【浄土人間】
陳新発の人生物語
「鍾おばあさんがいなかったら、
私には何もできなかったでしょう。
また、家内がおらなければ、
私はおそらくすでに
この世にはいなかった……」
過去の全てを感謝して
陳新発は新たな人生を歩んでいる。
「このくらいでよしとするか……」。顔にしたたり落ちる汗水を拭いました。服はすでに汗で変色しています。陳新発はよく晴れたこの日、垣根沿いに草花を植えていました。
「いらっしゃい。どうぞどうぞ」。リサイクルセンターから二脚の椅子を持ってきて私に座るよう勧めてくれ、これまでの人生物語を語り始めました。涙と汗そして肉親の愛とすべてに感謝の気持ちをこめて……。
兄との確執
十三の歳から陳新発は故郷の台東を離れて、花蓮で建設工事を請け負う兄の下で働きました。高校は夜学の土木工学科に進み、昼間は働きました。兄の所は人手不足だったので、高校二年の夏休みから休学しました。
陳新発は休みなく毎日働き通し、一生懸命に努力して建設技術の基礎をかためました。その後担当した工事はすべて問題なく検査に合格しました。
兵役の義務を終え退役してから陳新発は兄に台北で事業を興したいと相談しました。ところが兄は自分のところを手伝ってほしいと言い、そのかわり結婚した後には資本金として二十万元をやると言うのです。「兄はずっと自分を面倒みてきてくれたのだから、兄を助けよう」と決めました。
それから八年間兄のもとで働き続け、三十歳で結婚。兄の住居の向かいに小さな日本家屋を借りて新居を構えました。
翌年の正月明けの仕事始めの日、すでに事業の第一線から引退した兄は陳新発を自宅に呼びました。「兄が『職人の給料は皆支払ったのかね』とたずねるので、『ハイ、皆清算しました』と答えました。すると兄は、『今日からお前は自分で会社を構え事業を始めるのだ』と言いました」。
陳新発はかつて兄が言ったことを思い出しました。二十万元の創業資金をくれるのだろうか、と期待に胸をふくらませていると、兄が金庫から小切手を出して切りました。金額はたったの二千元。
「二千元? 二千元でどうやって暮らしていけというのですか。家賃だけで月五百元ですよ」。小切手を兄に突っ返し、きびすをかえして帰って行きました。
陳新発は兄がなぜここまでも自分にむごいのか理解できませんでした。二十年来兄は自分を食べさせてくれたし、住む場所も与えてくれました。お小遣いももらいました。しかし自分も兄に対し報酬を求めることはありませんでした。貯えも何もなく、家を成して独り立ちするが、無一文で一体どうすればいいのか……。思わず涙がこみ上げ満面を濡らしました。妻が「私たちには健康な体があるではないですか。努力次第で何とかなりますよ」と夫を慰めながら、夫婦共に泣き崩れるのでした。
夫婦の泣き声は隣に住む大家の鍾おばあさんに聞こえました。「なぜそんなに泣いているの? もう泣くのはおよし」。事の顛末を聞いた鍾おばあさんは「いいわ。私が手伝うわ。すべて私がひきうけるから」と言いました。
何もかも失って
鍾おばあさんは早くにご主人を亡くしましたが、子供たちはがんばり屋でみな成功しています。陳新発が創業資金に欠けているときいて、鍾おばあさんはへそくりの貯えを差し出しました。
「最初は五万元借りましたが、そのうちに仕事が次第に拡がり、資金繰りもそれにつれて大きくなってくると、借りる額も増え、最も多い時は二十万元にも達しました。あの頃としてはかなり大きな額です」。中学生の頃から鍾おばあさんは陳新発を知っています。働き者で素行もよく、責任感が強いのをよく知っているので、金額の多寡にかかわらずいつも一つ返事でお金を貸してあげていました。
鍾おばあさんの惜しみない協力を受け、陳新発の事業は順調に伸び、工事はいつも落札できて儲かりました。借金を返済する時には、いつも銀行利息の倍額に勘定して返しました。
一年後、陳新発は十分な貯えをなし、初めて自分の家を建てました。一戸建ての平屋造りで、プールつきです。「当時花蓮に五台しかなかったベンツにも乗っていました。あの頃は私の最も華やかな時代でした」と語るのでした。
かつての栄華を語る陳新発には少しも驕りや得意気な様子は見えません。過ぎた日々は煙のようにはかないものにすぎないと言うのでした。
事業がピークを迎えた頃、工事現場で事故が起き、莫大な賠償を負わされることになりました。陳新発はもう一つの工事に希望をかけました。それは百戸あまりの住宅新築工事で、主要道路に沿った交通の便のよい敷地でした。ところが竣工後、不景気の影響で全然買い手がありません。
資金繰りは行き詰り、ついには銀行の不渡りが発生し、とうとう破産にまで追い込まれました。「あの頃の借金取りといったら恐ろしいヤクザです。妻と三人の子供を台北の妻の実家に送り、面倒を見てもらうことにしました。そして独り花蓮に残って、人生二度目の難関に立ち向うことにしました」。
債務を処理するため金目になるものはすべて売りはらいました。ベンツやプールつきの豪邸など、すべてが夢のように消えてなくなりました。
この時、陳新発は四十六歳。事業を起こす苦労と失敗したときの恐ろしさを身をもって経験しました。債務の処理が片付いたら、永遠にこの世を去ろうと秘かに心に決めていました。
「幸い、家内には物事を適切に処理する理性と智慧がありました」。妻は債務処理のことだけではなく、夫の精神面を気遣っていました。毎日夜の十時には必ず台北から花蓮に電話をかけてきて、「心配しないで、おそれないで。健康な命さえあればいつでも立ち上がれる」と励ますのでした。妻が毎晩かけてくる電話が、ともすれば厭世的になりそうになる陳新発の気持ちを持ち直させました。
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債務の処理が一段落した頃、陳新発は台湾北部の中壢という町で工事現場監督の職を得、妻も電子工場で働くことになりました。辛く厳しい日々でしたが、子供のため歯を食いしばって耐えました。
子供が大きくなった頃、陳新発はあらためて会社を設立して建設業に従事することにしました。従業員が僅かに十数名の今の会社は、百名を越す従業員を持っていたかつての花蓮での会社とは比べものになりませんが、「こつこつと働き、日々の糧に足りればそれで十分です」と満足げに言います。
今、事業はすでに子供に譲りました。過去の人生を振り返り、兄に対して抱いていたわだかまりもすでに消えました。おかげで鍾おばあさんに世話をしてもらう縁に出会えたと、かえって兄に感謝しています。「鍾おばあさんがいなかったら、事業を起こすことはできなかったでしょう。そして、家内がおらなかったら、私はすでにあの世に旅立っていたかもしれません」。
陳新発は今まで両手にかたく握っていた金銭を手放すことができるようになりました。あれやこれやと神経をとがらせて人と争うこともなくなり、すべて縁に従おうという気持ちになりました。今、一家揃って暮らせることは金銭で買えるものではないことを身にしみて感じています。
文・黄開元/訳・王得和/写真提供・陳新発