林裕発は毎朝ジョギングする時、必ず運動服をパンツの中に入れ、肩の線を整えて皺を伸ばす。
奥さんの傅靖雅は、ジョギング中に窮屈にならないように運動服を引っ張りだしたら、と提案するが、彼は首を横に振って、「駄目だよ、外に出たら学生に出会うから。普段から学生に服をパンツの中に入れるよう言っているから、自分もそうしなければいけない」と言う。
その話になると傅靖雅は心が温まる感じがした。「当時、主人は既に癌の末期でしたが、それでも身なりで学生たちに模範を示していました」。
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傅靖雅は林裕発と大学で出会い、結婚して十年になる。しかし、その大半はすれ違いの生活であった。彼女が大学を卒業した時、彼は大学院を卒業し、彼が高雄で兵役に着いていた時、彼女は台北で会社勤めをしていた。彼が退役後、台北で勤め出した時、彼女は病気の父親を介護するため嘉義に戻っていた。
結婚してから彼は妻と一緒に暮らすために嘉義に戻ることを選んだ。しかし、彼女はその時、阿里山の中学校に勤めることになった。二人は休日だけの夫婦だった。やっと彼女が下山してきたと思ったら、彼の方が遠く花蓮の学校に教師として赴任することになった。
「その時、私が止めていたら彼は行かなかったと思います。しかし、彼は慈済教師会に参加していた折、花蓮の慈済小学校を参観し大変感銘を受けました。憧れの地であった慈済小学校への赴任が決まった時、私は反対しませんでした」
六年前、林裕発は技師としての仕事をやめ、花蓮慈済小学校の教師になった。妻は一人で嘉義に残り、仕事を続けながら舅と姑の面倒を見た。林裕発には教師の経験はなかったが、長年教師をしてきた妻でさえ、教師という仕事が彼の天職だと思うほどよい先生であった。
「小学校の年頃は人格形成において最も重要な時期です。この時培われるべき道徳や品行の教育は一朝一夕にしてできるものではありません。彼はその重要な役割を担うことができる人なのです」と傅靖雅が言った。
毎週木曜日の夜間教室
林裕発は百八十八センチの長身とがっしりとした体格の持ち主であった。父兄や学生たちはこっそり彼のことを「巨人先生」と呼んでいた。しかし、体は大きくても繊細な心の持ち主であった。
教育熱心で、毎週木曜日はクラスの「勉強の日」。宿題を直したり全部書き終えるまでは帰ることができなかった。
時には夜の八時や九時になっても、宿題をしている子供がいた。父兄が学校へ迎えにきても終わるまでは帰してくれない。早く子供を返してくれと先生に言える人はいなかった。「先生も子供に付き添ってお腹を空かし、最後の一人が帰ってから食事をしていました」。
父兄の一人、何さんは、先生は子供にあれこれ要求するだけでなく、自分から身をもって模範を示していた、と言った。「身をもって模範を示していたので、どんなに子供を甘やかしていたお祖父さん、お祖母さんや親も誰も、先生の手から子供を助け出すことはできませんでした」。
毎日、八~九時間も一緒にいると、先生と生徒の間に親近感が生まれる。生徒の成績が悪くても、叱ることはせず、放課後は生徒にできるまで教えるのだ。
子供の中には学校の成績がよくなくても、演劇や舞踊の才能がある子もいる。そうした子供には演劇コンクールで中心的な役をやらせ、舞台稽古の主導権を与えて、彼らに自信を持たせた。
また、彼は体育の時間が週に二回しかないことに気がついた。元気がよすぎる小学生には物足りない。だから、クラス全体が良い子にしていたとき、屋外で球技をした。
このように愛から出た厳しい教育をする先生を子供たちは自然に好きになり、尊敬した。
「先生はよく台湾語なまりの北京語になるので、生徒に笑われていました」と父兄たちがその話になると笑い出した。笑われた先生も困るどころか、一緒に楽しんだ。
クラスのルール
その一:
嘘をつかない
林裕発が受け持ったクラスのルールその一は嘘をつかないこと。彼は身なりや品行、道徳を重視した。時には授業で静まりかえった学校全体を揺るがすような大声が聞こえてくることがあった。「私たちの行いが悪かった時、先生が怒り出したのです。本当に怖かった」。
クラスのある女子生徒が仲間はずれにさせられた。先生は家庭訪問した時、その子にこう言った。「もし、同級生が間違ったことをしたのなら、すぐに先生に報告して何とかしてもらうべきだ。もし、何も言わずにいたら、相手の悪い行いを助長させるのに等しい」。
「分かるかい」と聞くと、女の子は恥ずかしそうに頭を縦に動かして、小さい声で「うん、うん」と答えた。しかし、始終うつむいていたので、林裕発は少し体を乗り出して、穏やかだがはっきりした口調で言った。「他の人が君に話をしている時は、顔を上げて相手の目を見るものだ。これが礼儀というものだ。そして、答える時ははっきりと答える。これは相手を尊重することだ」。
この話になると、その女の子の両親は感謝の気持ちでいっぱいになるのだった。
