やかに被災地で各項目にわたる復興作業を展開しました。仮設住宅を建て、軍隊を派遣して救災物資を配布しました。

アルゼンチン在住の慈済ボランティア六名が三月十日、災害状況調査のためチリを訪れました。ボランティアの朱文章は、「私たちがカレタトゥンベスで会った婦人は、津波が襲ってきた時、おばあさんと子供を連れて逃げました。襲ってきた波を振り返った瞬間、子供の手を握っていた手がゆるみ、子供は波にさらわれました。手を伸ばしたが引き戻せず、目の前で子供の命が奪われるのを見たそうです」と語りました。

「婦人は泣くまいとがまんしていました。子供の遺体をさがしあて、押しつぶされて原形を留めていない姿を見たとき、とうとうたまらず泣き出しました」。朱文章は空の彼方をじっと見つめながら、婦人の遭遇を話しました。

八日間の被害調査を終えた後、三月二十七日から二十九日にわたってアルゼンチン、ブラジル、パラグアイなど南米各国から慈済ボランティアがチリ入りし、第一波の人道救援活動を進めました。

災害のひどかったコブケクラ、ディチャト、カレタトゥンベスで砂糖、塩、小麦粉、粉ミルク、毛布などを二千五百世帯の被災者に配布しました。

季節はまだ秋を迎えたばかりでしたが、慈済ボランティアは被災者が越冬するに当たって発生する問題について対処を考え始めました。「テント生活者に毛布が必要であることに気づきました。しかし、テントの数とそこに暮らす避難者の数、何枚の毛布が必要かなどの詳細が分かりません。幸いに現地に住む台湾華僑ボランティアが協力してくれ、必要なデータを集めてくれました」と洪良岱が言いました。

被災地の範囲は広く、政府が急いで建てた仮設住宅は四面を板で囲い、屋根はトタン葺きで、間にあわないので板には防水処理をしておらず、屋根もひさしをつけてありません。風を遮ることはできても雨が降ったらひとたまりもありません。ボランティアは実情を了解した後、毛布と食糧のほかに防水ビニールシートが必要であると確認しました。

第二波救援行動:
越冬の準備

地震が発生してから三カ月を経た五月二十五日、米国と南米各国の慈済ボランティアから成る災害援助チームが再びサンティアゴ・デ・チレを訪れました。四日後にコンセプシオンの北西に当たるQuirihue市とロタ市で、連続二日間にわたって物資配布と施療を行いました。

二百年の歴史を有するQuirihueは人口一万二千人、スペインから独立して僅かに百五十二年のチリでは最も歴史ある町の一つといわれ、南米の伝統的な煉瓦造りの建物が残っています。

煉瓦土蔵造りはロマンチックな南米情緒の特色です。昔の人は生活の智慧を発揮して、粘土に木の枝や葉をまぜたものを天日で乾燥させて煉瓦を造り、煉瓦土蔵の家を建てました。しかし、天災は情け容赦なくこれら美しい建物を破壊し、わずか壁だけが残っています。

Quirihue市南部のロタは四万五千人の人口の貧しい町で、住民の多くは貸屋暮らしでした。震災後家屋は倒れ、政府は再建の補助を承諾したものの、補助の対象は家主であり、住む所を失った住民ではありません。もともと貧しい住民たちが、この度の打撃から再び立ち上がるのは困難なことです。

民衆が無事越冬できるようにと、慈済は五月二十九、三十両日、第二波の援助活動を実施しました。小麦粉や粉ミルクのほか、防水ビニールシートとエコ毛布二枚を各世帯に贈り、あわせて施療奉仕を行いました。

慈済月刊五二三期より
文・曽多聞/訳・王得和 撮影・洪嘉霙、余國維