林裕発は父兄とのコミュニケーションを重んじていた。かつて、ある別居していた両親に子供の教育についての考え方を一致させるために、双方とそれぞれ三時間も電話で話し合ったことがある。「教師と生徒と親の三者が一緒になって初めて子供に完璧な教育を施すことができるのです」と林裕発が言った。夜中の十二時でも、父兄からの相談の電話を受けた。
あきらめないが
執着もしない
花蓮で四年間教師をした後、林裕発は彼が担任をしていたクラスの卒業を待ってそこを離れ、台南の慈済小学校に転勤した。そこは嘉義の実家に近い。
その半年後、彼は肺腺癌を患い、約半年の余命と告知された。
「私たちはいつも最悪の場合を想定しました。彼は家計のことを少しずつ私に教えるとともに、大小様々なことも後を託しました。一方、私たちは希望に満ちた態度で現実に向かい合いました」と傅靖雅は言った。
病状が分かり、二人とも休職の手続きを済ませてから花蓮の慈済病院で治療を受ける決心をした。
花蓮では大勢の人が彼らを待っていた。話を聞きつけてやってきた生徒とその父兄たちだった。「先生を見ると笑顔を作ることができませんでした。逆に先生の方が気楽な感じで、マスクこそしていましたが、笑顔を見てとることができました」と父兄の一人である何さんが回想した。
療養期間中、「心の準備ができましたか?」と聞く人がいたが、彼はいつもの笑顔で、「絶対にあきらめはしませんが、執着もしません」と答えた。命はかくも短いものだが、慧命は消えることはない。彼には次の任務と使命がある、と思った。
林裕発は一貫した前向きの姿勢で毎日オーガニックフードを食べ、ジョギングをしたり、気功を学んだりした。その他に余った時間を学生やその父兄のために割いたり、妻と共に過ごした。
同僚が忙しい中、時間を見つけて見舞いにくるのを心苦しく思い、日課の運動を済ませてから慈済小学校に顔を出し、元気であると報告した。彼の汗をかいた運動服や色白の中に赤みがさした顔を見て、誰も朗らかな笑い声を上げていた裕発先生の病状が急速に悪化していたとは思いもよらなかった。
病状を最もよく理解していた傅靖雅でさえ、よく夫の通常と変わらない様子と良い血色に奮起したものだ。「彼は最後まで、体が痛くても笑顔を絶やしませんでした。私はずっと夫が良くなると信じていました」。
愛とともに歩めば
人生に悔いはない
入院期間中、同僚が毎日、野菜たっぷりの特製スープを持ってきたり、父兄たちが三食の手伝いをしにきた。生徒たちは電話をかけてきたり、放課後に見舞いにやってきた。節句毎には皆で集まって祝福した。後に夫婦で嘉義に戻って両親と共に暮らすようになっても、何人かの父兄は毎日、遠くからバスで通い続けた。それはただ、彼の世話をするためだった。
「皆がこんなに尽くしてくれて、私は本当にラッキーだ、と彼がよく言っていました」。やはり教師である傅靖雅には彼の心の感動がよく分かる。「もし、今、命が終わるのであれば、何も悔いはない、と彼はよく友達に話していました」。
この一年間の療養生活は、彼ら夫婦にとって最も大切な時間であり、一番長く一緒に過ごした時でもある。この期間、二人はいつも幸せそうだった。
二月二十八日の早朝、傅靖雅は夫の手を掴んで眠っていた。しばらくして側に寝ていた夫に起こされた時、離別の時が来たのを悟った。
「息ができない。もう、だめかもしれない……」。林裕発は喘ぎながら言った。傅靖雅は時間を無駄にせず、心の底から話しかけた。「あなたは本当の菩薩なのよ。それに私の誇りよ。あんなにたくさんの生徒や父兄に慕われてきた。私も精一杯見習うわ」。林裕発は妻を見て笑顔で返した。
「万一、望んでいない結果になっても、互いに祝福し合いましょうね」。彼はやはり分かったという笑顔を返した。
傅靖雅も笑顔になって夫婦の絆を確かめ合った。「あなたを愛してるわ」と言ったその時、林裕発は力を振り絞って、大声で同じ言葉を返した。やがて彼の鼓動は弱くなり、停止した。
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六年前、慈済小学校五年生だった沛緹は、教職に就いたばかりの林裕発に質問した。「先生には何人の子供がいますか?」
彼は笑顔で、「二十八人です。君たちが僕の息子や娘だよ」と答えた。
だから先生が亡くなった時、沛緹はお母さんに、「私もお葬式に行きたい。先生の子供として見送るの」と言った。
林裕発の告別式は三月中旬に行われた。様々な地方に住んでいる教え子やその父兄たちは、先生の告別式に参加するために集まった。家翔の両親のように、その日に来られなかった人は週末に子供を連れて車で往復十四時間もかけて嘉義へ焼香に来た。
教師は子供たちに教科書の知識を与えるだけではない、教師本人の人格や性格も子供たちに大きく影響を与える、と慈済小学校の王佩茹先生は言う。「裕発先生は何かに行きづまるといつも、前向きに考えて物事を解決し、執着しない態度で臨んでいました。無駄な時間を費やして不安定な情緒に浸ったりしませんでした。病気や死に対してもそうでした」。
彼の人生は最も輝かしい四十一歳で終わった。しかし、最後まで教師であった。前向きに正しい考え方で送ってきた人生はすべての人の手本となっている。
慈済月刊五〇八期より
文・凃心怡/訳・済運
写真・慈済大学付属小学校提供